昨日、なに読んだ?

File19. 江本純子・選:旅で読めなかった本

佐藤泰志『海炭市叙景』、藤子・F・不二雄『ドラえもん』、平田オリザ『演劇入門』、崎田ミナ(著)福永伴子(監修)『ずぼらヨガ』、Cozy『海外ドラマはたった350の単語でできている』、芥川龍之介『藪の中』

紙の単行本、文庫本、デジタルのスマホ、タブレット、電子ブックリーダー…かたちは変われど、ひとはいつだって本を読む。気になるあのひとはどんな本を読んでいる? 各界で活躍されている方たちが読みたてホヤホヤをそっと教えてくれるリレー書評。 【江本純子(劇作家/演出家/俳優)】→山田航(歌人)→???

 本を読まずに、コミュニケーション欲がみるみると加速していったことにもわけがある。わたしは「1秒恋愛」と名付けた出会いを楽しむようになっていた。旅先で出会ったひとに一瞬だけ恋心を抱く。ただそれだけ。「1秒恋愛」の瞬間が訪れたとき、わたしはしばらく寂しさを忘れることができた。『ドラえもん』が不要だったのは、わたしが生身のときめきを欲したからかもしれない。
 最初の1秒恋愛はアイスランドのフーザヴィークという町に泊まったときのこと。前日の夜に予約したのだが、わたしの予約が入っていない。レセプションにいたのは、10代の女の子で、一生懸命宿泊者リストを確認してくれるけれど、手詰まり。すると、レセプションの扉が開いて、キレイな人が現れた。宿のオーナーで、たぶん女の子のお母さん、年はわたしと同じくらいか少し下か。ほどなくしてこの「キレイな人」は「めっちゃくちゃきれいなひと」だと、わたしは認識した。キュン。この人、まじでタイプだわ。数分後に、無事にチェックイン。わたしが渡したクレジットカードを処理する様、明日の朝食はここでゲストみんなで食べるからねと説明してくれる様、なんでも見惚れちゃう。さっきスーパーで買ったばかりのニシンマリネの瓶の蓋がなぜか空いていて、レセプション内の椅子にくっさいビネガーをこぼしてしまったことを詫びても、全然大丈夫よーとセクシースマイル。予約の件はこちらのミス、ごめんなさいって詫びる彼女に、わたしの方は、全然大丈夫〜とすっごいにやにやして答えたと思う。
 翌朝、朝食のときに、彼女はカーディガンを脱いで、半袖で食事の支度をしていた。と言ってもなくなったミルクを新しいミルクに交換する、とかその程度。フレンチスリーブが、眩しいね。歌の歌詞でも作れそうだ。よく休めた? と彼女に話しかけられ、なんかごにゃついた英語で答えてしまい、英語通じないモードに突入しかけたが、ごにゃごにゃごにゃcomfortable! と辛うじて起死回生。よかったと笑顔を見せる彼女。comfortableって単語のおかげ。本当は朝、壁にひっついていたベッドサイドランプが枕元に落ちてきて、びっくりしたのだが、それについての説明は、ややこしくなりそうだったので黙っておいた。しかし彼女と話したくて、何かしゃべることはないかと、朝食をとりながら考えた。「宿を出るとき鍵はどこに返せばいいの?」わたしは特に聞かなくても大丈夫なことをわざわざ聞いた。「わたしに返して」と彼女は言った。「ここに返しにきて」じゃなくて、「わたしに返して」って、めちゃくちゃセクシーじゃない? 荷物をまとめて、鍵を返しに行ったとき、宿に泊まった感想をいっぱい用意したけど、ベッドサイドランプの落下の件と同じく、なんかぎこちなくなるのが恥ずかしいのと、なんかわざわざ言うのもおべっかみたいで嘘っぽいよな、なんかなーなんかなーともじもじしてきたので、結局言わなかった。その代わり、Thank you so much!と何日かぶりのとびきりスマイルを添えて言った。これで十分伝わった気がする。そして脳にも本当の情報が伝達して、体内には幸せセロトニンが放出されたはず。Have a nice trip! それはもちろん美しい笑顔が返ってきて、わたしはその後バス停までの徒歩5kmの道のりもへっちゃらだったさ。
