ちくま文庫

落語の生命力に賭けた人

中野翠『この世は落語』

30年来の落語ファンである著者が鍾愛する54作について語った『この世は落語』。その文庫版刊行に寄せてのこぼれ話をPR誌『ちくま』10月号より転載します。

 ここに一枚のカラー写真がある。ほぼハガキ大。日付が入っていて、'99 年の9月5日とある。
 フランス料理店での記念撮影で、写っているのは六人。古今亭志ん朝さん、中村勘三郎さん(十八代目。当時は勘九郎)、中村福助さん(九代目)、演劇評論家の関容子さん、文藝春秋の編集者で落語と歌舞伎マニアの関根徹さん、そして私。
 確か勘三郎さんがアレンジしてくれた集まりだったと思う。私のどこをどう買いかぶってくださったのか、勘三郎さんは私の書くものを面白がってくれていた。それで志ん朝さんとの会食に私も招ばれることになったのだった。
 勘三郎さんも志ん朝さんもお元気だった。志ん朝さんはソフト帽をかぶり、淡いグレーのジャケットにブルー系チェックのシャツといういでたち。おだやかな下町の大旦那風。会話の大半は勘三郎さんがリードしていたけれど、志ん朝さんも父・志ん生ネタ(?)で大いに笑わせてくれていた。幸せな一夜だった。
 それが九月のことで、十月の大須演芸場で定例となっていた志ん朝さんの三夜連続独演会の最終日には「この会も十年たちました。ここで一区切りということで……」という衝撃の発言があったのだ。私はたった三年(三度)だけだったけれど、名古屋の大須演芸場での三夜連続独演会を大きな楽しみとしてホテルに泊り込みで聴きに行っていたので、エーッ?! と驚いた。ガックリとなった。
 今にして思えば……志ん朝さんの健康不安は深いものだったのだとわかる。志ん朝さんは大須演芸場での連続公演を楽しみにも励みにもしていたと思う。「十年続いた」という口実のもとに終了を決意した、その心のうちを察すると、つらい。
 その二年後の二〇〇一年十月一日。志ん朝さんはこの世を去った。六十三歳だった。突如ニューヨークの世界貿易センタービルを襲った9・11テロの大ショックから一カ月後のことだった。
 私が最後に観た志ん朝さんの高座は、その二〇〇一年の春、四月十日。池袋演芸場での「火焔太鼓」。志ん朝さんの出演時間を見はからって一時間ほど早く行ったのに超満員で中には入れず。あけっぱなしになった出入口のところで立ち見。背伸びして、首を右に左にして、観た。
 私は志ん朝さんの「火焔太鼓」をナマで聴いたのは、それが三度目だったけれど、「今までで一番の火焔太鼓だ!」と興奮した。
 志ん朝さんも上出来と確信したのだろう。深くおじぎして「今夜はうれしくなっちゃったので三本ジメで」と晴れやかな笑顔を見せた。
 その最高の「火焔太鼓」から、じきに本格的闘病生活となって、秋には亡くなってしまったのだった。
 もちろん勘三郎さんも志ん朝さんの死にはショックを受けて、「早過ぎるよねえ」と嘆いていたのだけれど、なんと、その勘三郎さんも二〇一二年十二月五日に亡くなってしまった。五十七歳だったのだから、志ん朝さんよりさらに早過ぎた。私は口惜しかった。
 さて、話は冒頭の写真の話に戻る。私は志ん朝さんや勘三郎さんと会食した時の写真をもらって、アルバムではなく本棚の歌舞伎本・落語本のコーナーに飾った。ガラス扉がついたアンティックの、私が持っている本棚の中では一番上等の本棚だ。この写真が目に入ると「私たちがいなくなったからって、落語や歌舞伎を忘れないでくれ」「落語も歌舞伎も不滅の力があるんだから」と言われているような気がする。実際、志ん朝さんは後進の指導にも律義に取り組んでいらしたし、(ずいぶん若い頃からだが)落語の現代性について真剣に模索されていらした、と思う。そして落語のしぶとい生命力というものに賭けたのだと思う。理屈張ったことは嫌いだったから、「論じる」ということは無かったが。
「でもねえ、芸人の死は、そのまま、芸をあの世に持って行ってしまうようなものだから」と言い返したい思いもあるのだが……。うん、やっぱり私も落語の力を信じている。世界一洗練された個人芸だと確信している。毎晩、落語CDを聴きながら眠りにつくという習慣は、今でも続いている。何か、大きくて懐しいものに抱かれているような心地。さまざまな意味で落語こそ日本人にとっての最終娯楽だと思っている。

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