ひきこもり支援論

第4回 当事者の声を〈聴くこと〉は支援になるのか

 今回は、ふたたび私の調査の足取りを辿ります。ようやく「分からないことが分かる」という〈聴くこと〉の出発点に立てた、というところからの続きです。

 私が「分からなかった」のは、当事者の多くが「働きたい(働かなければならない)」とか「人ともっと関わりたい」といった切実な思いを持ちながらも、どうしても身動きが取れないでいるということでした。

 まず、この〈動けなさ〉をどのように読み解いていったのかを振り返り、それから私が目指している「理解」のあり方を明らかにしたうえで、当事者の声を〈聴くこと〉は支援になるのかということについて、現時点での私の考えを述べたいと思います。

 

〈動けなさ〉を語る難しさ

 当事者にとって「ひきこもり」とはどういう経験なのか。これが調査研究を始めた当初からの問いです。当事者たちの〈動けなさ〉を抜きにして、この問いに答えることはできないのではないか。そんな直感もあって、私は改めて当事者の声に耳を傾けることにしました。ところが困ったことに、この〈動けなさ〉は本人にとっても曰く言いがたいものであるようでした。

 ある当事者にインタビューしたときのことです。この人はいったんアルバイトを始めたものの仕事のきつさから体調を崩してしまい、しばらく休養してからは月2~3日、日雇いの仕事に出るようになりました。どうして継続的に働くことができないのか尋ねてみましたが、はっきりした答えは返ってきません。それでも私がしつこく質問を重ねていくと、その人は少し困った様子でこう語りました。

「続かない理由かー。まあ、やっぱり……慣れてなかったとか(笑)そういうことにしちゃおうかな。何か明確にこれっていう理由があるわけじゃないんだよなぁ。だから、サボり癖があるんじゃないかって言われてしまうと、そんな気もしてくるんだよ。要するに、そういう状況に慣れてしまったから。……で、要するに、月に2回か3回くらい働いて、それでとりあえずは、ね、ごはんが食べられて、生きてけるっていうふうになっちゃうと、そうなっちゃうのかなぁ」

 働くことに慣れていなかった、サボり癖がある、とりあえず食うには困らないといったことが、働き続けられない理由として挙げられていますが、ここで注目すべきは「明確にこれっていう理由があるわけじゃない」や、「サボり癖があるんじゃないかって言われてしまうと、そんな気もしてくる」といった言葉です。これらに加えて「そうなっちゃうのかなぁ」という最後の部分からも、この人自身、この説明にしっくりきていないことがうかがえます。

 結局、なぜ働き続けられないのかは自分でもよく分からないというのが、正直なところなのだと思います。にもかかわらず、それでは聞き手である私が納得せず、質問を繰り返すために、なんとか理由をひねり出してくれたのかもしれません。そうでなければ、「そういうことにしちゃおうかな」という一言は出てこないでしょう。

 また、次のように語る当事者もいました。

「この動けなさをどんなに説明しても、周りは絶対に分かってくれない。自分は障害者だと思う。こういう言い方に強く反発する人もいるし、自分でも抵抗感はある。でも、それで周りが納得してくれるなら、私は障害者と言ってくれたほうが楽だ」

「自分は障害者だ」という言い方に難があることは十分に承知しつつ、それでもなお、こう語るほかなかったのでしょう。そのくらい〈動けなさ〉とは、第三者に伝えることが難しいものなのだと思います。たしかに私自身も、なぜ動けないのかという疑問を持つ以前に、そもそも動けないでいること自体を長らく捉えられていませんでした。

 さらに、私がこれまで出会ってきたのは、完全に身動きが取れないところからは少し抜け出した人たちです(「ひきこもり」の集まりには出てきているのですから)。かれらはしばしば、ひきこもっていたときは本当に混乱していて何が何だか分からなかった、あのときのことを言語化するのは非常に難しいと語ります。

 このように、当事者本人ですら言語化しがたく、そして、周りはそれを認識することからして難しく、また認識できたとしても共感も想像も及ばないような〈動けなさ〉に、非当事者である私は一体どうアプローチすることができるのでしょうか。暗中模索の日々が続きました。

 

生きることへの意思・覚悟

 こうして〈動けなさ〉と取っ組み合う一方で、これまであまり耳に入ってこなかった声が聞こえてくるようになりました。それは、生きることをめぐる葛藤についての語りです。

「ひきこもり」の集まりに足を運ぶようになってすぐの頃から、自殺を考えたという話を複数の当事者から聞いてはいました。ですが、私はそれをにわかには信じられませんでした。といっても、それは学校に通えているとか働けているといったことだけで、人間の価値をはかろうとする世の中の尺度がおかしいと感じたからではありません。単純に、学校に行けないとか働けないとかいった程度のことが、なぜ自殺にまで結びつくのか分からなかったのです。それがその程度のことではないということは、今はもう分かっているつもりですが、それこそ当時の私の認識はその程度のものでした。

