PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

自由に生きてくれる人
昔、一緒に暮らした人たち・1

PR誌「ちくま」11月号より古谷田奈月さんのエッセイを掲載します

 家族の誰にも祝ってもらえなくなってから、母は自分で自分の誕生日を祝うようになった。自分を祝うためにケーキを買う大人はそう珍しいものではないとのちにわかったが、お隣の家のぶんまで買ってきて、「今日、私の誕生日なので」とわざわざ届けに行く人は、母以外にまだ見たことがない。
 誕生日を祝われないのは母だけではなく、我が家では全員そうだった。今でもよく覚えているが、当時まだ小学校高学年くらいだった兄があるとき、「うちではもう誕生日だからどうこうってのはやめにしよう」と提案したのだ。私はすぐさまその案に賛成した。それだ、と思った。誕生日を祝うことも、祝われることも、嫌いではなかったが何かずっと違和感があり、それはあの意図的に作られるお祝いムード――ケーキにプレゼントに祝福の言葉――が、基本的に淡泊な我が家には確実に向かない、ということだったのだ。どんなにそれらしくしてみようとしても、いつもなんだか白々しい空気になる。あの気まずさをもう味わわなくていいのだと、私は救われた思いだった。
 母もすんなりその案を受け入れた。もともとこだわらない人だった。愛情に満ちた雰囲気を本能的に恐れる父と私、極端に楽天的で物事に拘泥しない母と兄、と我が家では大まかに性質が二分化されていて、誕生日廃止案はそのどちらにも適した良案だったのだ。
 ところが、その翌年の六月、母は自分の誕生日に何食わぬ顔でケーキを買ってきたのだった。お隣の家のぶんも、私と兄のぶんもあった。食べても食べなくてもいい、これはあくまで自分が勝手にやっていることだ、というのが母のスタンスだったが、言うまでもなく私たちは食べた。私と兄には完璧な展開だった――祝福の義務は消え、ケーキだけが残ったのだ。
 母としては、誕生日に何もしないというのは単におさまりが悪かったのだと思う。でももし母が義務嫌いの私たちを尊重するあまりに自分の望みを犠牲にしていたら、私たちはきっと新しい義務に縛られていただろう。ふと気が向いて誰かや自分の誕生日を祝いたくなっても、いや、祝わないと決めたのだからと、馬鹿な意地を張ったはずだ。
 働き者で、忙しい忙しいと今でもよくそうこぼしているのに、母にはずっと自由人のイメージがある。自分を中心に生きている人特有の強度と涼しさがある。中学時代、私は登校拒否児だったのだが、その理由を聞いてきたり無理に行かせようとすることなく放っておいてくれる母が不思議で――というより、そのことが怖いくらいに幸せで――一度、尋ねてみたことがあった。お母さんは私のことが心配じゃないの。
「心配じゃないことはないわよ」と、母は風呂上がりの顔に化粧水を叩き込みながら答えた。「ただ、自分のことで精一杯で、あんたのことまで考えられないだけ」
 最高、と私は母を称賛した。お母さん、そのままでいて。死ぬまで自分のことでいっぱいいっぱいのままでいて。少し憎らしげにしたけれど、母は笑い、鏡の中の自分を見た。
 今でも母は私を放っておいてくれる。作家という仕事についても何も言わないし、本は苦手、と私の書いたものも一切読まない。ただ、六月になると、自分の誕生日だからとケーキを届けにやってくることはある。
 

PR誌「ちくま」11月号