「せとのママの誕生日」

せとのママの誕生日
『早稲田文学増刊 女性号』より

いま最注目の作家・今村夏子さんの新作短編をWEBちくまで特別公開します。うらぶれたスナック「せと」のママの誕生日を祝うために集まった3人の元従業員。彼女たちがとりとめもなく語りだすママの思い出話の行く先は……。後は「読んでください」としか言いようのない今村夏子新境地。小説でしか表現できない世界がここにあります。

 アリサがせとに足を踏み入れるのは、あの日以来ということになる。近くまできて、角の電信柱のかげから店の扉をこっそり眺めていたことならあるが、へそが見つかるまで戻ってくるなといわれたからには、それ以上近づくことはできなかった。今夜、パーティーの企画がなければ、わたしたちは一生顔を合わせることはなかっただろう。
 「で、見つかったの?」
 カズエがきいた。わたしの持ってきたクッキーをぼりぼり食べている。
 「見つかった」
 「どこにあったの」
 「家にあった」
 とアリサはいった。
 「家? 自宅?」
 アリサはこくんとうなずいた。「灯台もとくらしってやつ」
 「家のどこにあったの?」
 「冷蔵庫のなか」
 わたしとカズエは顔を見合わせた。
 「今日持ってきてる?」
 「もちろん」
 アリサはコートの内ポケットに手を突っこんでごそごそと探ると、こたつの天板の上に黒いかたまりをころんと転がした。
 「これ?」
 「うん」
 「さわってもいい?」
 「いいけど」
 わたしとカズエはその黒いものを指でつまみ上げて代わる代わるに眺めたり、においをかいだりした。
 「これどこにあったの?」
 「だから冷蔵庫」
 「冷蔵庫のどこ?」
 「野菜室」
 やっぱり。
 わたしとカズエは目を合わせてうなずいた。これしいたけだ。
 「もういい? 返して」
 アリサが手を伸ばしてきたので、わたしは干からびたしいたけをその手のひらの上にのせた。
 「やっと見つけたの。わたしのでべそ。色も形も変わってしまったけど、ママのいう通り、これがないとだめだった。これがないわたしは、わたしじゃなかった。全部、ママのいう通りだった……」
 アリサはいとおしそうにしいたけを両手で包みこんで自分の頰に寄せた。
 わたしとカズエは缶チューハイをごくりと飲んだ。
 「もっと明るい曲ない?」
 妙な空気を変えたくて、わたしはデッキに手を伸ばし、停止のボタンを押した。適当に早送りをして適当なところで止めた。再生すると流れてきたのは、昔の歌謡曲だった。
 「あ、これお父さんが好きな歌」アリサがパッと顔を上げた。花しぐれ、にじむ街並み、ヨイヨイヨイ、とおかしな合いの手を入れた。わたしとカズエは笑いながら、一緒にうろ覚えの歌詞を口ずさんだ。夕凪、うなぎ、ホイホイホイ。あはは。
 せとのお客さんは歌の好きな人が多かった。うたえといわれれば、わたしたち従業員もリクエストに応じて大抵の歌はうたえるようになっていた。なかには音痴な子もいて、そういう子にはママが個別にレッスンをした。わたしの知ってるだけでも、ママのレッスンによってひどい音痴からのど自慢の予選を通過できるくらいにまで上達したのが三人いる。ユカ、アユミ、アキコ。レッスンの末にのどを潰して声が出なくなったのも三人。ヒロミ、エリ、ノリエ。
 「逆じゃない?」
 と、カズエ。「音痴が治ったのが、ヒロミ、エリ、ノリエで、のど潰れたのがユカ、アユミ、カオリ」
 「うそ。のど自慢に出たのはメグとアカリよ」
 「そっちこそ、うそ。のど自慢は予選通過しただけで本選には落ちてるし。それにちょっと待って。カズエ、あんたさっきカオリっていった? カオリってあのカオリ? 親指の爪がなくなった?」
 「違う」
 「そもそもカオリは音痴じゃないし」
 「違うってば。わたしがいってるのはそのカオリじゃない。覚えてないの? 足が臭くて音痴のカオリ」
 「知らない」
 「わたしも知らない。足が臭いのはミヨコでしょ。ミヨコの足は売り物になるくらい臭かった。実際、売ってたんだけど」
 「わたしその人知らない」
 「わたしも」
 わたしたちは顔を見合わせた。何だか話がかみ合わない。しばしの沈黙。そして三人同時にプッと吹きだした。
