ちくま文庫

レオ・ペルッツの綺想世界
『アンチクリストの誕生』解説

10月刊行のちくま文庫レオ・ペルッツ『アンチクリストの誕生』の解説を皆川博子さんにご寄稿いただきました。「花も実もある絵空事の作家」の魅力を案内します。

「小説は、花も実もある絵空事(えそらごと)を」と主張したのは、エンターテインメント小説界の巨峰・柴田錬三郎でした。一九六〇年代半ばから七〇年代にかけて、日本の中間小説界では社会派的なリアリズムが尊重され―一方で、海外の幻想文学が盛んに邦訳された時代でもあったのですが――、現実の日常から飛躍したフィクションはとかく低く見られがちな風潮があったその中で、シバレンさんは声を上げたのでした。中間小説というのは今ではなじみのない呼称になったと思いますが、説明は略します。
〈花〉が奔放なフィクションを示すなら、〈実〉は、正確で広範な知識学識、人間と社会に対する深みに達した認識、その双方を備えたものを指すのではないか、と思います。〈実〉というより、張り巡らされた〈根〉なので、私がねじ曲げて解釈しているのですが、本邦でいえば、その実践者として、柴田錬三郎その人はもとより、山田風太郎、山田正紀の名が浮かびます。
〈奔放なフィクション〉とはすなわち、大法螺です。〈根〉が充実しているほど、みごとな花が咲く。レオ・ペルッツはまさに、「花も実もある絵空事」を著す小説家であると思います。大法螺、絵空事という言葉がよくない印象を与えるなら、それは〈純文学〉偏重のせいではないでしょうか。
 レオ・ペルッツが本邦に紹介されたのは、一九八六年、ドイツ文学者前川道介先生が訳された『第三の魔弾』をもって嚆矢(こうし)とします。その解説で前川先生は、〈ドイツでは文学の世界でも、真面目なもの、教養主義的なものを尊び、遊びの要素の強いものは故意に無視する傾向があり、純文学と大衆文学を必要以上に区別〉する傾向が強いと記しておられます。二十年近い昔になりますが、ドイツの若い小説家と話を交わす機を得たことがあります。はっきり区別されている、と彼は言ったのでした。権威のある書評誌の名を上げ、それに採りあげられるのが純文学で、娯楽的要素のあるものは排除される、ということでした。現在の状況は知りません。日本では、最近は両者を隔てる壁が薄く浸透性を持つようになってきていると感じますが、ある時期まできわめて強固でした。児童文学において殊に顕著で、そのために一時期の日本の児童文学は社会主義的リアリズムを尊重し教条的になり、面白さに欠け、と綴っていくと脇道に逸れるので、ペルッツに戻ります。
 ふたたび前川先生の解説を引きますと、〈史実と不即不離の関係を保ちながら、作者の主観と空想が展開する物語を専門の歴史家にも興味深く読ませるのが歴史小説のすぐれたもの〉であり、ペルッツの場合〈作者の空想がヴィジョンと呼びたいほど強烈〉であるがゆえに、〈幻想的歴史小説〉としておられます。〈幻想歴史小説の本質とその興味は、学問的に承認され秩序づけられている史実に作者が独自の強烈なヴィジョンによって亀裂を入れ、読者に思わず快哉を叫ばせる離れ業(サルト・モルターレ)であるといっていいでしょう。〉
 絶版になっていた『第三の魔弾』は二〇一五年、白水社からUブックスの一つとして復刊され、前川先生の解説も載っています。私が読んだのは、この版です。
 本書『アンチクリストの誕生』の訳者垂野創一郎氏が二〇〇五年に訳出された『最後の審判の巨匠』(晶文社)を、私は幻想文学偏愛を標榜しながら、けしからんことに読み逃しており、ペルッツに初めて接したのは、同氏の訳になる『夜毎に石の橋の下で』(二〇一二年 国書刊行会)によってでした。ルドルフ二世―存在そのものがフィクションのような、実在した皇帝―治下のプラハ、というだけでも十分に興味をそそられます。グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』や無声怪奇映画『プラーグの大学生』などの舞台になった、ルドルフ二世の影がのびるプラハは、綺想幻想の物語が生まれるのにふさわしい都市です。『夜毎に……』は、素材と舞台を生かし切った興趣深いものでした。解説も垂野さんですが、史実を踏まえながら魔術を用いたかのように綺想を開花させる作風を的確な譬喩で語っておられます。〈厚紙の下で操られる磁石によって、上に撒かれたばらばらの砂鉄が微妙に向きを変え、思いもよらなかった模様を形づくる光景を思わせる。〉
 それ以後、垂野さんは『ボリバル侯爵』『スウェーデンの騎士』『聖ペテロの雪』、そしてこの『アンチクリストの誕生』と、ペルッツの諸作を次々に翻訳され、日本の読者が親しむ機を与えてくださっています。ナポレオンの進撃を迎え撃つスペインだの、スウェーデン対ロシア・ザクセン同盟の北方戦争だの、場所も時代も多岐にわたり、それぞれが奇想天外でありながら、確たる史実に基づいている。中短編集『アンチクリストの誕生』では、一作ごとに異なる場所、異なる時代が取り上げられています。
 ペルッツの該博な知識と亀裂の入れ方を楽しむとともに、後書き・解説を記される訳者垂野創一郎氏の碩学にも驚嘆します。垂野さんは同人レーベル〈エディション・プヒプヒ〉で、ドイツ、オーストリア、チェコなどの作家を中心にした、商業ベースには乗りにくい異色の幻想小説を翻訳刊行しておられます。かつては澁澤龍彥氏や種村季弘氏が率先して海外の幻想綺想作品を紹介しておられました。その流れが途絶えることなく続いているのは、嬉しい限りです。文庫版で新訳書が刊行されることにより、ペルッツの、ひいては綺想小説の、魅力に惹かれる読者が新たに生まれることと思います。
 

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