日本人は闇をどう描いてきたか

第十三回 十王図 ――三途河の奪衣婆

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第十三回は、特色ある女を描いた掛幅から。

初七日の裁判官

 十王図の成立は唐時代に遡り、敦煌出土の「十王経図巻」諸本が知られている。また、遅くとも南宋時代には各幅に十王それぞれを描いた十幅一具の「十王図」が成立し、江南の寧波(にんぽう)地方で制作された作品が多数日本へもたらされた。この影響を受けて、中・近世の日本でも各種の十王図が描かれ、追善や逆修の仏事に用いられた。ここに掲げた二尊院所蔵「十王図」(全十幅)は十四世紀に遡る古例で、宋元時代の作例に基づきながらも、和様化した要素が多々あり、日本における十王信仰の定着を物語る。

【図】藤原行光筆「十王図」秦江王幅(重文、京都・二尊院蔵)
画像出典:日本美術全集9(2014年、小学館)より

 中央に描かれるのは秦江(広)王(しんこうおう)で、初七日の裁きをつかさどる。死者が遭遇する最初の裁判官である。王のそばに二人の冥官がおり、手に持つ巻子には生前の善悪行が全て記録されている。さらに、棍棒を持った獄卒が罪人の到着を待ち受けている。
これらの要素は、『仏説預修十王生七経(預修十王経)』に基づく中国製十王図にも描かれるもので、王や冥官の服制が中国風であることや、王の背後に描かれた衝立に水墨の山水図が描かれる点などに、手本とした中国画からの直接の影響を見て取ることができる。

本地仏とは何か

 一方で、画面上方に秦江王の本地仏(ほんちぶつ)としての不動明王が描かれているが、これは平安後期の日本で成立した『地蔵菩薩発心因縁十王経(地蔵十王経)』にのみ見られ、中国製十王図には基本的に描かれない(ただし例外もあり、称名寺蔵「十王図」は中国製であるが本地仏をともなう。中国で全く描かれなかったわけではなさそうであるが、事例は少ない)。
 本地仏とは、仏教の起源であるインド(本地)において仏・菩薩の姿で現前するこの世の真理が、日本においては神の姿で出現するとし、神仏を同体のものと見なす神仏習合思想に基づく考え方である。全ての日本の神には本来の姿、つまり本地仏があるとされ、平安時代には神仏の組み合わせが体系化されていった。
 中世日本では、元来道教神である十王それぞれに本地仏を設定することで、既存の仏事や信仰との接点が保たれたのである。『地蔵十王経』に説かれる十王と本地仏との組み合わせは、基本的に現存する日本製十王図に描かれる本地仏と一致する。
 ただし、九七日(くなのか)都市王に対して阿閦(あしゅく)如来をあてる同経に対して、多くの作例では勢至菩薩を描く点が異なっている。同様の組み合わせは、正嘉元年(一二五七)に浄土僧の愚勧住信(ぐかんじゅうしん)が著した仏教説話集『私聚百因縁集(しじゅひゃくいんねんしゅう)』や、建長六年(一二五四)成立の『十王讃歎鈔(じゅうおうさんたんしょう)』にも採用されており、実際の仏事で用いられた本尊が反映されているものと思われる。
 十王信仰は、仏事の実態や在地の信仰と深くかかわりながら、中世日本に深く浸透していったのである。

奪衣婆の登場

 十王図が和様化する中で登場するのが、三途河(さんずのかわ)のほとりで亡者の衣服をはぐ、奪衣婆(だつえば)である。二尊院本にも画面左下に大きく描かれている。
 三途の河や奪衣婆は、『地蔵十王経』では二七日の初江王(しょこうおう)に付属する要素として説かれているが、日本製十王図では第一幅(初七日秦広王)の一部として描かれる場合が多い。まずは同経における該当箇所を読んでみよう。

 葬頭河(そうずか)の曲(まがり)、初江の辺において官庁相連なる。承る所にて前の大河を渡る。即ち是れ葬頭にして、亡人を渡すを見る。奈河津(なかつ)と名づけ、渡す所に三つ有り。一つは山水の瀬、二つは江の深き淵、三つは橋の渡し有り。官の前に大樹有り、衣領樹(えりょうじゅ)と名づく。影に住む二鬼、一つを奪衣婆と名づけ、二つを懸衣翁(けんえおう)と名づく。婆鬼(ばき)は盗業をいましめて両手の指を折り、翁鬼(おうき)は無義をにくみて頭足を一所にちぢめ、ついで初めて開き、男にその女人を負わせ、牛頭(ごず)、鉄棒を持って二人の肩をはさみ、はやき瀬を追い渡す。ことごとく樹下に集め、婆鬼、衣を脱がせ、翁鬼、枝に懸けて罪の低昂(たいこう)を顕し、後王の庁に与う。

