筑摩選書

柄谷行人の上方気質
『柄谷行人論――〈他者〉のゆくえ』

 私がはじめて柄谷行人に出会ったのは一九八九年の暮れごろだった。昭和天皇が逝き、天安門事件があり、そしてベルリンの壁が崩れたその年、しばらく休刊していた雑誌『情況』を再刊する動きがあり、私は恩師廣松渉氏の強い要請で、雑誌立ち上げ数号分の企画を手伝うことになった。
 雑誌の開放化をめざした私がどうしても駆り出したかったひとりが柄谷行人氏である。さっそく彼とは旧知の間柄にあった当時の編集長古賀暹氏を介してインタヴューを申し込み、聞き手を私が務めることになった。場所は雑誌事務所があった東中野の場違いともいうべきけばけばしい結婚式場の別室を借りておこなわれた。厳しい予算のなか、これは「破格」の待遇だったことになる。だが、正直いって、そのとき私が違和感を覚えたのは、その場違いな結婚式場以上に、柄谷氏本人であった。
 インタヴューの間、ネームヴァリューとは裏腹にシャイな彼はほとんどこちらの目を見ることなく、ひたすら朴訥と独白調で話しつづけ、一時間ほどがあっという間に過ぎた。これが彼の「ダイアローグ」なのか、という皮肉な思いとともに。しかも、いろいろな概念や知識が飛び交い、こちらはどう応対してよいかわからない。柄谷氏の著作はほぼ読んでいた私だが、これはまったくの「想定外」だった。書かれたものを通してイメージしていた柄谷行人は、きわめて理路整然、明晰な語りをする人物であった。だから、私には目の前で話している人物がまるで別人であるかのようにさえ感じられたのである。
 やがて編集部からテープ起こしのゲラが送られてきて、これに手を入れるわけだが、馬鹿正直なまでに起こされたゲラを見ると、私の話した部分もさることながら、柄谷氏の部分はそれ以上、どうやってこれを印刷原稿にするのだろうと心配になるほど混乱している。ところが、再校が送られてきたとき、私は驚かされた。整然とした文章できれいに書きなおされている。たしかに内容はその通り。しかも、それがいかにも初めからまったくそう話したかのように書きなおされている。おまけに途中「(笑)」などという記号を入れたサービスの演出までが施されている。なるほど、この人はちゃんと「受けどころ」を知っている。さすが上方の人である。
 次に会ったのは私がドイツに移り住んでからのことで、『日本近代文学の起源』の独訳をしていて本人と会ったときだから九〇年代の中ごろだっただろう。代々木公園近くの交差点を待ち合わせ場所に指定されて待っていると、向こうからママチャリに乗ったつっかけ姿のオジサンがやってくる。雑誌などに載っている写真の柄谷行人とは似ても似つかないごく普通のオジサン、上方風に言えば、オッサンである。このママチャリで僕らを自宅まで案内してくれる彼の後姿を見ながら、私はそれまでにない親しみを感じたのだった。
 柄谷行人の意外性は、そのほかにも七〇歳で草野球のピッチャーをつとめたとか、いろいろあるが、愉快なのは酒の場である。彼と酒の席をともにしたことのある人ならば、だれでも経験したことがあると思うが、彼は酔いが回ってくると、だれに向けていうのでもなく、「ええっ、そうでしょ!」とか、「こんなバカなことはない!」などと突然怒りを爆発させる。周りの人たちは自分が怒られたと思って萎縮してしまうのだが、私にはこのシーンがじつに面白い。そのノリは、「責任者出て来い!」の決めゼリフで笑わせた、かつての上方漫才の大御所人生幸朗のボヤキ漫才そのものだ。しかし、その怒りも瞬間的な発作のようなもので、すぐあとはケロッとして、またニコニコ話をつづけている。一般に流布しているスマートなイメージの背後からときどき顔を出す、このような柄谷行人の上方気質が私は好きである。そういうことがなかったら、彼について本を一冊書こうなどとは思わなかったかもしれない。

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