日本人は闇をどう描いてきたか

第十一回 天狗草紙 ――天を駆ける魔

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第十一回は、山に群がる天狗を描いた作品から。

日本国第一の大天狗

 元暦二年(一一八五)三月、平氏滅亡後の政局は依然として不安定であった。
頼朝との対立を深めた弟の義経が、叔父の行家と共謀して後白河上皇に対して頼朝追討の院宣を要請、同年(改元して文治元)一〇月一八日の公卿僉議(くぎょうせんぎ)の結果、上皇がこれに応じたことが混乱に拍車をかけた。
 果たして、続く一一月には大軍を率いて駿河国に着陣した頼朝に屈し、義経は京都を脱出。上皇は、頼朝への使者を通じて「行家・義経謀反のことは、天魔の所為である」との苦しい言い訳を伝えたが、頼朝は「天魔とは仏法のために妨げをなし、人倫に煩(はん)をいたすもののことである[中略]、日本国第一の大天狗とは、いったい誰であろうか(上皇こそが大天狗にほかならない)」と冷ややかに返答したのである(『吾妻鏡』文治元年一一月一五日条、『玉葉』同年同月二六日条)。

仏法を妨げる天魔

 公武それぞれの立場から中世を切り開いた二人による、激しい応酬の核心は、上皇が行家・義経を名指しする「天魔」の語と、頼朝が放った「天狗」の譬喩(ひゆ)が対になっている点にある。
 頼朝が示した認識のとおり、天魔とは仏法を妨げる者を指す。諸経典に頻出する語で、原義は、釈迦が悟りをひらく禅定(ぜんじょう)の最終段階で、これを妨害するために現れた煩悩の化身マーラ(Māra)にある。これを漢訳すると天魔となる。つまり冒頭の言い訳で、上皇は「頼朝追討の院宣は、行家・義経にたぶらかされた気の迷いであった」と主張したのである。言外に「釈迦でもない凡夫の自分が、天魔の所為を逃れようもないではないか」との責任転嫁を含意する、弁明の常套句である。

天狗とは何か

 では、これに応答する頼朝は、なぜ上皇を天狗にたとえたのか。
 そもそも、天狗とは一体何か。その出現は中国古代にさかのぼる。司馬遷『史記』天官書第五に、「天狗とは、大奔星(流星)のようで声(音)を出す、地に止まる時は狗(いぬ)のようである」と記されている。この知識は日本にも伝来し、『日本書紀』舒明天皇九年(六三七)には、大きな星が東から西に流れ雷に似た音がして、人々が「流星の音だ」「地雷だ」と騒いでいたところ、唐から帰国した僧の旻(みん)が、「これは天狗である。その吠える声が雷に似ているだけだ」と説明したとの逸話が載る。
 つまり、古代中国や日本では、流星や隕石などの天体現象を天狗と呼んでいたことが分かる。隕石が地上に落下する際の大音響を、吠えながら天空を駆け抜ける狗にたとえたものであろう。古来、流星や隕石は天変地異や国家騒乱を予見する凶兆ともされ、空に轟く大音響が不気味な狗の遠吠えに重ねられた。
 およそ四〇〇年を経て、平安時代の日本では、天狗が異なる姿で再登場する。一〇世紀末に成立した『宇津保物語』や一一世紀初頭の『源氏物語』において、山中で怪異を起こしたり、人を攫(さら)ったりする妖怪として「天狗」の名が現れる。さらに、『大鏡』には、三条天皇(九七六~一〇一七)の眼病の原因を、比叡山延暦寺に住む天狗の仕業と記す。かつて延暦寺僧の桓算(かんざん)が、皇位継承争いの祈禱でライバルの良源(りょうげん)に敗れたことを恨みに思い、死後天狗になって、天皇に災いをもたらしているというのである。天狗の背中に生えた羽が、天皇の目を覆い隠して見えなくしているとの怪異であった。
 以上のように、平安時代の物語や史書に登場する天狗は、山奥に棲む妖怪や、堕落した僧侶の化身であった。これ以降も、中世説話の中に、出世欲や虚栄心にとらわれた僧侶が天狗になって、人をたぶらかしたり世に災いをなしたりするとの話が頻出する。そして鎌倉時代には、そのような天狗を描いた「天狗草紙」が成立する。
 この絵巻は、興福寺巻・東大寺巻(狩野晴川院模本、東京国立博物館蔵)、延暦寺巻・東寺巻(東京国立博物館蔵)、園城寺巻(個人蔵)、三井寺巻A(個人蔵)、三井寺巻B(根津美術館蔵)の七巻で構成され、このうち興福寺巻の詞書に永仁四年(一二九六)の年記があることから、この頃に成立したものと見られる。

