ちくまプリマー新書

教えから学びへの教育発想の転換
汐見稔幸『人生を豊かにする学び方』

世界が古い皮を脱ぎ捨てるかのように、至るところで急速な変動が起こっている現代、これまでのような「教える-教わる」といった関係ではなく、自発的な「学び」が必要とされています。その必要について『人生を豊かにする学び方』の著者自身による具体的な解説をPR誌『ちくま』11月号より転載します。

 あまり意識されていないのですが、学校等で行われている教育の方法や内容は、その教育が行われている時代の支配的な価値観、規範等に大きな影響を受けます。
 戦後教育は、ある時期から、なんだかんだいって、実際には日本的なサラリーマンになるための準備教育になっていました。
 アメリカの教育研究者が、かつて神戸のある高校に一年間かよって、日本の高校教育の特徴を把握する研究を行いました。彼は実際に高校の授業に生徒と同じように出て、その様子を観察し続けたのです。彼が驚いたのは、授業がさっぱり分かっていない生徒、全然興味を示さない生徒は、授業中寝ているか、内職をして時間をつぶしているかで、ずっとおとなしくしているということでした。アメリカでは、生徒が理解できないよう授業をすると生徒たちは怒りだし、もっと分かるように教えろと要求するのがあたり前なのに、日本では生徒たちはわからなくてもガマンし、寝るか聞くことを放棄するか、ともかく自分の方で自己抑制する、これは何だ、と驚いたのです。かれはこうした調査を博士論文にまとめ、その最後の方で、日本の高校生は、こうして企業に入ったときに上の命令で動き、理不尽な要求にも耐えて働く練習をしているのだ、と結論づけています。日本型のサラリーマン労働と、学校の倫理、規範等が同一形をしているという発見をした研究でした(『日本の高校』 トーマス・ローレン、サイマル出版会、一九八八年)。
 別の見方をすると、日本の教育は、戦後ずっと、生徒がどう分かるか、どう学ぶかということに重点を置いて、その学びを実際にどう保障するのかということについては徹底して関心をおいて内容・方法を構想するということをしてこなかったということをあらわしています。もちろん、教師は教育上の工夫をすることがプロであることの証という姿勢は保持していましたが、それでも、あるところまではその努力をするが、細かなところは生徒自身の努力すべきことで、その努力が後で社会人になったとき生きてくるのだ、という立場です。
 しかし、生徒は、厳密に言うと、思考の仕方、興味を持つ内容、興味の持ち方、記憶の仕方、表現の仕方等々、すべて一人ひとり異なります。ですから、たとえば一斉に同じ教材を使って同じ説明をして、内容を理解、記憶させるというようなこれまでの標準タイプの授業では、いくら上手に教育しても、深く共鳴して理解する生徒はほんの一握りで、大部分の生徒は、早く終わらないかなと受け身で聞くしかないのです。
 教育・授業は、生徒一人ひとりの「学び」に基本的な立脚点を置き、問いを鮮明にして、その問いを解くための学びを自在に交流し合い、それぞれに納得のいく学びの地点に到達していくというのが教育のあるべき姿になるはずです。
 困難を抱える二一世紀には、国民の知的水準を上げて対応することが世界各国の共通テーマになっているのですが、そのために今までの教育の基本スタイルは大きく変える必要があります。「教え」よりも「学び」が基本で、その「学び」を支えるものとして、つまり学びの関数として「教え」を構想する、そうした時代が始まっているのです。
 すると、教師の教えよりも、生徒の学びに焦点を当て、そもそも学びとは何か、何を、どう学ぶことが、生きる喜びにつながるのか、平和への意志を高める学びなどというものがあるのか、学びは学校でなければできないのか、学んだことを覚えておくことは意味があるのか、人工知能の時代の人間の学びとして何が大事なのか、教えられても身につかないで自分で学び取るしかないものはあるのか、学びに重点を置くと学校はどう変わらなければならないのか、学びと人間の品性や教養とはどう関係しているのか……等々の問いが次々と浮かんできます。「学び概論」が必要になるということです。
 今度の本はまだその手前の内容ですが、教育の二一世紀的転換をこころみたものとして読んでいただければと思っています。

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