 それもそのはず。わたしたちはせとでママの手伝いをしていたけど、働いていた時期は一切かぶっていないのだ。今出た女の子の名前だって、たまたま同じ名前だったというだけで、まったくの別人という可能性のほうが高い。なにしろスナックせとの歴史は古く、数え切れないくらいの女の子が入店し、そしてクビになっていったのだから。
 だけどわたしたちはお互いのことをとてもよく知っている。会ったこともない誰かのことを、昔からの一番親しい友達のように感じている。
 それはママの口から語られた昔話だったり、お客さんのうわさ話だったり、女の子たちのあいだで代々語り継がれる伝説のなかに生きる人物だったりする。わたしたち三人だって、じつは今日が初対面だなんて、とても信じられない。
 デッキから流れる音楽はさっきまでの陽気な曲調から一転、今度は哀愁ただようブルースに変わっていた。
 「どういう選曲?」
 「ママの好きな曲」
 「なるほど」
 「ママの誕生日だから」
 「なるほどね」
 「この次に流れるのがママとわたしの思い出の曲」
 カズエは少しボリュームを上げた。
 その曲は、ターさんの十八番だった。
 「ターさんだ」アリサがぽつりとつぶやいた。
 「ターさん知ってるの?」
 「知ってる」
 「わたしも知ってる」
 ターさんは全国的にも有名なせんべいの会社の創業者だ。バラック小屋で奥さんと手焼きしていた時代から、週末にはこまめにせとに通っていた。女の子は次々と入れ替わっていくけれど、一度せとを気に入ったお客さんは、偉くなろうが落ちぶれようが、変わらずせとに通い続ける。ターさんは、ママの大切な常連さんのひとりだった。
 「これ何ていう曲だっけ」
 「何だっけ」
 ターさんがせとにきたら必ずうたう曲。田舎でけんかに明け暮れていた男が都会に出てきて夢とチャンスをつかむ歌。曲の合間に、ウオウオウオ、ワ~、という歌詞が四回登場する。ターさんはウオウオウオの部分をガオガオガオと変えてうたった。ワ~の部分は、女の子たちにうたわせた。ワ~ではなくてキャ~とうたったほうが、ターさんは喜んだ。ターさんが爪をたてるようにして、ガオガオガオと襲いかかるポーズをとると、ソファに横一列に座らされた女の子たちが、小さくバンザイのポーズをしながら、キャ~と一斉に体をのけぞらせるのがお決まりだった。恥ずかしがってキャ~をしない子や、入店したばかりでタイミングがわからない子は、ここでもママの個人レッスンを受けることになった。なかには閉店後、家に帰してもらえず、次の開店時間まで延々レッスンを受けていた子もいたという。
 「それ、わたし」
 「カズエ?」
 「うん。十七時間ぶっ通しでキャ~のレッスン受けたの、わたし」
 「大変だったね」
 「まあね。だから思い出の曲なんだ」
 ママはカラオケで一番大事なのは合いの手だという考えの人だった。店内にはタンバリンやマラカスやペンライトなどの、カラオケを盛り上げるための道具がひと通り揃っていたが、一番お客さんを喜ばせるのは、息の揃った合いの手だ。合いの手をおろそかにする者には容赦しない。
 カズエはセリフ調の合いの手なら何の問題もなく入れることができたのだけど、のどが細いのか何なのか、高い声を使う合いの手が苦手だった。お客さんと一対一の時は出ない声を無理矢理振り絞って合いの手を入れていたが、キャ~の時は、複数の女の子と一斉に声を出すのを良いことに、口パクでやり過ごすことが多かった。
 当然、ママにはばれている。
 おまえ、なぜキャ~しない。ママはカズエの襟ぐりをつかんだ。カズエは声を出したくても出ないのだといった。ママはターさんの機嫌を損ねてはいけないと、その場ではカズエを席から外して代わりの女の子を座らせたが、店を閉めたあとにカズエにこんこんと説教をし、キャ~の練習をするよう命じた。最初、壁に向かって声を出していたが、それだけではちっとも上達しなかった。惰性で発声練習を続けていると、突然、カウンターの向こう側から鬼があらわれ、カズエに襲いかかった。その時、カズエの口からキャアッという短い叫び声が出た。「それだ!」と、鬼のお面をはずしながらママがいった。今までで一番よかった。だが、まだまだ。長さが全然足りないし、まだ声が小さい。お店の女の子のキャ~が本気であればあるほど、ターさんは喜ぶ。
