上田麻由子

第12回・まぼろしの仮面舞踏会

『劇団シャイニング from うたの☆プリンスさまっ♪ 舞台「マスカレイドミラージュ」』

 月明かりが照らすバルコニーに、佇むふたつの影。仮面舞踏会を抜け出してきたのは、名門貴族の跡取りであるレイジーと、「天使」と形容される清らかで澄みきった歌声を持つ、ひとりの楽師。貴族らしい余裕のある笑みを浮かべた青年と、バッスルで膨らませた後ろ姿によって際立つ華奢で、中性的な美貌の歌い手は実にお似合いで、今にもロマンスが始まりそうに見える。しかし楽師の正体は、舞踏会の主催者たるジルコニア夫人の美しいルビーを奪いにやってきた、怪盗アインザッツだった――。

仮面をつけたプリンスさま

 2次元男性アイドルブームの火付け役である『うたの☆プリンスさまっ♪』。「劇団シャイニング」は、そのメディアミックス展開のひとつとして、「プリンスさま」ことアイドルたちによる架空の演劇プロジェクトだ。ドラマCDや書き込みのされた台本、キャラクターソング、SNSや駅の広告などを使って、あたかも実際の公演が打たれているように演出されたこの「劇団シャイニング」は、バックステージも含めた2・5次元舞台作品の「お祭り」感を実によくシミュレートしている。その三部作の「2・5次元化」ではなく、あくまで生身の俳優が「プリンスさま」に代わって同公演の「二代目」を演じるという、この「劇団シャイニング fromうたの☆プリンスさまっ♪」がいかに次元のねじれた企画であるかは、その一作目『劇団シャイニングfromうたの☆プリンスさまっ♪ 舞台「天下無敵の忍び道」』について書いたときに説明したとおりだ。

 その特異な出自ゆえに巻き起こったセンセーションのなか幕を開けた一作目は、一種独特な緊張感に包まれていた。しかし、この二作目『劇団シャイニング from うたの☆プリンスさまっ♪ 舞台「マスカレイドミラージュ」』は、「仮面舞踏会」という演劇と相性の良い古典的なテーマが取り上げられていること、また映画館の大スクリーンでのライヴビューイングにも耐えうる豪華絢爛な衣装(基本的に低予算の2・5次元舞台では稀なことである)、貴族のお屋敷と薄暗い実験室を回転舞台で自由に行き来する、どこか箱庭的なセット、そして中心となる三人の「二代目」俳優たちはもちろん、小気味良い脇役や、アンサンブルの隅々まで徹底された美意識などのおかげで、タイトルどおり蜃気楼のような一夜の夢に思いきり耽溺させてくれた。

 物語は、宝石専門の怪盗アインザッツと、奪われたネックレスを取り戻そうとする「探偵役」のレイジーが競い合う、ミステリー仕立てになっている。その攻防戦のなかで見えてくるのは、アインザッツが実は機械の身体を持つ人形「オートマータ」であること、いつも飄々としているレイジーの内なる葛藤と、幼なじみである警官シーノの「もうひとつの人格」。アインザッツが引用する「この世は舞台」という、かの有名な劇作家の言葉どおり、「仮面舞踏会」は貴族のお屋敷での一夜の出来事という枠を飛び越え、どこかで本音を隠している青年たちの生き方そのものの暗喩であることがわかってくる。

考える人形

 中盤で焦点が当たるのは、オートマータであるアインザッツの悲哀だ。彼が宝石を盗むのは、錬金術師ジェルマンの望みを叶えるため。宝石は、彼の最高傑作たるオートマータ、つまりアインザッツを永遠に生きながらえさせる動力源になるのだ。しかし、アインザッツはただの人形ではなく、考える人形ゆえに、永遠を手にいれた「あと」のことを尋ねずにはいられない。「すべての人間が滅びたあと、ジェルマンさまさえいなくなった世界で僕は、何をすればいいのでしょうか。どう生きていけばいいのでしょうか」。

 しかし、この問いに答えは与えられない。それどころか「人形がそんなことを考えるな」と咎められさえする。アインザッツは考えることができるという理由で「最高傑作」たりえたが、その力はまた彼を永遠の苦しみのなかに捕える。先に引用した、レイジーに正体を明かしたときに語っていた、この世は舞台、人はみな役者という仮面舞踏会的哲学に込められた、生き方を選べない彼の切実な思いが明かされていく。

今宵、最高の美女をいただきに

 そんなアインザッツが覚悟を決めたときに放つ「言ったでしょう、結末はもう決まってるって。舞台の最後には、人形が一つ転がってるだけだよ。何もない、空っぽの人形がね」という言葉には、不安を煽るような、空恐ろしい響きがある。このときのアインザッツ(太田基裕)の諦念に満ちた、どこか恨みがましいような表情は、2・5次元というつかのまの遊戯に興じている観客たちの背筋を少しだけ震わせる。

 創造主の欲望によって、かりそめの人格の受け皿になるよう生み出された、かりそめの身体。自ら考えることを求めつつ、決して考えすぎないよう、あくまで与えられた役割、つまり「キャラ」という枠内にとどまるよう求めること。このときアインザッツが置かれている状況は、2・5次元の俳優が置かれているそれとも重なる。2・5次元というジャンルそのものへの批評性を帯びるアインザッツは、それでいてその美しさでわたしたちを魅了せずにはいられない。

