ちくま学芸文庫

「澤田先生」史談

「解説」にかえて

著者のお近くで謦咳に接してこられた早稲田大学教授・堀誠先生に澤田先生の学問的全体像をお書きいただきました。

 澤田瑞穂著『中国史談集』はミレニアムの2000年4月に早稲田大学出版部から上梓され、多くの読者をその史談の世界にいざなってきた。17年の歳月を経て「ちくま学芸文庫」に加えられることは大慶至極である。より幅広い層の方々に親しんでもらうことができよう。
 旧版上梓翌月の5月23日、著者がめでたく米寿を迎えられたことは「あとがき―「史談」夜話」(本文庫版にも再録)に紹介したが、著者はいかなる生い立ちにあるのか。著された論著書は、『中国の文学』を振りだしに、『宝巻の研究』『地獄変―中国の冥界説』『校注破邪詳弁―中国民間宗教結社研究資料』『仏教と中国文学』『鬼趣談義』『中国動物譚』『宋明清小説叢考』『中国の泰山』『中国の民間信仰』『金牛の鎖―中国財宝譚』『中国の呪法』『芭蕉扇―中国歳時風物記』『笑林閑話』『閒花零拾―中国詩詞随筆』『中国の庶民文芸―歌謡・説唱・演劇』『中国の伝承と説話』『中国史談集』(訳書・詩文集等は除く)と多岐広範なジャンルに及んで八面六臂であるから、その人となりや学問的な生い立ちにまつわるさまざまな情報を得たいとの思いにかられている向きも少なくないであろう。
 近年は定年退職にあわせて賀寿を祝う記念論文集の企画数も減っているが、そうした論集には往々にして、研究者自身が自らベールをぬぐ訳でもなかろうが、自らの歩みを回憶自述する一文の付されることも少なくない。幸い本書の著者にもそうした文章が残る。まさに自ら語るに如かず。「澤田瑞穂教授還暦記念特集」と題する『天理大学学報』第85輯(昭和48年3月)所載の「枕簟自語―自訂著作目録跋―」の冒頭の一節である。

    琪樹の西風 枕簟(ちんてん)の秋
    楚雲湘水 同遊を憶ふ
    浩歌一曲 明鏡を掩ふ
    昨日の少年 今(きょう)は白頭
                ―許渾「秋思」
 これまでは他人事と思い過してきたのが、自分もまたアレヨといううちに還暦という年齢の峠を越えてしまった。首(こうべ)を回(めぐ)らして往日を想うに、歳月飛梭、まさしく唐の詩人が嘆じた「昨日少年今白頭」の感慨である。

 唐の許渾の七絶起句にいう「枕簟」の語をタイトルにとる。「枕」はまくら、「簟」はたかむしろ(竹席)。「枕簟」は、夏秋に涼をとる寝具。秋の時節への移ろいに、思わず我が身の老いを思う。結句には「昨日」と「今」の時間ならびに「少年」と「白頭」の容態を対比して詠う。まさに機はたの梭ひを飛ばすように歳月が瞬時に過ぎ去った「還暦」の感慨を、詩篇を借りて明かすとともに、文章は昨夏、ご母堂ともども家族そろって故郷高知に長期的に帰省して海釣りに明け暮れたことから、往昔を回憶し自己を談じる。

 郷里―高知県幡多郡白田川村伊田(いだ)。現在では町名変更で幡多郡大方町〔平成十八年に佐賀町と合併し黒潮町となる〕伊田という海に臨んだ半農半漁の村である。生れたのが明治四十五年五月二十三日、それから二カ月後には大正と改元されたから、わたしはきわどいすべり込みの明治人である。しかしこれでも確実に明治・大正・昭和の三代を閲(けみ)しているのだから、かりそめにも大正生れなどとは言ってもらいたくない。

 三代はおろか「平成」にいたる四代を閲されたが、この高知の海辺の村で小学校3年まで過ごして大阪に移住。市岡中学校から國學院大學高等師範部に進学した経緯と学問的な好環境を記しては、当時の錚々たる教授陣の名が列星のごとくに挙げられ、その一人である折口信夫への私淑と自らの大志も語られる。

殊に折口先生による民俗学・古代研究が鬱然として興っていた。ただ一葉のメモ用紙を手にした先生の幽奥深沈たるユニークな日本文学発生史の講義を聴くもの、多くは魅せられてほうとなった。講義とはいいながら、なんとなく鬼気せまるものがあった。その鬼気にかぶれたか、わたしもひそかに民俗学的方法を中国文学の研究に導入するか、もしくは中国民俗学の新しい一科を樹立してやろうなどという野心を懐いたものである。