延暦寺衆徒と若天狗

 ここに掲げた延暦寺巻では、長大な画面に比叡山周辺の景観が描かれている。琵琶湖を望む坂本の風景にはじまり、日吉(ひえ)社境内を過ぎて山道を分け入り山上の伽藍に到着する。静寂なる霊地と思いきや、根本中堂とおぼしき仏堂の前では、東塔(とうとう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三塔から集まった衆徒(しゅと)、寺院運営の実務を担う僧侶、しばしば武装して僧兵ともなった)が、対立する園城寺を焼き討ちする僉議の最中である。画中詞(がちゅうし)と呼ばれる、絵の中に書き込まれた台詞には次の内容が記されている。

 それ、我山は仏法繁昌の勝地、鎮護国家の霊場也。訴詔(そしょう)他寺他門に異なり、非拠を以て理訴(りそ)となす。聖断滞り有らば、すみやかに諸院諸堂を閉門し、七社の神輿(みこし)を陣頭に振り奉り、天下の騒動を引出さるよや。(――現代語訳:比叡山は仏法繁昌の勝地、鎮護国家の霊場である。訴訟となれば、他の寺や宗派と異なり、論拠がなくとも我々の訴えこそが道理となるのである。もしも朝廷の判断が滞るようであれば、急ぎ諸院諸堂の門を閉じ、日吉社の神輿を陣頭に振り奉って、天下に騒動を引き起こしてやろうではないか。)

 自宗の、他に対する優位性を説き、傍若無人に振る舞う衆徒たちの姿は、中世にたびたび行われた延暦寺衆徒による強訴の実態を反映している。朝廷への訴えを通すための実力行使として、しばしば日吉社の神輿が京中に運ばれ、時に何年も放置された。神威が宿る神輿の祟りを恐れ、何人たりとも反撃することはできず、神輿を振りかざして衆徒が洛中になだれ込む強訴は、為政者にとって実に厄介な事態であった。
 続く場面は、東塔の惣持院である(図)。長安の青龍寺に倣って、慈覚大師円仁が創建した由緒ある伽藍であるが、画中に、垂髪の若い天狗が二羽描かれている。その後を追うように、裹頭(かとう)袈裟の天狗がおり、さらに山の稜線に沿って三羽の天狗が走り回っている。彼らは、鳥のような嘴をもった、いわゆる「烏天狗」である。中世絵巻に登場する天狗は、ほとんどの場合このような姿をしている。

【図】天狗草紙 延暦寺巻(重文、東京国立博物館蔵) 第一段惣持院の場面
図版出典:土蜘蛛草紙 天狗草紙 大江山絵詞(続日本の絵巻26、中央公論社、1993年)

 この場面にも画中詞があり、次のように記されている。

  妙果(みょうが)あれや、我が立つ杣(そま)の杉の木の末頼もしき若天狗かな

 この画中詞は、伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を建立した際に詠んだと伝わる「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たち、我が立つ杣に冥加あらせたまへ」(『和漢朗詠集』六〇二、『新古今和歌集』巻二〇)を踏まえたものである。
 比叡山における仏法興隆を諸仏に祈願する内容の本歌に対して、この画中詞では、若天狗、すなわち元服前の垂髪の稚児を愛でる性愛のニュアンスを含む。不謹慎ながら、比叡山の歴史を茶化して、その宗教的権威をひっくりかえすような機知にとんだ歌意である。
中世の天狗には、既存の秩序や体制を、どこかユーモラスなやり方で転覆させるような力が期待されていた。

