ちくま文庫

本当に好きなのはあなた
森まゆみ著『「即興詩人」のイタリア』

 三月十一日午後二時四十六分に起こった、東日本大震災の津波の被害がしきりに報道されているさなかに、ポンペイの大噴火を思いながらこれを書いている。わたしは森さんがどんなに震えあがっているかと気遣って、間髪を入れず電話をしたのに、通じなかったのだ。海に驚かぬ森さんでもあの津波には驚くだろう。そういえば『即興詩人』のなかにはベニスの海の遭難のはなしもある。

 イタリアへは何度目だったか忘れた。スケッチに行くうちに、イタリアの魅力にとりつかれ、講談社の広報誌「本」の表紙に、わたしの青春の書でもあった「即興詩人」の絵を連載することになった。そのとき、文章まではたいへんなので、『鴎外の坂』を書いている森まゆみさんに文章を頼もうということになった。
 森さんの取材ぶりというのをはじめて見たが、徹底的に歩くので、足の弱いわたしはほとんど別行動で絵を描いた。
 ポンペイでは、アンデルセンの書いている場所にどうしても出会わない、そんなはずはないと、探しに探し、夕刻になってついに違う入り口を発見し、若干の心付けを払って入ったら、全く本に書いてあるとおりの光景だった。ローマ時代の人が腰をかけて休んだ石の椅子に座って、みんなを待っていると、見事な月がのぼってきたものである。
 バチカンでも、絵の配列や部屋の順序がちがうといって、森さんは歩きまわり、ついに昔と今とでは入り口がちがうこと、今は入ることのできない部屋があることを突き止めた。
 アンデルセンが、イタリア第一の滝と書いているものが、実は人工の滝であることが判り、その滝の上までのぼったが、森さんは滝壺へ下りる小道を下まで行ってみるといってきかなかった。わたしは上でお茶を飲みながら森さんが帰ってくるのを待った。たしかに見事な滝で、幅が二メートルはあると思える川を絶壁に導き、忽然と足がかりを無くするというものだった。それは虹をつくるためだったかとおもえるほど、見事な虹が現れるのだった。
 エルコラノでも、その地下にあった劇場のあとは立ち入り禁止なのに、強引に許可をとって、入り込んだ。
 そういえば、ローマ市内のボルゲーゼ邸(いまはマンションになっている)は、監視員がいてだれも入れない、私が交渉しているうちに、体をすくめて庭に入り込んだのは森さんだった。そしてその中の様子が『即興詩人』に書かれているとおりであることをたしかめた。また、その屋敷前の広場は古本の店が集まっているが、森さんはその古本屋で、わたしが十年来探していた「バルベリーニ広場」の銅版画を見つけたのである。天はその執念のある女性に味方をした。
 キケロの墓は、柵で囲まれていて、一般人は入れない、私も何度も見たのに入れなかったが、森さんはしかるべきところに交渉してその墓の内部をみた。写真などの他、たいしたものはなかったが、そういうことがわかるためにも入ってみる価値はあった。
 ナポリでは、女が一人で泊まるのは危険な感じの、あのソフィア・ローレン出演の映画「昨日・今日・明日」(第一話)の、いわば壊れそうなマンションばかりの間に建つホテルに泊まりに行った。そして最後には、とめるのも聞かず、あのグロッタアズーラ(青の洞窟)の中にまで泳いで入ったのである。察するに、そんな無謀なことをした初めての日本人ではないかと思う。
 それよりまえ、スイスの山越えをするとき、ひどく怯え、「まだ死にたくない」と、しきりに絶叫して後もどりを強いたのに、車がターンする場所がなかったときのことをおもえば、森さんは山が怖く海は平気、というより海を見てさえいれば心が落ち着くのかと思われる。
 そうした『即興詩人』の足跡は今、グーグルで詳しく見ることができる。じつはローマやベネチア、ツスクルムなどを検索してみた。その通りの風景は出現するが、なんだか全くしらけてしまう。文学と実際の写真とはそんなにも違うものなのかもしれない。

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