ちくま文庫

キングが明かす「恐怖のツボ」の突き方
スティーヴン・キング/安野玲訳『死の舞踏 恐怖についての10章』解説

モダン・ホラーの帝王スティーヴン・キングが自身のホラー体験を圧倒的ボリュームで綴った『死の舞踏』。9月に増補・改訳決定版としてちくま文庫で復活した同書に、新たに収録された町山智浩さんによる解説を公開します。エッセンスの紹介におさまらず、本編には直接書かれなかったキングの内面まで浮かび上がらせる名解説です。ぜひご覧ください。

 筆者が『死の舞踏』を初めて読んだのは遅かった。一九九八年、アメリカのニューヨーク州シラキュースに住んでいた頃だ。
 妻がシラキュース大学で修士課程にいる間、自分も暇つぶしに州立オノンダガ大学で「ホラー映画」の授業をとった。高卒なら誰でも入れるコミュニティ・カレッジだったが、担当のダグラス・ブロード教授は『ロバート・デ・ニーロ』(一九九三年)や『シネマの天才スティーブン・スピルバーグ』(一九九六年)などの著書のある映画研究家で、毎週、学生にホラー映画を観せて、いろんな質問を投げかける。
 『カリガリ博士』(二〇年)は元祖夢オチだが、元のシナリオ通り、事実として描いたら、テーマはどう違っていたか? 『フランケンシュタイン』(三一年)のフランケンシュタイン博士は結婚もせずになぜ男の人造人間なんぞを作っていたのか? 『ハウリング』(八一年)の狼男はなぜ長髪でピース・バッジをつけているのか? そして、みんなでああでもないこうでもないと意見を闘わせる。こんなに楽しい授業は日本の大学にもあるんだろうか?
 その授業で教科書として使われたのが、デヴィッド・J・スカルの『モンスター・ショー怪奇映画の文化史』(一九九三年)と、『死の舞踏』だった。どちらもホラー作品の裏に隠された作者のトラウマや、無意識に反映された時代を読み解いていく。ただ、スカルのような学者と違って、キングは作家であり、論旨を簡潔に明確に整理するのが仕事ではない。
 キングはいつものように饒舌に、横道に逸れたり、行ったり来たり、試行錯誤しながら、意識の流れに逆らわずに進んでいく。このジェットコースターはいったいどこに向かってるんだ? と戸惑いもするが、話しかけるような口調と頻繁にはさまれるジョークのおかげで楽しく読み続けられる。
 そして、読み進むうちに、この『死の舞踏』は、評論でもあり、自伝でもあり、社会史であって哲学書でもあると気づく。

 まず基本的に『死の舞踏』は、ヴィクトリア朝から現在までの、映画、ラジオ、テレビ、小説におけるホラーの代表作を、基本的に時代順に、スティーヴン・キングが論じた書である。だが、ただの評論ではない。キングはホラーの名作を、それと出会った自分の体験を絡めて語っていく。だからキングの自伝としても読める。
 さらにキングは、それぞれの作品がなぜ怖いのかを分析する。だからこれは作り手にとっては技術的な指南書でもある。キングは、ホラーの傑作は「恐怖のツボを突く」ことだという。そして、ツボには社会的な恐怖と心理的な恐怖の二種類があるという。各作品の社会的な恐怖のツボを探り当てることで、生々しいアメリカ社会史になっている。また、心理的な恐怖のツボを考えることは、人間とは何かを知ること、つまり哲学になる。
 そして、キングの愛読者にとっては、彼の創作の源泉を知ることができる。キングは他の作家の作品を分析しながら、言外に自分の作品の書き方を語ってしまっている。

 本書と似ている本には、筒井康隆著『SF教室』(一九七一年)がある。ポプラ社から小学生向けの入門書として出版されたが、まず「SFとはサイエンス・フィクションの略」という定義から破壊してしまう。なぜ、科学的にはいいかげんなレイ・ブラッドベリがSFで、科学小説がSFとは呼ばれないのか? 『SF教室』といいながら、答えるよりも逆に問いを増やしていく。そして、サイエンスには社会学も政治学も文学も精神医学も哲学もある、と戦線を拡大して、さらに読者を混乱させる。筒井康隆は時をかけ、宇宙をかける思考実験の果てに、この「もしも」こそがSFではないか、と提言する。当時、この『SF教室』は多くの学校図書館にあり、筆者のような一九六〇年前後に生まれたSFファンに、H・G・ウェルズやロバート・A・ハインラインよりも大きな影響を与えた一冊だ。

