単行本

幸せなトスカーナ料理

 二年前の夏、鎌倉に仮住まいをした。鎌倉には、地元に根ざしたおいしいお店がたくさんある。その中でも、特に胸をときめかせたのが、由比ヶ浜通りにあるイタリア料理店だった。
 ドアを開けて一歩足を踏み入れると、そこはイタリア。イタリア風ではなく、空気感もすべて含めてイタリアだった。
 お総菜のテイクアウトもできるし、ワインセラーもある。日本ではなかなか見かけない珍しいイタリア食材もある。そして、奥のテーブルでは食事をいただくこともできる。
 メニューはないので、入口のガラスケースに並ぶお総菜の中から、自分の食べたい物を選ぶ。店主の説明を聞きながら、どれにしようかと胃袋と相談する時間がまた楽しい。ワインは、ワインセラーにある数多くのイタリアワインの中から、好きなのを選んで飲むことができる。こうして、記憶をひもとくだけでも、幸福な気持ちがふつふつと泡のように甦ってくる。
 以来、住まいが東京に戻ってからも、鎌倉に行く時は必ずと言っていいほどお邪魔している。日本でイタリア料理を食べるなら、絶対にここしかない。店の名は、オルトレヴィーノ。古澤さんご夫妻が営むお店である。
『トスカーナ 美味の教え』は、私にとって待望の一冊だ。理由は、千恵さんのセンスに全幅の信頼をおいているから。
 去年の夏、トスカーナを旅行するにあたり、旅の友としたのが、前著『とっておきのフィレンツェ/トスカーナ』だった。
 千恵さんの勧めるホテルに泊まり、レストランに足を運び、バールに行ってジェラートを食べ、お店巡りをした結果、本当に素晴らしいイタリアを経験することができたのである。
 私だったら、きっと秘密にしておきたくなるような情報を、千恵さんは惜しげもなく紹介している。だから、次の著書が料理本だと知った時は、期待に胸がふくらんだ。きっとまた、私の知らなかった秘密のトスカーナ料理を教えてくれるに違いない、と。もちろん、期待通り、いや期待以上である。
 最初に出てくる「茹でセロリのトマト煮」から参った。セロリを茹でる、しかもクタクタになるまで茹でる、という発想がまず、私にはなかった。セロリ以外の材料は、トマト缶に小麦粉、オリーブオイル、塩、胡椒といたってシンプルなのに、そこには未知の料理がのっている。
「セージのフリット」も、衝撃的だ。紫蘇の葉っぱを天ぷらにするのだから、そうか、セージだってフリットにすればいいのだ。ひとパック買っても、たいてい使い切れずに余らせてしまい、可哀想な結末を迎えていた。でも、これなら脇役と思っていたセージが、主役として食卓に華を飾ることができる。
「ストラッチャテッラ」は、ぜひ今度作ってみたい。イタリア版かき玉汁とあるが、卵にパルミジャーノレッジャーノとナツメグ、レモンの皮のすりおろしが入るという。どんな味か、想像がつかない。イタリアでは風邪を引いた時の定番というから、なんだか次に風邪を引くのが楽しみにすらなってくる。
 それにしても、美しい写真の数々にため息が出る。どなたが撮影したのかと奥付を見ると、すべて千恵さん自らが撮った写真だった。改めて、千恵さんの審美眼に感服する。「白アスパラと黒トリュフ」なんて、思わず写真の中に潜り込んで、アスパラガスとトリュフの香りに陶酔したくなるほどだ。
 きっと千恵さんは、心の底からイタリアを愛しているのだろう。だからこそ、惜しげもなくその魅力を私たちに教えてくれる。イタリアに暮らした十年という月日が、千恵さんの体や心に、ミネラルのように堆積しているのを感じずにはいられない。
 千恵さんが、イタリアでもっとも好きだと紹介していたボローニャの山奥にあるトラットリアは、私にとっても天国のような場所だった。その美味しさの秘密が、本著に書かれている。