 さらに「たまたま大学の講堂で、折口先生により、武蔵の車人形とよばれる説経節人形芝居の一座が招かれ、その演出による刈萱だったか照手姫だったかを観て大いに感動した」著者は、「説経浄瑠璃の幽暗陰惨で中世的・夢幻的なムードが何ともこたえられない魅力で、わたしが後に中国の仏教唱導文学や、中国の説経節正本ともいうべき宝巻文学に強い興味を持つようになったのも、車人形の印象と関連があるような気がする。」と学究の源泉に関わる感懐も述べておられる。
 不況のドン底にあった昭和9年(1934)に卒業。同11年9月から専門学校等の講師を務め、同15年2月には勇躍して在北京日本大使館嘱託として渡燕。一日の公務が終わると、書攤(しょたん)を一巡し、茶館で茶を喫しながら買ったばかりの本を繙くのが日課であった。休日には城内城外の寺廟古蹟を巡り、東安市場や瑠璃廠の古書店に足を運んだという。当時の蒐集の成果である李伯元主編の『繍像小説』や宝巻類は、今日的にも重要な文献資料となっている。
 この北京時代の昭和16年(1941)8月には、「折口先生」が来燕する。その滞在をめぐる「喜鵲の歌」(『芭蕉扇』所収、1984年5月、平河出版社刊)には、日本大使館の門を出て、楊柳の木陰を歩いて案内した折の記憶の光景を描出する。頭上の茂みでギャーギャーと喧(かまびす)しく鳴き嗓(さわ)ぐ数羽の鳥を見あげて、「あれは何という鳥ですか」と訊かれて、深く考えもせず、「あれは朝鮮ガラスとか高麗ガラスとかよばれる鳥です」と答えると、それ以上には訊かれなかった。
 この脳裏の一コマ一コマから一つの思いが去来する。

 あとから考えると、先生はあの時に楊柳の樹間を飛びながら鳴き嗓ぐ喜鵲に興を惹かれて歌一首を案じておられたのだ。(略)もし喜鵲という詩的な鳥名さえ知れば詩歌の題材にもなる。それなのに、わたしは、軽率にも朝鮮ガラスなどという俗な名称を口にして先生の歌興をそぎ、せっかくの北京詠草一首をフイにしてしまった。当然「あれは喜鵲とよんで、朝早くこの鳥が鳴くと云々」と答えるべきであった。それならば先生の歌集中に喜鵲の歌が遺されていたはず。わたしは今も自分の迂闊さが悔まれてならない。この間抜けの阿呆ガラス!

 この一事のみならず、常設小屋の勝友軒という影戯(インシイ・影絵芝居)に案内すると、しばらく芸人の操りの技芸を観察して「これで影絵芝居というものの大体がわかりました」と話されたことも書きとめる。また中国の民間信仰の一端を紹介すべく東嶽廟を訪ね、古書店に立ち寄っては『東観漢紀』を入手されたこと等々を記すと、「東交民巷のあの喜鵲の鳴き声も、歌に詠むには、いささか雅致を欠くもので、わたしが仮に朝鮮ガラスではなく喜鵲ですと答えたとしても、果して先生の一首に登場する光栄を獲たかどうかは疑問である。あの白黒の羽の色と、食用蛙のような濁った鳴声では……。」とも再説している。
「折口先生」に対する終生の深い思い出であったといってよいが、その一年後の昭和17年(1942)8月に帰国。太平洋戦争の戦局が深刻化する中にあって、同19年5月には東亜交通公社華北支社附属伝習所の主任講師として再渡航。北海公園の北側、什刹海(シイチャハイ)の西岸の風光明媚、詩趣横溢の生活環境にあったが、同20年8月の敗戦を迎え、翌年3月にやっと帰国して郷里土佐にたどりつく。その後、埼玉県の中学校を皮切りに高校で教鞭を執り、同32年春に天理大学に着任、還暦をもって同48年3月に定年退職。一年おいて同49年4月に早稲田大学着任、在職9年にして古稀をもって同58年3月に定年退職。折しもその年次は早稲田大学創立百周年に当たり、大学の「百周年記念」と「澤田瑞穂博士古稀記念」を掲げる早稲田大学中国文学会『中国文学研究』第8期(昭和57年12月)には「澤田瑞穂博士著作繫年目録」を、同会『集報』第8輯(昭和58年3月)には「つばくろ文―戯訳燕子箋伝奇序齣并小引―」を収載することを付記する。
 喜寿、傘寿と年を重ねられ、米寿となるミレニアムの4月に刊行されたのが『中国史談集』に他ならない。辟穀(へきこく)長生の仙人さながらの「澤田先生」であられたが、2年後の2002年1月28日、期せずして仙籍に入られ、かくて『中国史談集』は強健な筆力を誇られた先生の最後の著書となったのであった。
 私家版の詩文集『憶燕集』(昭和47年11月)・詩集『晩花集』(昭和58年3月)には詩文を愛好する先生の日常がまたうかがえる。

    霜晨
  桑も槐もしとどなる
  霜の落葉を掃きよせて
  焚きいづるより立つけぶり
  喜鵲(きじやく)は朝を啼き嗓(さわぐ)

 これすなわち「喜鵲の歌」の末尾に、「わたしは、あの不雅で不運な朝鮮ガラスのために、先生に代り、せめて喜鵲の歌一首を詠じてやりたい」と掲げられた一詩に他ならない。これこそ『憶燕集』所載の「憶燕詩鈔」の一詩であったことを記して、著者に関する史談の結びとする。

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