日本人は闇をどう描いてきたか

第十回 土蜘蛛草紙 ――妖怪変化の棲む館

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第十回は、妖怪とヒーローを描いた作品から。

まつろわぬ者たち

 土蜘蛛(つちぐも)の語は古くは記紀神話に見え、朝廷に従属しない異民族の名として伝承された。『日本書紀』では、「身短くして手足長し、侏儒と相にたり」との異形の身体、また「石窟(いわむろ)に住む」といった原始的習慣を有する者とされ、元来、秩序を攪乱し王権にたてつく者たちへの怖れと蔑視を含む呼称であった。
 古代日本で、畿内に興ったヤマト政権が東西に向かって支配域を拡張した結果、中世に至ると、五畿七道(ごきしちどう)を見渡してそこに異形の異民族の姿は既にない。地上から追い払われた闇の者たちが、中世には、人々のイマジネーションという別の居場所を獲得して跋扈し始めた。
 地を這い、闇の中でうごめくような響きを持つ土蜘蛛という語が、中世には妖怪変化の名として再びよみがえる。辺境に住むまつろわぬ民の不気味な影が、妖怪となった土蜘蛛にも受け継がれていく。古代末期に擡頭した武家の権威は、しばしば妖怪退治の物語とともに伸長するが、中世武家政権は、宿命的に、見えない敵との戦いを内包していた。

武威と血統

 鎌倉時代に制作された「土蜘蛛草紙」(東京国立博物館蔵)では、源頼光(みなもとのよりみつ、九四八~一〇二一)とその家来である渡辺綱(わたなべのつな、九五三~一〇二五)が、京都郊外のあばら家を舞台に、次々と登場する妖怪を撃退する。頼光は、中世説話においてしばしばその武勇が語られ、本作と同じ頃成立した「大江山絵詞」(逸翁美術館蔵)では、大江山に住む酒天童子(しゅてんどうじ、酒呑童子とも)という名の鬼を退治する。頼光には、異類・異形の者をさえ武力と知力で打ち負かす、理想的な武士の姿が投影された。
 ただし現実の頼光は、受領を歴任して財力を蓄え摂関家に近侍した、都の中級貴族としての性格が色濃い。数々の武勇譚は、あくまで後世の脚色である。頼光の武功が華々しく語られる背景には、彼の父が清和天皇から見て曾孫にあたる源満仲(みなもとのみつなか、九一二~九七)で、頼光はその嫡男、つまり清和源氏の嫡流という出自がある。
 武勇の者としての頼光像の成立は、後に同じ清和源氏の門流から出た源頼朝や足利尊氏が、武家政権を打ち立てたことと無関係ではない。源氏将軍の武威と、政権主宰者にふさわしい高貴な血筋を過去にさかのぼって証明する物語として、妖怪や鬼をものともしない頼光像が喧伝されたのだ。

異界への入り口

 「土蜘蛛草紙」詞書の冒頭で、頼光と綱は京都北山(現在金閣があるあたり)を遊行して、船岡山西麓の蓮台野(れんだいの)に至ったところで、空中を飛行する髑髏を見る。綱があとを追うと、東山の神楽岡(現在の吉田山、その麓には吉田神社がある)にて、髑髏は忽然と姿を消した。そこにはしかるべき貴族のものらしき古い館があり、広い庭、立派な門を備えてはいるが、草木が生い茂り禽獣の棲み家となって荒れ果てていた。綱に門の付近を守らせた頼光は、独り館の中に入っていく。
 頼光らが最初に髑髏を発見した蓮台野とは、嵯峨の化野(あだしの)、東山の鳥辺野(とりべの)と並ぶ、かつて京都郊外に営まれた葬送地の一つであった。都に住む人々にとって、生と死、現世とあの世との境界として意識される地名である。飛行する髑髏に導かれて、頼光と綱が京都北辺をなぞるように東に向かい、最後は東山の神楽岡に至る。ここも、古来より遊猟地や天皇家の陵墓として、また祭祀を執り行う場として、異界との境界領域と見なされていた。
 「土蜘蛛草紙」において、頼光と綱が探索するのは、異民族が支配する辺境の地ではなく、京都近郊のあちこちに点在する異界との接点であった。この物語に、日本列島を西へ東へ駆けまわって夷狄(いてき)を滅ぼすヤマトタケルのような、スケールの大きな勇者は登場しない。しかし、自らの生活圏に近接する異界にはリアリティがあり、なじみ深い地名に導かれながら、絵巻の外の鑑賞者も、頼光や綱とともに異界に分け入っていくような臨場感がある。中世を生きる人々のイマジネーションの中で、闇は身近なところに口を開けて存在し、そこに迷い込む者を待ち受けていた。

化け物屋敷の怪異

 館の奥に入った頼光が目にしたのは、この館の九代の主に仕え、二百九十歳にもなるという老女であった。両瞼を棒で引き揚げて帽子のように頭に載せ、左右の乳房が垂れ下がって膝に掛かるといった異様な姿をして、館に人が絶え自分だけが生き残ったことを嘆き、頼光に「願はくは、我を殺し給へ」と懇願する(図1)。

【図1】土蜘蛛草紙(重文、東京国立博物館蔵) 第二段
図版出典:土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞(続日本の絵巻26、中央公論社、1993年)