七種の天狗

 従来「天狗草紙」と呼ばれてきた本作であるが、近年、神奈川・称名寺に伝来する聖教中に、同寺二世長老釼阿(けんな)による詞書の写しが発見されたことによって、本来「七天狗絵」と題されるものであったと判明した。その名の通り、全七巻を通じて、興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺・東寺の大寺院、及び山伏(修験)・遁世(とんせ)の僧らを七種の天狗にたとえ、その堕落を風刺する。
 七という数字へのこだわりは、『倶舎論(くしゃろん)』や『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』等に説く、七種の驕慢、すなわち七慢(しちまん)の説に基づく。

①慢(まん)……自分より劣った人に対して、自分が優っていると自惚れ、同等の人 に対して心を高ぶらせる。
②過慢(かまん)……自分と同等の人に対して自分が優っていると思い、自分以上の人 に対して同等と思い込む。
③慢過慢(まんかまん)……自分より優っている人に対して、自分はそれ以上に優れて いると思い込む。
④我慢(がまん)……自我に執着し、自惚れる。
⑤増上慢(ぞうじょうまん)……悟りを得ていないのに、悟ったと思い込む。
⑥卑慢(ひまん)……自分よりはるかに優れた人を見ても、自分は少ししか劣っていな いと思い込む。
⑦邪慢(じゃまん)……徳がないにもかかわらず、自分に徳が備わっていると言い張る。

 七巻のうち、興福寺巻・東大寺巻・延暦寺巻・園城寺巻・東寺巻の詞書では、冒頭で各寺院の縁起と、おのおのの教義の優位性が説かれるが、最後には我執と驕慢に陥った僧侶が天狗になるという展開が一致している。先に見た延暦寺巻に登場する天狗の衆徒たちは、まさに自宗の優位を誇る「過慢」の咎(とが)に陥っているといえよう。
 さらに、三井寺巻Aでは、天狗に騙された僧侶の滑稽譚が集められた第一~三段までと、時宗と禅への批判を含む第四段とが組み合わされており、先に見た五つの巻に比べ仏教界への批判が一層強く表されている。特に、手づかみで飯を食らい、万病の薬といって開祖一遍の尿を集める時宗の僧尼たちの姿には、容赦ない批判の眼差しが向けられている。
 ところが、三井寺巻Bにおいては一転して、仲間の死を契機として発心し、真の修行を目指すことになった天狗たちが登場する。力を合わせて寺院を建立し、穏やかに法会を行う僧たちの姿はもはや天狗ではない。詞書においても、これ以前の巻で批判の対象となってきた、南都北嶺の大寺院、浄土、修験、全てが肯定されて大団円となる。
 全七巻の構成を通覧すると、天狗の姿を借りて、宗論(教義の優劣を競い合うこと)そのものの無意味さを批判するのがこの絵巻の主題であったようだ。三井寺巻Bの詞書では、魔界も仏界も等しく悟りの可能性を秘めていることが繰り返し述べられており、全ての衆生に仏性が備わるとする天台本覚思想との結びつきもうかがわれる。

大天狗のゆくえ

 さて、後白河上皇を「日本国第一の大天狗」と評した頼朝の真意について改めて考えてみたい。「天狗草紙」に登場する天狗には、仏法を妨げる者としての一面があり、確かに天魔とよく似た性質を持つ。ただしその一方で、天狗は単なる障礙(しょうがい)として終わるのではなく、既存の権威をその内側からひっくり返し、優劣の議論を無効化し、最後には清濁ひとくくりにした新しい秩序を生み出す力にも満ちていた。
 平家を滅ぼし、義経を京から追い払い、武威によって圧倒的な優位を獲得した頼朝の側から発せられた大天狗の語は、トリックスターとしての後白河の力を引き出し、自らの政権確立の梃(てこ)としてさらなる大暴れをそそのかすような、それこそが魔性のささやきであったのではないだろうか。時を同じくして、上皇は、今度は頼朝に対して、義経・行家追討の院宣を下すのであった。変幻自在に世を攪乱する、まさに大天狗の所為である。

(参考;「天狗草紙」は、e国宝サイトで参照することができます。)

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