 この『死の舞踏』でも、キングは「そもそも怖さとは何か?」という根源的な問いから語り始める。
 まず、本書全体を貫く、キングの大きなテーゼは「ホラーには寓意性がある」ということだ。意図しようとしまいと、怪物は怪物そのものではなく、現実に我々が恐れている何かのメタファーなのだ、と。だから怖いのだ。人々が恐れている弱点を「武道で敵の不意を突く」ように狙う。それがキング曰く「恐怖のツボを突く」ことになる。
 恐怖には三段階があるとキングはいう。①嫌悪(リヴァルジョン)、②恐怖(ホラー)、③戦慄(テラー)だ。ホラーとテラーの違いって?
 嫌悪とは「ウゲッ」という生理的な不快さ、痛さ。スプラッター映画の残酷シーンや腐ったゾンビ、ミミズやネズミなど。キングはいちばん低劣な怖さだと言いながら、「〝ウゲッとなる〟は芸術である」とも書く。キングの小説が当初バカにされたのは、嬉々としてECコミックス(五〇年代の低俗ホラー漫画)のようなゲロゲロ描写をするところだ。本書でもちっとも怖くない馬鹿ホラー映画にわざわざ一章割いているのも趣味丸出しでいい。
 第二段階は恐怖(ホラー)。これはゾッとする感じ。暗闇が怖い。墓場や幽霊屋敷が怖い。得体のしれないものがいそうな怖さ。そこから一線を越えると戦慄(テラー)になる。悲鳴が上がる。致死に限りなく近い体験。
 キングは恐怖体験を一九五七年のスプートニク・ショックから語り始める。衛星軌道上からソ連に核攻撃される時代が来た。それはまさしくテラー、死の恐怖だったろう。
 そしてキングは、ホラー小説の古典をモデルに、モンスターを分類する。
 ひとつは「吸血鬼」。これをキングはセックスの恐怖だという。セックスが恐怖? 実は性的欲望や誘惑を怖いものとして描いた作品は多い。『キャット・ピープル』(四二年)『獣人島』(三二年)『反撥』(六五年)……。『牡丹灯籠』も『危険な情事』(八七年)もそうだろう。誘惑されて滅ぼされる。それにスプラッター映画の多くが、セックスした者から殺される。当のキング自身が、本人も言っているようにセックスの恐怖を描かないのも面白い。よほど怖いのかもしれない。
 ふたつ目のモンスターは「人狼」。狼男やジキルとハイドのように、普通の人が隠している野獣性、狂気。これもセックス絡みが多い。『禁断の惑星』(五六年)の無意識(イド)の怪物も、父親の娘に対する近親相姦的感情だった。
 三つめは「名前のないもの」。キングは『フランケンシュタイン』の人造人間や『遊星よりの物体X』(五一年)の異星生物をこれに分類する。そりゃ、どっちも名前がないからね! この他に幽霊がいるが、キングは別枠として後で説明する。
 このモンスター論でキングは勇敢にも身体の欠損、肥満、異形について論じる。それを恐怖するのは無秩序に対する恐怖だという。ナチが心身障碍者を抹殺したように。異形への恐れを不良少年に対する恐怖とつなげるのも面白い。六〇年代、カウンター・カルチャーという文化革命を起こした若者たちは自らを「フリーク(異形の者)」と呼んだからだ。それはレスリー・フィードラーの『フリークス 秘められた自己の神話とイメージ』(一九七八年)に詳しいが、後ほどキングが自作『キャリー』(一九七四年)における、イジメられっ子の女子高生キャリーが街を焼き尽くす結末を「虐げられた者の革命」と呼んでいることと呼応する。
 キングはホラーとは秩序の崩壊を恐れる気持ちだと繰り返し強調する。つまり日常に亀裂が入ること。キングは秩序をアポロン的、それを破壊する混沌をディオニュソス的と呼ぶ。これはニーチェの理論に基づいている。ニーチェは、ギリシアの太陽神アポロンに秩序や調和を求める衝動を、酒の神ディオニュソスに祝祭や陶酔を求める衝動を象徴させたが、キングは、ディオニュソス的混沌は恐怖の根源だとする。
 これと関係することになるが、キングは恐怖を、その原因によってふたつに分ける。ひとつは主人公の意志による行動の報いを受けるもの。墓を暴いた者が呪われたり、殺人犯が幽霊に呪い殺されたり、因果応報、バチが当たるの類。これには教育的効果がある。これは怖いようで怖くない。防御策として悪いことをしなければいい。ここには秩序がある。
 もうひとつはまったく逆に、主人公に責任のない外部から突然襲われるもの。キングは旧約聖書のヨブ記がこれだという。ヨブは信心深い真面目な男なのに次々に不幸にあい、どん底で神に不平を訴えると、神から「神の考えは人間には計り知れないのだ」と叱られる。聖書ではこの後、ヨブは幸福になるのだが、現実はどうだろうか? 天災や病気や事故や殺人は、何の罪もない人々を滅ぼし続ける。秩序はない。キング曰く「実存主義的恐怖」だ。こちらのほうが恐ろしい。秩序はないから防御策もない。