 これをやり過ごして夕暮れ時に至ると、風雨激しく雷鳴もとどろいた。頼光が、雨に濡れ、風に萎れながらも心を静めて物音を聞いていると、鼓を打つような足音がして、無数の異類・異形の者どもが現れた。画面には、行李(こうり)・角盥(つのだらい)・五徳といった日用雑器が変化した付喪神(つくもがみ)、鶏・狐・獏(ばく)といった獣の妖怪が描かれている。妖怪どもは一斉にどうっと笑ったかと思うと、障子の向こうに去って行った(図2)。

【図2】土蜘蛛草紙(重文、東京国立博物館蔵) 第四段
図版出典:土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞(続日本の絵巻26、中央公論社、1993年)

 続いて、頭の異様に大きな尼が現れるが、頼光が睨みつけると、にこにこと笑いながら雲霞のように消え失せた。
 次々と登場する化け物たちと、頼光が直接刃を交えることはない。怪異に全く動じない頼光の、超人的な胆力を際立たせるエピソードが続く。老女のすすり泣くような懇願、激しい雨音と雷鳴、付喪神たちの騒々しい足音や哄笑、変化の尼の奇妙に明るい笑い声、ざわめきと静謐が交互に現れる化け物屋敷の中で、頼光は一晩を過ごす。

傾国の美女

 明け方近くなって、もはやこれ以上の怪異はないだろうと安堵しかけた頼光のもとに、楊貴妃(唐の玄宗帝の寵姫)か李夫人(漢の武帝の寵姫)かと見まがうばかりの美女が現れる。頼光は、これが家主かと思い、その美しさに見とれているうちに朝を迎えた。すっと立ち上がった女になおも目を奪われていると、女は急に袴の裾を蹴り上げて、毬のような白雲を十個ばかり投げつけ、頼光の視界を遮り襲いかかった。とっさに抜いた太刀でしたたかに切りつけ応戦したものの、女は掻き消すように失せた。切っ先は、床板を切り通してその下の礎石半分をも打ち割っており、そこに不気味な白い血溜りができていた。
 ここに掲げた画面には、大きな目を見開いて頼光に襲い掛かろうとする女が描かれている(図3)。女と頼光の間にある燈台が指標となって、立ち上がった女の方が巨大化して頼光に迫っていることが分かる。

【図3】土蜘蛛草紙(重文、東京国立博物館蔵) 第七段
図版出典:土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞(続日本の絵巻26、中央公論社、1993年)

 絶世の美女が実は変化の者であったという話型は、「長谷雄草紙」(永青文庫蔵)にも通じる。また、詞書に言及される楊貴妃や李夫人の名は、唐代の詩人白居易による『長恨歌』や『李夫人詩』のイメージをも招き寄せ、英雄を惑わせる傾国の美女たちの記憶を呼び起こす。これらの物語には、女性忌避の感覚も通底し、美女の朽ちてゆく死体を凝視して情欲を断ち切ろうとする九相図の世界観にも近しい。武士にとって、真の暗闇とは、傍らにいる女たちの中に見出されていたものか。
 頼光と綱が血の痕を辿ると西の山奥に洞穴があり、そこから白い血が河のように流れ出していた。

護国のイデオロギー

 洞穴の奥に潜んでいたのは、山蜘蛛(=土蜘蛛)であった。女の正体は土蜘蛛であったのだ。大磐石のように重くびくともしなかったので、頼光は天照大神と正八幡宮に祈念しながら、綱と力を合わせて引き倒した。詞書には、次のような祈禱文が記されている。

 我朝は神国なり。神は国を護(まぼ)り給ふ。国はまた、帝の傍臣を以て治む。我はまた臣として、しかも王孫なり。我、十善の余慶の家に生まれ、今この物を見るに、畜生なり。畜類は極悪無間(ごくあくむけん)、破戒無残(はかいむざん)の故に、この道に生を享く。しかも国に患ひをなす、人の仇となる。我、即ち、帝を護る兵なり、国を治むるが楯なり。汝、従はざらん。

 深い罪業ゆえ畜生道に生まれ、あまつさえ妖怪変化となってしまった土蜘蛛が、高貴な血筋に生まれた武士によって滅ぼされる。この関係性の背後には、遠く記紀神話のまつろわぬ民の姿もオーバーラップする。頼光が発する祈禱の文言には、天皇の血を引く武家が朝廷の楯となり帝を護るという、清和源氏の理想、武家による護国のイデオロギーが色濃く表れている。

土蜘蛛の領分

 倒れた土蜘蛛の首を落とし、腹を裂くと、中から二十ばかりの髑髏とともに七、八匹の小さな蜘蛛が出てきて辺りを走り回った(図4)。女の正体は雌の蜘蛛であったのかと思うと同時に、生まれた子蜘蛛が妖怪変化となって、再び化け物屋敷の主となり人を食うのかと、不気味な余韻が後まで残る。
 天下国家を嘲笑うような土蜘蛛の領分が、いかなる武威によっても完全に切り伏せられはせず、メタモルフォーゼを繰り返しながら中世を生き延びる。「土蜘蛛草紙」を裏返して読めば、そんな物語も立ち現われてくる。

【図4】土蜘蛛草紙(重文、東京国立博物館蔵) 第十段
図版出典:土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞(続日本の絵巻26、中央公論社、1993年)

(参考;「土蜘蛛草紙」は、e国宝サイトで参照することができます。)

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