■120日間踊り続けて身体感覚を殺して生き直す
栗原 ちゃんと考え過ぎると、ヤバそうですよね。大抵のことはテキトーでいいんじゃないですかね(笑)。ただ、書く人によってもちろん違いますけど、一遍上人だと、マジで「自分から死ぬ気か?」みたいなところがあるわけですよね。かれは踊り念仏というのをやるんですけど、踊り念仏の思想は、もじどおり圧倒的なバカになるという発想なんですね。みんな農民になれ、武士になれ、それができなきゃクズだって言われていて、そのための訓練をうけていたときに、その身体感覚をぶち壊すような踊りをやりましょうと。踊りって、体をクネクネさせたりするわけですけど、何の役にも立たないですからね。そういうのを踊りながら身体で覚えていく。しかも最大120日間、朝から晩までぶっ通しで踊り続けてるんですよね。「死ぬつもりですか?」みたいな。
ブレイディ そこまでやると、どんな苦行よりもすごいですよね。
栗原 そうですね。でも、自殺するつもりでは全然ないんですよね。いま言われている身体感覚を殺すというか。そうやって自分の体を死体にしてでも生きていく感覚を身につけて、新しい生を生き直していくみたいな。
ブレイディ 金子文子もそれですよ。いま生きている体を死体にしてでも、自分が生きていきたいと、死んでもいいから自分が自分として生き残りたいと思った、というのは、まさにそれなんじゃないのかと。
栗原 実際そうなんでしょうね。死ぬことによって、また……。
ブレイディ 生きる。死ぬことによって生きる。だから、私も金子文子を書いていて、この人は死ぬことによって生きたんだろうなと思う。こんなふうに言葉にすると陳腐だし、ちっとも新しいコンセプトではないけど、頭や手先じゃなくて、体で想像してみるのはすごく難しい。
栗原 その辺、ギリギリですよね。あと、金子文子に似ていると思うのは、幸徳秋水や管野スガっていうアナキストで、彼らも大逆罪でぶっ殺されるんですけど、ふたりが死ぬ前に書く文章って一見真逆なんですよね。幸徳秋水は『基督抹殺論』、管野スガは「私はイエスなんだ」みたいなことを言っていて。でも結論は同じ。今ここで自分は死んでしまうかもしれないけれども、死ぬことによって、この思想は絶対に残るのだと。たとえ死んでも言いたいことは言う、この世のなかをぶち抜いてやる、少なくてもその種くらいは蒔いてやると。かれらにとって、それが生きるってことで、そういう意味じゃ死それ自体はたいしたことがない。金子文子も似たようなところがあったのかなと。
■聖フランチェスコと一遍は似ている
ブレイディ 先ほどの書評で書きましたけど、栗原さんの一遍を読んでいて思い出したのが、聖フランチェスコです。生まれた年も一遍と半世紀年ぐらいしかずれていないんですよね。それで、彼も動物としゃべるんですよね。彼の聖画って、だいたい鳥としゃべっていたりとか、本当に動物としゃべったらしくて、麻の服を着て……。
栗原 それも全く一緒ですよね。
ブレイディ 何物も持っちゃいけない、所有したら終わりみたいな。そういうところもすごくそっくりだし、シンクロするなと思って。
栗原 そうですね。セミの声とか聞いて、「これは南無阿弥陀仏と言っています」とかね。「ほんとですか?」みたいな。発想は一緒ですよね。
ブレイディ 一遍はダンサーで、フランチェスコはシンガーソングライターというか吟遊詩人じゃないですか。パフォーミングアーツに何かを見出したというところも似ているんですよね。
栗原 次、僕が書くのは聖フランチェスコかな……。
ブレイディ 聖フランチェスコは私は面白いと思いますね。変な人です。
栗原 実は、『死してなお踊れ』のトークイベント、声をかけてもらったのは2回だけなんですけど、それがどちらも教会なんですよ。
ブレイディ 何かが来ている。
栗原 本当に話すたびに、「聖フランチェスコって知っていますか」みたいなことを言われたりする。
ブレイディ やっぱり。私だけじゃなかったんですね。聖フランチェスコも、そこまでやることないというぐらいまでやっちゃう聖人ですからね。リリアーナ・カヴァーニという、『愛の嵐』という耽美的な、ナチスの強制収容所で展開される倒錯のエロスを描いた映画を撮ったイタリアの映画監督が、なぜか正統派の聖フランチェスコの映画を撮ったんですよ。ミッキー・ロークが主演で。私はクリスチャンだったりするので、カトリック教会に行っていた頃に、修道女のシスターに誘われて福岡で上映会に一緒に観に行ったんですよ。だいたい地味な映画だし、名画座みたいなところでやったんですけど、ほとんど観客は教会関係者で、シスターとか、「あの教会の神父様だ」みたいな人がダーッと座ってて。アナキストとは違う意味でみんな真っ黒な服着てる(笑)。で、あの映画、すごくきれいに聖フランチェスコを撮っているんです。若き日のミッキー・ロークが聖フランチェスコ役で、ヘレナ・ボナム = カーターが聖キアラ、彼を慕ってついていく聖人の役を演じているんです。そんなに絶賛された映画ではないですけど、印象的なシーンがあって、キリスト教って、性的なものを全部抑圧していますけど生身の人間だから、どうしてもやっぱり苦しいときがあるじゃないですか。で、聖フランチェスコが、いきなり素っ裸で雪の中に走っていって、雪をガーッと自分の体に当てて、すごい恍惚とした顔をしているんですね。それは無邪気に遊んでいるようにも見えるんだけど、実は性的なシーンなんですよ。
栗原 エクスタシーを……。
ブレイディ そうそう。私は『死してなお踊れ』を読んだときにあのシーンをすごく思い出した。
栗原 踊っているときとかですよね。
ブレイディ そう。まさにあのときのミッキー・ロークというか、聖フランチェスコだったんじゃないかなと。
栗原 我を忘れて変な快感を覚え始めるという。
ブレイディ そう。『母の友』は育児雑誌だから、そこは書けなかったんですよ(笑)。
栗原 書けないですよね~。一遍もお坊さんですから、彼に同行していたお坊さんは、一応その戒律を守りましょうで、セックスはしないですけど、ただ、踊り念仏の場はどんどん広がっていって、100人、1000人規模で踊り始めると、それがフリーセックスの場にもなっていくんですよね。いろんなひとが飛び込んできて、そこで、普段の「家」に縛られない男女の出会いがあったりするわけですね。いまのクラブじゃないですけど、一晩中、一緒に踊っていりゃあ、そりゃあ、「やりてえな」と。「やりてえな」と(笑)。
ブレイディ 別にリピートしなくてもいいと思いますけど(笑)。
栗原 うっ! まあまあ、それでどんどん恋愛の場になっていった。もともと恋愛の場なんて存在していないわけですよね。だけど踊りに行けばそこで人と出会って、男女が恋愛できるみたいな。もちろん、男同士でも女同士でも。だから、踊り念仏って、野枝につなげれば、「家」を飛び越える場でもあるんですね。踊り念仏が継続していったのが、今だと盆踊りになってるんですけど、だいたい地方で、夏に盆踊りをやるといったら、何のためかというと、ねえ。セックスするためでしょう! みたいなね。だんだんそうなっていったんじゃないかなと思うんですね。この辺、さっきの雪の感覚というのに近いのかなと。