 二回目の1秒恋愛もアイスランドにて、エイイルススタジルという町で遭遇した。この町にも一泊しかしない。宿のまわりはやっぱりなんもない。なんもなくていい。馬はいた。また馬か。こんなに馬ばっかりいて何してんの一体。宿に着いたら、いつも散歩するのだが、このときも散歩に出た。宿を出て、近くにある川を目指した。「乗っけていこうか?」と車から声をかけてくれたおじさんがいたが、「歩きたいから」と断った。一秒恋愛の相手は彼ではない。
 カフェなんかないだろうな、最初から諦めていた。でもビールは飲みたい。アイスランドにコンビニはなく、点在するガソリンスタンドで飲み物やお菓子が売られている。ビールも売ってはいるがアルコール度数が2%くらいの、ビールとしての満足度はあまり得られないもの。5%以上のビールを売っているのは、あまり見かけることのない酒屋だけ。だから、ビールを飲みたかったらカフェに行くしかない。でもないだろうな。今夜はビールを飲まずに宿でハーブティーかなと考えていたら、たどり着いた川の目の前に、あったんだカフェが。しかもブックカフェ。ここは……よさそうだぞ。ビールを飲みたくて死にそうなんだ。……よし入ろう。孤独のグルメのひとのように私は頭ん中でしょっちゅうひとり言を言うようになっていた。店の中央にはケーキビュッフェのように、凄まじく甘そうなケーキたちが豪快に並んでいる、壁沿いは全て本棚。この店にはケーキをむさぼるひとか、本を黙って読んでいるひとの二種類に完全に分かれていた。わたしはケーキも食べないし、本も読まないのでビールだ。ビール……あった。一昨日滞在していた町にあった酒屋で、酒屋自体も珍しかったがビールの種類もたくさんおいてあり、そこで買って飲んだらおいしかったBOLIもある。さっそくカフェの店員に注文……すんごくかわいいひとだった。あーわたしこの人タイプだわ。1秒恋愛の到来。本もケーキも愛しているんだろうな。アートも。きっと音楽も。一昨日見つけといてよかったよBOLI。BOLIってビールを知っていたおかげで、わたしはなんてスマートにビールを注文できたことだろう。BOLI好きなの? うん、BOLI好きみたい。はいBOLI。ありがとう。と、恋のはじまりにでもなりそうな軽いやりとりまでして。
 それからしばらく、この店で、本も読まずケーキも食べずにビールだけ飲みながら、店にいる人たちを観察した。アイスランドのひとって太ったひとが多いなぁとずっと気になっていたのが、ここでひとつの答えを推測した。そうか、太陽の光がほとんどない冬は家にこもって、読書とケーキか。そりゃ太る。でもあのお姉さんは細いし……やっぱりかわいい。カフェを出るとき、わたしはもっていた小銭を全てチップボックスにいれた。もちろん笑顔で。また脳にいったね、セロトニン来るね。彼女は苦笑いのような照れ笑いのような顔をしてサンキューと言った。キュン。チップボックスには硬貨なんて入っていない、全て紙幣。チップじゃなくて、これじゃ募金みたいじゃない? 数秒の微笑み合いで、きっとそんなことを通じあったんじゃないかと、ひとり満足し、店を出た。ふぅ。楽しかった。

エイイルススタジルのブックカフェ

 

店内

 

 1秒恋愛の瞬間は、このあとに滞在したモントリオールでも二回ほど訪れたが、だいたい似たような感じ。渇望していた心は少しだけ満たされ、いよいよ「休む」境地に向けて、着々と調子が整っていった。

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