 ただし、〈動けなさ〉が見えてから聞こえてくるようになったのは、ひきこもっているときに死のうと思ったことがあったとか、そういう話ではありません。そうではなく、生きることへの意思や覚悟のようなものです。たとえば、「障害者だと言ってくれたほうが楽だ」と語った先ほどの人は、十数年に及ぶ苦悩の日々を経て、ある決断に至ったときのことを語ってくれました。

 この人は十代半ばから学校に通えなくなり、不登校の支援団体やカウンセラーのもとを訪ね歩き、母親とも激しくぶつかりながら自分の道筋を探っていました。しかし、二十代半ばを過ぎた頃に「もう生きていけない」というところまで追い詰められ、自殺を考えるようになったそうです。ところが、それを実行に移せるほどの気力も体力もそのときには失われており、ほとんど寝たきりの状態で数ヶ月を過ごしていました。そして、この人はある決断を下すに至ったのです。

「ここで決めよう、と思ったのね。生きていくか、やめるかをね。その頃の私は、人を傷つけるとか、人から傷つけられるっていうことが、ものすごく怖かった。でも、生きていくってことは、それを引き受けていくってことなんだと。で、それを覚悟しなきゃいけない。それができないのならば、もうここで終わろうと思って。だけど、しばらくして頭や心ではないもっと深いところで、生を選んだ瞬間があった。選んだというか、あぁ自分はそうするんだという感じだった」。

 穏やかながらも強さを感じさせる口調でした。こうした生きていくことへの覚悟や意志を語ったのは、この人に限られません。このような語りが耳に入ってくるようになって、私はようやく核心に手が届いたように感じました。この人たちは就労や対人関係の難しさにのみ苦しんでいるのではない。生きることそのものをめぐって葛藤していたのだ、と。

 

〈動けなさ〉を読み解く

 では、生きることをめぐる葛藤と〈動けなさ〉は、どのように関連しているのでしょうか。この結びつきを解くうえで重要な手がかりを与えてくれたのは、イギリスの社会学者であるアンソニー・ギデンズによる現代社会における存在論的不安についての議論でした。

 ギデンズは、「生きることの意味とは何か?」「自己の存在に価値はあるのか?」「他者を理解することは可能なのか?」といった問いを、「実存的問題」として概念化しています。これらの問いは日常的には意識の奥底に沈んでいますが、何らかの危機に陥ったときに浮かび上がってきて、普段なら苦もなくできていることを難しくさせてしまいます。

 ところで、皆さんはいま呼吸をしていますか? 皆さんは自分がどうやって呼吸しているのか説明できますか?

 これを読んで、息苦しくなった方はいないでしょうか。こんなことを言われなければ自分が呼吸していることに気づきもしないし、また、呼吸のメカニズムを知らなくても自然と息を吸ったり吐いたりできています。しかし、そこに意識を向けた途端、なぜか急に呼吸することが窮屈に感じられてしまう。実存的問題に目を向けたときの苦しさは、これと似ているところがあります。

 もうひとつ例を挙げておきましょう。たとえば、おしゃべりです。何も考えていないときには軽快なテンポでやりとりできていたのに、相手は本当に自分の言っていることを理解しているのだろうか、自分も相手の言っていることをちゃんと分かっているのだろうか、相槌の打ち方はこれでいいのだろうかといったことを意識した途端、どう言葉を継げばよいのかという迷いが生まれ、そのぎこちなさはますます互いの言葉に対する意識を過剰なものにし、ついには会話を途切れさせてしまうかもしれません。

 生きることも、これと同じです。先ほど紹介した人は、「生きていくのか、やめるのか」という選択を自分につきつけていました。生きているということは、「生きていくか、やめるか」という選択肢のうち、絶えず「生きていく」を選んでいるということにほかなりません。ですが、私たちは普段、そんなことは考えないで生きています。あるいは、そういう問いをやり過ごせているからこそ、生きることの重みに押し潰されずに済んでいるのかもしれません。

「ひきこもり」の当事者たちは、このように生きることそのものに真っ向から対峙し、実存的疑問と格闘しているのではないでしょうか。そうだとすれば、体が硬直しているかのように動かないのも、もっともであるように思えます。

 

私が目指している「理解」

 以上が、なぜ当事者たちは動くことができないのか、という問いに対する私なりの答えです。ただし、これが「正解」なのかどうかは分かりません。当事者自身から「生きることに直接向き合っているために体が動かないのだ」という明確な説明を聞いたことは、今のところありません。ですから、これを「ひきこもり」の実態として提示することはできませんし、どこまで一般化できるのかも分かりません。