 経文によると、この世とあの世との境に葬頭河と名付けられた大河があり、そこに、山水・深い淵・橋の三つの渡河地点がある。生前の行状によって冥界への渡り方が異なるのであるが、これが人口に膾炙したいわゆる「三途河」である。河辺に「官庁相連なる」と、冥界の裁判官たちの庁舎が立ち並んでいる様子が記述されており、興味深い。河の向こうには、七日ごとの厳しい裁きが待っている。
 河を渡り切ったところに大樹があり、その影に翁と婆の二匹の鬼がいて、亡者の衣を婆がはぎとり、翁が大樹の枝に懸ける。脱いだ衣の重さが罪の軽重を示し、婆鬼と翁鬼はこれを王庁に報告するのである。十王による裁判が始まる前の、予審とでもいうべき通過地点の役割が三途河には備わっている。
 再び画面をよく見ると、河にかかる橋の上を馬に乗って悠々と進む男が描かれる一方で、赤鬼に捕えられて河に投げ込まれそうになっている亡者、既に河の中でもがく男女、両手を縛られている者もいる。水中には大蛇がいて、溺れる亡者に襲いかかる。ようやく渡り切った岸辺に待ち構えるのが奪衣婆で、乳を垂らした鬼婆として描かれている。
 この画面では、『地蔵十王経』に説く懸衣翁は描かれない。これは日本製十王図の多くに共通する傾向で、三途河といえば奪衣婆というイメージが浸透し、いつしか翁の存在が忘れ去られたようであるが、一体なぜだろうか。

鬼婆のいる水景

 はやい時期にこれに着目したのが、民俗学者の柳田国男である。「念仏水由来」(『新小説』、一九二〇年四月)において、池や川辺に住みついて奇瑞や怪異を起こす老婆の伝承を全国各地から採取し、三途河と奪衣婆の結びつきについても、十王信仰が日本にもたらされるより以前の姥神信仰と接点を示唆している。
 さらに、水辺の女という主題は、こちらも全国各地に分布する橋姫(はしひめ)伝説を想起させる。橋のたもとにいて境界を護る守護神としての橋姫は、平安時代には「さむしろに衣かたしき今宵もや我をまつらん宇治の橋姫」(『古今和歌集』)と詠まれ、「待つ女」の象徴ともなる。やがて、男を待つあまり嫉妬に狂い、災いをもたらす荒ぶる神としての属性も獲得する。
 こうして眺めると、水辺の女をめぐる、ひやりとするようなイメージの連鎖に奪衣婆も確かに連なっている。
 此岸(しがん)と彼岸を分かつ河、生と死の境界としての河、これが生命を生み出す者としての女性性と結びつき、しかもそれがもはや生の側には加担しない老婆の表象として描かれる時、そこに世界の裂け目が姿を現し、画面の中には死者の領域がせりあがってくるのである。

将軍家に仕えた絵師

 この絵を手がけたのは、絵所預(えどころあずかり、朝廷の作画機構である絵所の統括者)の藤原行光(ふじわらのゆきみつ)であることが確実視されている。行光は、南北朝時代から室町時代初頭にかけて活躍し、足利尊氏(あしかがたかうじ)・義詮(よしあきら)・義満(よしみつ)周辺での画事に従事した。
 以後、その子孫も絵所預を世襲し、朝廷や幕府の画事に従事する室町時代やまと絵の最有力画派となる。朝廷から与えられる官職土佐守(とさのかみ)にちなんで、後に土佐派と呼ばれる。
 行光の活躍と前後して、足利将軍家周辺の仏事に十王図の使用が盛んとなっている。応永十五年(一四〇八)五月六日に三代将軍義満が没すると、その葬儀には十王図が掛けられたことが知られている(『鹿苑院殿葬送記』)。また四代将軍義持も、自身の逆修のために十王図を使用している(『勝定院殿集纂諸仏事』応永二十年九月二十日)。
 このようなことから類推すると、二尊院に伝わる本作も将軍家の仏事に使用するために制作されたものである可能性が高く、その願主は尊氏であったとも考えられるのである。鎌倉幕府滅亡から続く南北朝の動乱期を、武力と権謀術数によって生き抜いた尊氏は、死後に待ち受ける断罪の日をどのようにまなざしていたものであろうか。

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