日本思想史の名著を読む

第14回 平田篤胤『霊の真柱』

狂信的な国学者?

 国学の大成者、本居宣長の名前は、日本の古典に関する学問を切り開いた学者として、いまでも日本史や国語の教科書に登場する。それに対して、宣長の影響のもとに国学者となり、多くの門人を輩出した平田篤胤<あつたね>(安永五・一七七六年~天保十四・一八四三年)に関しては、それほど多くが語られることはない。
 たとえばある出版社の高校日本史教科書は、「日本の古典をめぐる実証的研究」として国学が始まったと語り、それを宣長が「思想的にも高めて」、『古事記』の詳密な注釈書として『古事記伝』を著したことをとりあげている。これに対して篤胤については、その「復古神道」が没後に武士・豪農・神職に受容され、尊王攘夷運動を支えた事実を述べるだけで、思想の内容や著作の紹介は載せていない。同じ国学の思想家でありながら、ずいぶん違った扱いをされている。
 これは、戦後に平田篤胤の思想に関する評価が大きく下がったことに由来する。もちろん、宣長と篤胤の国学思想は、明治以来の大日本帝国の体制を正当化するイデオロギーとして用いられ、特に昭和の戦前・戦中期には、政府による思想統制が強まる過程で、「日本精神」を支えるものとして喧伝された。戦後のデモクラシーがそうした抑圧体制の崩壊によって成立したことに鑑みれば、一般に国学に対する評価が下がるのは当然である。だがそのなかでも、篤胤については特に評判が悪くなっていた。
 そうした戦後の篤胤批判を代表するものとして、和辻哲郎『日本倫理思想史』(一九五二年)における評価がある。そこで和辻は、篤胤が古典の解読という範囲をふみこえて、死後の世界や「無批判的な神話的宇宙論」を語り出したことをきびしく批判した。「篤胤の神道説は、宣長の長所である古典の文学的研究と関係なく、宣長の最も弱い点、すなわちその狂信的な神話の信仰をうけつぎ、それを狂信的な情熱によって拡大して行ったものである」(『日本倫理思想史』第五篇第八章第五節)。ここに言う「文学」とは文献学(Philologie)のことであるが、宣長の学問のまともな側面を受け継がず、日本の神々に対する「狂信的」な信仰を、さらに肥大させたという評価である。
 しかし思想史研究の世界では、一九七〇年代ごろから篤胤に関する再評価の動きが始まった。当時、中央公論社から叢書『日本の名著』の第二十四巻として『平田篤胤』(一九七二年)が一人に一巻を割くという扱いで刊行されている。編集・解説にあたったのは、和辻の門下に学んだ相良亨。その解説「日本の思想史における平田篤胤」では、篤胤が天狗や化け物をめぐる民間の信仰をまじめに受けとめたことにふれ、その「民俗」への関心が近代の民俗学の系譜の源流となったと指摘する。さらに、和辻が否定した死後の世界に関する議論についても、庶民の習俗のうちに息づく倫理意識とのつながりを指摘するのである。また九〇年代以降は妖怪ブームのなかで、妖怪研究の先駆者としての篤胤に注目が集まることにもなった。
 おそらくこうした動向に呼応したのであろう。岩波文庫では実に六十年ぶりに、篤胤のテクストが『霊<たま>の真柱<みはしら>』(一九九八年)、『仙境異聞・勝五郎再生記聞』(二〇〇〇年)と、ともに子安宣邦による校注本として刊行されている。さらに近年は宮地正人『歴史のなかの『夜明け前』――平田国学の幕末維新』(吉川弘文館、二〇一五年)に見られるように、十九世紀初頭における対外的危機感のなかで、全世界について貪欲に知識を吸収した篤胤の万能人ぶりを強調する動向も生まれてきている。一種の篤胤リバイバルが、大日本帝国の時代とはまったく異なる形で到来したのである。