 私の出した答えは、当事者たちが存在論的な不安定さに脅かされていると仮定するならば、身動きがとれなくなってしまうことに合点がいく、といったくらいのものです。これが、引きこもった経験のない私にも可能な「理解」です。そして、この「理解」は、「共感」や「実感」が湧かなくても可能なものです。相手の苦しみを我がことのように身をもって感じることはできませんが、その人が何に苦しんでいるのか、その苦しみがどんなふうに生じたものなのか、その理屈や道筋をつけることはできます。

 といっても、自分ひとりで勝手に理屈をこねくり回すわけではありません。その人はこれまでどういう人生を歩んできたのか。どういう人たちが周りにいて、かれらとどんなふうに関わってきたのか。そのなかでどういう常識や価値観、信念を形作ってきたのか。その人を取り巻く時代的・社会的状況とはどのようなものなのか――。そういったことをひとつずつ集めていって、切ったり貼り合わせたりしながら、筋道立った説明を作り上げていくのです。何色もの糸を織り合わせ、ひとつの絵柄に仕上げていくことと似ているかもしれません。

 こうした理解の仕方は、社会学者の野口裕二さんが「物語的理解」あるいは「物語的説明」と呼んでいるものと重なります(野口裕二『物語としてのケア』医学書院、2002年)。そして、これと対比されているのが「科学的説明」です。科学的説明では、これまでに確認されている一般的な法則に基づき、「こういう条件のもとではこういう結果が生ずる」といった形で事態を解き明かそうとします。

 一方、物語的説明では「運命のいたずら」としか言えないような偶然や、一回きりの人生における「出会い」や「すれ違い」を重視します。そして、無数の出来事のつながりに「一貫性」が見出されたとき、私たちは「事態を理解したと感じる」のです。付け加えれば、出来事のつなげ方と一貫性の持たせ方は、ひとつに限られません。何パターンかありえる、つまりは唯一の正しさを求めないことも、物語的説明の特徴です。

 同じ説明であっても、腑に落ちる人と落ちない人の両方がいるでしょう。でも、それでいいと思っています。なぜなら、私がやりたいのは、唯一絶対の正解を見つけ出すことではないからです。大事なのは、様々な視点に立った多様な物語(説明)が作られていくことです。そして、その中から自分にしっくり馴染むものを、一人ひとりが選んでいけばよいと考えています。

 そうして選び取った物語(説明)は、本人にとっては混沌として一切語ることのできなかった経験を言語化し、周囲に伝えていくための糸口になるかもしれません。また、周囲の人にとっても、断片的に投げかけられた言葉を一本につなげていく手がかりになるかもしれませんし、あるいは、ひきこもっている本人が沈黙を続けていたとしても、相手の経験を想像することくらいはできるようになるかもしれません。

 

当事者の声を〈聴くこと〉は支援になるのか

 はじめは不可解でしかなかった相手の言動や振る舞いと取っ組み合いを続け、どうにか腑に落ちるところまで辿り着こうともがき続けること、理解しようとし続けること、それが私にとっての〈聴くこと〉です

 先ほども述べたとおり、〈動けなさ〉が見えるようになって気づいたことのひとつが、当事者たちは対人関係を持てなかったり、働けなかったりすることだけに苦しんでいるわけではないということでした。かれらは、自分でも自分が分からないのに、ましてや他者と通じ合えるはずがないという、絶望的な苦悩や孤独を抱えているのではないでしょうか。そういうものに耐えながら生きていくことは、あまりに過酷であると思います。

 当事者の声を〈聴くこと〉は、かれらとともに過ごしながら、そうした葛藤を受け止められる存在に自らを高めていくことなのではないかという気がします。こうすればひきこもっている状態に変化を起こせるという分かりやすい処方箋を出せるわけでもなく、対人関係を回復させ、就労・経済的自立を達成させるための具体的な方策を打ち出していくわけでもありません。ですが、その人の生を支えることが支援の根源であるとすれば、「ひきこもり」の支援において〈聴くこと〉は欠くべからざるものであると言えます。

 さらに、〈聴くこと〉はひきこもっている本人とのコミュニケーションの余地を生み出すことにもつながるのではないでしょうか。前回の喩えをふたたび持ち出せば、相手から投げられたものを受け取っても「あなたが苦しんでいることだけは分かった」としか返せなかったところから一歩進んで、「あなたはひょっとしてこういうふうに苦しんでいるの?」と相手に投げ返すことができるようになるからです。そうしたらまた、相手から返ってくるものがあるかもしれません。〈聴くこと〉は新たな語りを引き出しうるのです。

 次回はこの点を踏まえて、第1回目に触れた二重の〈語れなさ〉について考えたいと思います。 

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