 そう考えると、アインザッツの動力源が、レイジーの妹(それは、ドラマCD付属の「台本」の香盤表が空欄だったことからもわかるとおり、プレイヤーキャラクターであるわたしたちを指す)の胸元を飾るルビーだったのもうなずける。2・5次元のキャラクターに、たとえかりそめでも命を与える、真っ赤な宝石、わたしたちの心臓であり愛情。ドラマCDでの「怪盗が盗んだのはあなたの心」という、どこかで聞いたようなオチも、それならば納得がいく(余談だがこの昭和的ベタさは、ある意味では『うたプリ』の特徴でもあり、たとえば今回のテーマソングも『オペラ座の怪人』のElements Garden流解釈のなかに、「お嫁サンバ」的なサビが顔を出して度肝を抜く)。

「僕は君であり、君は僕なんだ」

 さて、アインザッツとレイジーは、「怪盗」「探偵」という関係性をとりむすぶことで、あやふやな自己を確認し合う。このコインの裏表のようなふたりの密な関係性は、若き名門貴族の当主が探偵として事件を追ううちに、永遠を求めるものたちのたくらみに巻き込まれていくプロットとあわせて、レイジー役の染谷俊之がダリ・デリコ役として本作の直前に主演していたピースピットの『グランギニョル』(2017年7〜8月上演)を思い出さずにはいられない。

『グランギニョル』は、いまや舞台『刀剣乱舞』で2・5次元の命運を握るひとりになった演出家の末満健一が2009年よりライフワークにしている「TRUMPシリーズ」最新作であり、不死でなくなった吸血種「ヴァンプ」たちが、永遠の命を持つ吸血種「トランプ」の伝説に翻弄される姿が、張り巡らされた伏線や、ゴシック/ロリータ的な贅を尽くした衣装や耽美な世界観のなか描かれる。思春期の言い換えでもある「繭期」の少年少女には、アニメや漫画(特に24年組のギムナジウムもの)など2次元からの影響をおおいに受けており、それが基本的には関係性をもとに構築された物語であることは、対になるキャラクターの俳優を入れ替える「TRUTH/REVERSE(そして両者が混濁した「MARBLE」)」といった試みが成立するところからもわかる。

 もちろんオートマータと吸血鬼、スチームパンクとゴシックという設定の違いは、ただの美学以上の意味を持っている。なにより『グランギニョル』はその名のとおり出口のない残酷劇であるのに対し、『マスカレードミラージュ』の着地点「人は皆、心に見えない仮面をかぶって、 誰かの奏でる曲にしたがって踊るしかないのだ」という台詞は、生を肯定する懐の広さとあたたかさをもって発せられる。とはいえ、わずか2カ月ばかりのあいだに、まったく別の文脈から、しかし2次元からの影響はつよく受けて生まれた両作品がこのようなニアミスをしていることは、「2・5次元」とその周辺ジャンルの可能性を感じさせる。人気が出れば出るほどチケットが入手困難になり「閉じコン」(閉じたコンテンツ)化する危険性と常に隣り合わせの2・5次元舞台のなかで、作品の外に影響関係が広がっていくことは歓迎すべき事態だろう。

心を奪う怪盗

 その「近さ」は、なにより両作で主演(ダリ・デリコ/レイジー)をつとめた染谷俊之の、笑顔の下に危うさをはらむ存在感ゆえのことなのかもしれない。お上品ななかに陰謀と欲うごめく仮面舞踏会のなかで、目にも留まらぬ早業で、ジルコニア夫人のダンスの相手を奪い、正体(実は女当主に偽装した男性)をたちまち見抜いたレイジー。人の懐に優雅に、しかし大胆に飛び込んで、その本質を肯定させてしまう――実はこの舞台ではレイジーこそがアインザッツの心を奪う「怪盗」だとも考えられる。

「女性のふりをした男性」(このモチーフはジルコニア夫人とあわせ、本作で二度繰り返されている)であり、かつ「人間のふりをしたオートマータ」という難しい設定のアインザッツを演じる太田基裕の功績も大きい。爽やかな理想の王子様のようでいて、古く『マグダラなマリア』のドイツ労働者党の少佐アンナ・エーデルマンから、『刀剣乱舞』の妖刀・千子村正まで、性別を超越した妖艶さも持ち合わせた彼のような存在なしでは「2・5次元」というジャンルは成立しえないだろう(余談だが、「初代」アインザッツの美風藍を演じる声優・アーティストの蒼井翔太が、『うたプリ』の生みの親である音楽家の上松範康が「原作」のアニメ『戦姫絶唱シンフォギア』でも、サンジェルマンという人物の錬金術で男性から女性に、そして不老不死を手に入れたカリオストロというキャラクターを演じていることにも、作品同士の影響関係という意味では注目しておきたい)。

 いっぽうシーノ役の田川大樹は前二人に比べると「2・5次元俳優」としてのキャリアはまだ駆け出しながら、ソフト&ハードな二つの人格を演じたうえ、作中で二人に公然と抱きつくことができたことを、その匂いとともに「役得」と報告したうえで、「ぎゅーってしていいですか」と、次元を飛び越えてキャラと役者が重ねあわされる夢の3ショットを、千秋楽の挨拶で再現させてしまうあたり、2・5次元俳優としての潜在力を感じずにはいられない。

 オートマータに永遠の命を与える「幻のルビー」は、模造ダイヤとして使われる「ジルコニア」をその名に持つ貴族の家宝であった。つまり、ある種の偽物であることを受け容れることで、アインザッツはいつまでも生きながらえることができる。そう考えると「マスカレードミラージュ」、つまり蜃気楼のように儚い仮面舞踏会とは、2・5次元舞台そのものを指しているようにも思えてならない。

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