ちくま学芸文庫

『現代語訳 応仁記』本文試し読み

11月刊行のちくま学芸文庫『現代語訳 応仁記』(志村有弘訳)より、『応仁記』冒頭部分を公開いたします。応仁の乱終結からほどなくして書かれたとされる軍記物の世界を、どうぞお楽しみください。

熊谷訴状のこと

 そのころ、近江の国塩津の住人で熊谷という奉公の者がいた。智・仁・勇の三徳を兼ね備えて文武に惑いを持たない者であった。当代のご政道がまっとうでないことを悲しんで、密かに諌言かんげんを綴って訴状を進上した。義政将軍がご覧になり、(熊谷の)金言にたちまちに耳を逆立てたのであろうか、激怒して、「その戒めるところは一つとして道に外れていないけれど、その役目でないのに法を 行ない、諌言をするとは、狼藉ろうぜき というものである。『史記』に『その器でなくてその官に居るのは、天事を乱す』とある」 と言って、所領を没収され、熊谷左衛門を追放してしまったのはあきれたことであった。
 このように諸人が(義政を)うとみ申しているということをお聞きになり、万事むずかしくお思いになったのであろうか、義政将軍は御年がまだ四十にもなっておられないのに、いやになってしまわれ、御弟の浄土寺殿御門跡(のちの足利義視)を還俗げんぞくさせて将軍職を相続し、それからご隠居の身となった。ほしいままに老いらくの栄華を開こうとお考えになったのであった。
 そもそも君子というものは七十にして心の欲するところに従ってものりえずとさえいうのに、そうではなくて、すでに、
「浄土寺殿へ御世を渡そう。近日還俗せよ」
と仰せ出されたのであった。御門跡は再三辞退申され、
「理髪(元服または裳着もぎ のとき、頭髪を成人の髪にととのえること)のこと(還俗すること)など決してあってはなりません」
とご返事したので、重ねて御使者を立てられて、
「もしも今よりのちに若君が生まれたならば、幼少のときから法体ほったいになし申そう。御家督を改易かいえきするなどあるはずがない。さらに偽りがないことは、大小の冥道みょうどう(冥界に あるもろもろの仏たち)、神祇じんぎ(天の神と地の神)の照鑑しょうかん(神仏が見ていること)にまかせる」
と書いて遣わされたので、浄土寺殿は、
「これほどにお約束するうえは、なんの相違があろうか」
と言って、法衣を解いて投げ捨て還俗して、加冠かかんして左馬頭義視と名乗ることになった。御外戚の三条殿へお移りになり、今出川殿と申した。近習・外様とざまの面々は、日夜朝暮に出仕の装いをこらし、(義政と義視の)両御所の御番を勤めたのであった。

若君誕生のこと

 こうしているところに、(義政が)ご隠居することは延引した。わけは、御台所(日 野富子)がご懐妊したということで、世間の人は大騒ぎとなり、(若君が)ほどなく誕 生した。若君でいらっしゃったので、「桑の弓、よもぎの矢の慶賀」(男子が誕生したとき、桑の弓によもぎの茎で作った矢をつがえ、四方を射て将来を祝福する)と天下の評判となり、京中の僧も俗人も、
「ああ、大果報の若君だ」
と言わない者はいなかった。
 さて、御台所は、「なんとしても、この若君を世に立て参らせよう」とお思いにな り、今出川殿をさげすまれて、
「どんな不思議なことでも起これよ」
とお思いになっていた心は、はたして天下の乱れとなった。
 ここに、御台所は一所懸命に思案していたが、「諸国の大名小名の中で山名金吾(山名宗全。金吾は衛門督のこと)ならば、一家の規模も大きく、諸大名に婿がたくさんいる。威勢は並びない」とお考えになり、「この入道を頼りとして、(若君を)世に立てたい」と、みずからお手紙で、若君のことを頼むむねを書いて山名殿にさしあげられた。
「あの(若君の)ご生涯のさま、ともかくご進退をお計らいになって下され。私は三十歳の春を迎えて憂曇花うどんげの花(この花は、仏教では三千年に一度、開くという。この花が開くときは、金輪王が出現するといい、また、如来が現れ出るともいう)を待ち得た気持ちがして、たまたまもうけた若君を剃髪させ墨染め衣の姿にやつし参らすことは、嘆かわしい物思いの種で、不本意でございます。決してこのことを人にお漏らしになるな」
と書かれて、山名に送られた。
 持豊もちとよ入道(山名宗全)は、このお手紙をいただき、はっと思い出したことは、「細川右京大夫勝元(幕府管領。細川持之の子)は、今出川殿の後見としてまるで親父のようである。また、権勢並ぶ人もなくあれこれと(意のままに)計らい沙汰している。今出川殿が公方の地位にいたならば、我らにとってはろくなことはあるまい。この勝元はわしの婿でありながら、わしの敵の赤松次郎法師を取り立てているのは無念なことである。だから、わしもその覚悟をしよう。今、御台所の仰せに従って若君を預かり申して、畠山義就よしなり(管領畠山持国の子)を取り立て政長まさなが(畠山持富の子。畠山持国の養子となったが、義就が誕生すると、追われて細川勝元を頼った)を追放したならば、さだめて(政長と)勝元とは一味であるから、勝元は政長をひいきして合力するだろう。そのとき、同罪として沈没させ、赤松以下一味の族を追却しよう」と考えた。(それで)御台所へ、
「ご内書の旨、かしこまって承りました」
というご返事を出した。

(続きは本書でお楽しみください)

 

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