天地のはじまりへの問い

 『霊の真柱』(本来の表記では「霊能真柱」)は、みずから考える国学の思想の精髄を簡潔に語った、篤胤の代表作である。文化九(一八一二)年に草稿が完成し、翌年に刊本として印刷され、世に出ている。岩波文庫版の「解説」で子安宣邦が紹介しているエピソードであるが、その執筆の経緯がまた特異なものであった。
 著書『古史徴』の第一巻「開題記」の記述によれば、篤胤が弟子をとり、国学の講義を始めてから七年後の文化八(一八一一)年の十月、駿河の門人のもとに訪れていたとき、篤胤はかねてから疑問に思っていたことを初めて口に出した。『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』など、神々の時代に関する「古<いにしえ>の伝<つたえ>」を記した書物どうしの間に、内容の違いがあるのはどうしてか。これまでは宣長の『古事記伝』の所説に従えばそれでいいと考えていたが、ほかのさまざまな書物も考え合わせて、正しい内容を確定する必要はないか。そして門人たちがそれに賛成したので、書物を集め、十二月五日からわずか二十五日間で大部の書物を書き上げた。
 そこで成ったのが、『古事記』上巻・『日本書紀』神代巻の内容を再構成した『古史成文』であり、その編纂の根拠を記した『古史徴』であり、『霊の真柱』の初稿であった。和辻哲郎から「狂信的」と評される理由もここにある。宣長は日本に伝わる神々の「道」をもっとも忠実に記したテクストは『古事記』であると見定め、その言葉の厳密な解釈作業に徹した。それに対して篤胤は、研究対象をそれ以外の文献にも広げ、和漢のさまざまな古典から取捨選択して、古伝説の「正」しい内容を構成した。その作業の主観性と、短い日数で厖大な主著を書き上げてしまう勢いに、「狂信」を感じとったのであろう。
 テクストの文献研究が発達した後世からふりかえれば、『古語拾遺』や『祝詞式』(『延喜式』の一部)も記紀と同列に扱い、儒学・道教・仏教・洋学のテクストからも古伝説の断片をかき集める、篤胤の手法が大きな問題を含むのは確かなことである。しかし、その再構成の作業が、独自に一貫した方針に基づいていることが、その思想の理解のためには重要だろう。その意味で「神話的宇宙論」と和辻が読んだ特徴が、興味ぶかいものになっている。
 そもそも『古事記』の本文は、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成れる神の名は」と始まる。最初からすでに天と地が成立している状態から物語を始めるのである。これに対して宣長は、弟子の服部中庸の著作である『三大考』を、『古事記伝』の附録として追加することによって、増補を試みた。すなわち、『日本書紀』の神代巻が「古<いにしえ>に天地未だ剖<わか>れず、陰陽分れざりしとき、渾沌<まろか>れたること鶏子<とりのこ>の如くして、溟涬<ほのか>にして牙<きざし>を含めり」と始まることに注目して、混沌たる状態から天と地とが形をとって現われ、それと同時に神々が生まれるという世界生成の過程を、図と文章とで示したのである。
 篤胤の『霊の真柱』は、この『三大考』に独自の見解を加え、語り直した作品である。そこで中庸の著作を重視する理由として、洋学による知見を加えて補強するところが注目に値する。篤胤によれば、西洋人は航海術を発達させた結果、この大地と海のありさまに関する知識を発展させた。その結果、地球が球体であり、「虚空<おおぞら>」に浮かんでいるという天文学の理論をも確立した。『三大考』に見える天地の生成の過程は、そうした最新の知識にも符合するというのである。
 また、創造神すなわち「天神<あまつかみ>」が天地を「造」ったあと、アダムとエバを生み出したという旧約聖書の所説と、イザナキ・イザナミの物語との類似を指摘する。この記述から、篤胤がキリスト教を正確に理解したとまで言うことはできない。だが、超越神に対する信仰が示すような、世界の始まりの前に存在したものと、そこから万物が生まれてくる過程に対する篤胤の関心が、きわめて強かったことがわかる。

死後の魂のゆくえ

 天地のはじまりとともに、『霊の真柱』が重要なテーマとしているのは、「霊の行方の安定<しづまり>」という問題である。この著作の冒頭で篤胤は、学問のためにはみずからの「大倭心<やまとごころ>」を安定させ堅固なものにしなくてはいけないと語る。その心構えのために重要なのが、自分が死んだあとはどうなるのかについて、確実な知識を得ることなのであった。世界の生成の過程を詳しく論じるのも、死後の魂が行くところである「幽冥」の世界の位置を、きちんと確認するためにほかならない。
 篤胤が『三大考』にない独特の思想を展開するのは、この「幽冥」の世界をめぐる考察においてである。『日本書紀』の記述を参照しながら、この死後の世界を主宰しているのは大国主神であるとする。そしてほかの著書『印度蔵志』では、大国主神がその人の生前の行状を審査し「賞罰」を正すと語っている。篤胤には、漢文で書かれた天主教書の内容を紹介する『本教外篇』という著作もあり、キリスト教の影響によって、大国主神による死後の審判という発想が生まれたとする篤胤解釈も、古くから見られる。仏教の閻魔大王の伝説などもあるから、キリスト教そのものと判断することはできないが、「幽冥」の世界のイメージを語るときに、参考にしていた可能性はあるだろう。
 しかし篤胤その人にとって重要なのは、キリスト教にふれたことよりも、やはりみずからの経験であった。『霊の真柱』の末尾では、宣長から受けた学恩への感謝を述べるとともに、著作の完成の直前、文化九(一八一二)年八月に亡くなった妻の面影について語っている。もしも自分が死んだら、その魂は「幽冥」の世界へと赴くことだろう。それは、『古事記』に描かれた黄泉国<よもつくに>のことではなく、人間が生きて活動している「顕世<うつしよ>」のどこにも、たとえば墓の上などに存在しているが、生前の人々には見えない世界だと篤胤は論じている。
 そして死んだあとに、やはり「幽冥」の世界にいる妻を伴って、師の宣長のもとを訪れ、春夏秋冬の景色を楽しもう。貧しい学究生活を助けてくれた妻の「功<いさお>」を追想しながら、篤胤はそう語っている。「幽冥」に関する発想それ自体は、初稿を準備していたころから抱いていたのかもしれないが、それを著作として完成させる情熱を支えたのは、親しい家族の死という悲劇であった。その深い悲しみを乗り越えるための「霊の行方の安定」。篤胤の思想が多くの人々を惹きつけたのは、そうした感情を背後にもった迫力ゆえのことだったかもしれない。