 この恐怖にキングはあまり突っ込まない。キング自身は神を、秩序を信じているからだ。
 『シャイニング』(一九七七年)を映画化する際にスタンリー・キューブリックがキングの自宅にいきなり電話をかけてきて「君は神を信じているのか?」と尋ねた話は有名だ。キングが「イエス」と答えるとキューブリックは電話を切った。
 キューブリックは当時のインタビューで「幽霊を信じるのは楽観主義だ」と語っている。「それは魂の不滅を信じることだから」本当に恐ろしいのは幽霊がいないこと。霊魂も神もあの世もなくて、死んだら何もかも消滅すること。だから、死は最大の恐怖なのだ……。
 キングはキューブリックの『シャイニング』(八〇年)に「見当違いでがっかりな映画」と怒り、新版のまえがきでもグチってるのがおかしいが、これについては後述する。  キングの分類は続く。ホラーが突く「恐怖のツボ」には社会的恐怖と個人的恐怖がある。前者は社会派ドキュメンタリー的で、後者はおとぎ話的になる。この社会派ホラーの解説は本書の見せ場のひとつだ。『悪魔の棲む家』(七九年)は格安住宅を買ったら金食い虫だった恐怖だという説には思わず膝を打つ。筆者もアメリカで最初に買った家が格安で市が頭金まで貸してくれたのだが、住んでみたら周囲はギャングの縄張りで、近所の学校は荒廃し、水はけが悪くて蚊が多くて、下水工事や何やらで散財したうえに、頭金の金利が高くて大損した。
 『エクソシスト』(七三年)が世界中で大ヒットしたのは、子どもの反乱が隠された真のテーマだから、という分析の正しさは既に証明されている。日本で父が娘の不良化を綴った体験記『積木くずし』(一九八二年)の映画化(八三年)は演出から撮影までまるっきり『エクソシスト』だったし、アメリカで少女の非行体験を基にした『サーティーン』(〇三年)もほとんど『エクソシスト』だった。
 個人的恐怖としては、第9章のシャーリー・ジャクソン『丘の屋敷』(一九五九年)論が素晴らしい。幼稚でナルシスティックなエレナーに、日本人なら山岸凉子の「汐の声」(一九八二年)や「天人唐草」(一九七九年)のヒロインの原型を見出すだろう。キングは〝丘の屋敷〟には幽霊などいなかったのかもしれない、と書く。キングは、幽霊はそれを見る人間の心の鏡だという。たとえばヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』(一八九八年)の幽霊は、厳格な家庭教師の秘めたる劣情を映している。〝丘の屋敷〟もエレナーの鏡だったのだ。
 キングの『丘の屋敷』分析は、映画版『シャイニング』の説明にも聞こえる。キューブリックは、ホテルの幽霊はすべてアル中の主人公ジャック(ジャック・ニコルソン)の破滅願望の投影でしかないともとれるように撮影している。超能力者である息子が見る幽霊や血の海は父の心の中にあったのだと。ところがキングの原作では、幽霊は現実の存在として書かれている。つまり、映画のほうがキングの『丘の屋敷』論に近いのだ。結末も含めて。
 キングは『シャイニング』を『丘の屋敷』のようには書けなかった。元教師で作家志望の主人公ジャックはキング自身がモデルだから。『キャリー』が売れるまで、キングは貧困のなかで、自分が家族を破壊してしまうのでは、と恐怖していたらしい。それは本書でも書かれているようにキングが二歳の頃、父が家族を棄てたからだ。キングは屋根裏に残された父の蔵書でラヴクラフトと出会い、ホラーにとりつかれた。しかし、ホラーだけでなく、家族を棄てる因子まで受け継いでいたら? 『シャイニング』はそういう物語だった。ジャックは幽霊に誘惑されるが、原作では最後に父として目覚め、息子に「お前を愛している」と言い残して邪悪な幽霊もろとも爆死する。それはキングにとって理想の自分であり、理想の父だった。
 しかし、キューブリックは非情にも、ジャックを幽霊屋敷に行く前から息子を虐待していた売れない作家として描いた。息子が幽霊に襲われたと言うのも、父から虐待されたのを隠しているように撮った。こりゃ、キングも怒って当然だ。
 そのへんは本書には詳しく書かれていないが、代わりにキングが引用したリチャード・マシスンが自作『縮みゆく男』(一九五六年)について書いた文章を読んでほしい。マシスンは小説家として芽が出ず、家族を養えない無力感に苛まれながら、自宅の地下室で、どんどん小さくなって地下室に閉じこもる男の物語を書いた。物書きにとって死以上の恐怖は売れないことだ。

 最終章でキングはホラー文化が暴力事件の原因だと非難される風潮に対して、本当に残虐な事件の記事をちりばめて反論する。ホラー文化が惨劇を生むのではない。ホラーは鏡に過ぎないのだから。
 最後に「死の舞踏」について。中世ヨーロッパで黒死病(ペスト)が大流行した時、誰にでも襲い掛かる死の恐怖を忘れようとして人々は半狂乱で踊り続けた。それを「死の舞踏」という。それとは逆に、当時の教会はメメント・モリ(死を忘れるな)と唱えた。それもホラー文化の役割だ。キングは、「死のリハーサル」だという。死に近づくことで人は生を実感する。人々がお金を払ってまでホラーを求める理由はたぶんそれだろう。

2017年9月14日更新

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町山 智浩(まちやま ともひろ)

町山 智浩

1962年生まれ。コラムニスト、映画評論家。近著に『 今のアメリカがわかる映画100本』(サイゾー)。

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