 おまえはもっとできるはずだ、とママからそういわれ、カズエのやる気に火が付いた。カズエには、そんなふうに誰かから期待をかけられた経験がなかった。
 ほっぺたをつねる方法を提案したのは、カズエ本人だ。ママはその提案にのっただけ。まず、親指と人差し指の腹を使ってカズエのニキビ跡の残る頰をギュッとつねった。カズエの口から出たのはキャ~ではなくて「イタッ」だった。次にママは爪をたててつねった。せとで働いたことのある人間なら、誰しも一度は挟まれたことがある、バラ柄のとがった爪がカズエの頰にくいこんだ。これにはクイ~ッという声が出た。まだまだ本気のキャ~にはほど遠かった。次に鼻をつねった。ウ~ッという声が出た。二の腕をつねると、アーッという声が出た。たるんだ腹の肉をつねると、ぐぎぎという声が出た。乳首をつねると、ギャッという声が出た。カズエとママはハッとして、お互いに顔を見合わせた。悪くない、とママはいった。カズエもそう思った。ためしにつねる時間を長くした。長くつねれば叫び声も長くなるかと思えばそうではなかった。カズエはクッとひと声もらし、あとは歯をくいしばっていた。ママは首をかしげてしばし考えてから、こたつの部屋にいき、ペンチを手にして戻ってきた。
 ママはペンチでカズエの乳首を挟むと、思いっきりひねった。ギャーッ。出た。それはキャ~の最上級だった。試しにペンチなしで発声してみると、ちょうどいい塩梅のキャ~になった。本番でもこのくらいのが出せれば、ターさんが大喜びするのは間違いない。
 特訓の成果が試されるその週末、ターさんは店にきて、いつもの十八番をうたった。
 カズエの合いの手は、結果的には成功したといえる。だが、それはママの素早いフォローのおかげだった。
 じつはカズエは連日の寝食抜きの特訓ですっかり弱り切っており、ターさんがうたっている最中に居眠りをしてしまったのだ。鼻ちょうちんをふくらませているカズエに、ターさん本人は気づいていなかったが、ママは気がついた。カウンターを飛び越えてこたつの部屋からペンチをつかんで走ってくると、ターさんがガオガオガオをうたい終えるぎりぎりのところで、カズエのブラジャーをはぎ取り、手にしたペンチで乳首をぎゅうううっとつねった。初めて耳にする断末魔の叫びにターさんは大いに満足し、カズエにチップをたっぷり渡して帰っていった。
 よほど良い気分だったのか、最低二日以上は空けていたターさんが、次の日もせとに顔を出した。カズエとママの息はぴったりだ。ターさんは大喜び。この日もカズエにチップを渡して帰っていった。閉店後、ママとカズエはターさんが置いていった贈答用のせんべいをかじりながら、ウイスキーの水割りで乾杯した。グラスがカチリと音をたてると、カズエの乳首の痛みは不思議とどこかへ消えていった。わたしががんばればターさんが喜ぶ。ターさんが喜べばママが喜ぶ。ママの笑顔はわたしの、そしてせとで働くみんなの笑顔。
 ママは常日頃から店の女の子たちに商売道具を身につけろといったけど、ギャーはカズエの立派な商売道具となっていた。
 だがその商売道具も、長くはもたなかった。ママの笑顔のためなら何だってできちゃいそう、そんなふうに思っていた矢先のことだ。
 五月の週末、いつものようにターさんがうたい、ママがカズエの乳首をペンチで挟み、つねった瞬間、ギャーは出たのは出たのだが、ギャーと同時に「れれっ」と間の抜けたママの声が重なった。ママは握ったペンチの先を見つめていた。そして一言、
 「とれた」
 カズエの白いドレスの胸元が真っ赤に染まっていた。
 大丈夫。カズエはそう自分にいい聞かせた。乳首は、商売道具は、まだもうひとつ残っているのだから。その一週間後のことだ。もうひとつの商売道具も、同じように失ったのは。
 痛みは感じなかった。カズエはただ悲しかった。商売道具をふたつとも失ったカズエに、何が残っているだろう。何も残っていなかった。カズエはせとをクビになった。

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