ちくま新書

逆風の中のヨットのように

「加計問題」を再検証し、一体何が問題だったのか明示し、さらには高校無償化、生涯学習など、文部官僚時代に2人が推進した教育改革をめぐって、とことん語り合った『これからの日本、これからの教育』。前川喜平さんによる「「はじめに」に代えて」を公開しますので、ぜひご覧くださいませ。

 2017年1月、私は文部科学省を辞めた。その数カ月後に加計学園の問題をめぐって一連の発言をすることになるとは、この時点ではまったく思いもよらなかった。
 文科省を辞めたのは、文科省OBへの再就職あっせんが法律に違反していたからだった。これにより、文科省、さらには政府への信頼を損ねてしまった。事務次官として、組織全体の責めを負って辞任するのは、私にとって当然のことだった。それ以外の選択肢は考えられなかった。
 退官後、おとなしくしていれば、何かのポストに就けただろう――。そういう人もいる。実際、文科省を辞める前に、ユネスコ大使はどうかと内々に打診されたこともあった。だが、天下り問題で引責辞任をした時点で、今後、政府の要職に就くことはないだろうし、たとえそうした話があっても、受けるべきでないと心に決めていた。

なぜ証言したのか
 加計学園に関する私の発言を、勇気ある行動だと言ってくださる方も少なくない。だが、正直に言うと、この問題での一連の発言で何かを失ったとは、私自身は思っていない。もちろん、文科省での仕事をとおして知遇を得た方たちとの関係が絶たれることもあった。だがそれは、いつかは引き受けなければならないことと覚悟していた。
 文科省にいた時の私は、多くの場面で自分の良心や思想、信条を押し殺して、組織の論理に従わせてきた。その仕事に本心では抵抗があっても、可能な範囲でよりましなほうへ行こう、そして方針転換できる機会をねばり強く待とうと考え、上位の権力に従った。だから私は、心のどこかで、役所を辞める日を心待ちにしていたのだと思う。役所を辞めれば、自由にものが言えるようになるはずだ、と。
 たとえば私は、教育勅語を道徳の教材とすることには反対だ。戦前の日本は言論の自由や学問の自由を圧殺し、無謀な戦争に突き進んだが、そうした時代にあって教育勅語は、子どもたちの心を国体思想に絡めとり、お国のために命をすら差し出すよう誘導する役割を果たしていたからだ。
 ところが私が以前お仕えした文科大臣の中には、教育勅語について「中身は至極まっとう」と発言された方がいる。戦前・戦中の国家主義的教育を批判的に学ぶための教材として使うのであれば納得もできようが、道徳の教材として使うのは、とんでもないことだと思う。そもそもそれは、憲法に反しているのではないか――。
 こうして私は、自分がかつてお仕えした人であっても、内容次第では、批判的な発言をすることにもなった。自由に発言できるようになったことの代償だろう。
 今年(2017年)の5月になって、加計学園による獣医学部の新設は「総理のご意向」だとする文書は存在すると私が証言し、「行政がゆがめられた」と発言したことに対して、なぜ在職中にそれをやらなかったのか、もっと戦うべきだったのではないか、せめて内部告発ぐらいできたのではないか、といった批判をいただいた。
 まったくその通りだと思う。だが、私の経験から言うと、現職中にこの動きを止めることは、おそらく100パーセント、できなかっただろう。官邸からの圧力は、それだけ強かったということだ。他方で、組織を背負う立場でなくなり、自由な身分になったからこそ、加計学園をめぐる一連の発言ができたわけだから、格別、勇気ある行動とは言えないのである。
 ただ、私の発言によって、文科省の後輩たちにはひどく迷惑をかけてしまった。毎晩毎晩、国会答弁用の資料を作らされたり、流出した文書の存否をめぐり調査をやらされたり、官邸から呼びつけられてどうなっているんだと怒られたりと、相当ひどい目に遭ったと聞いた。彼らにはとても顔向けできない。本当に申し訳ないと思っている。
 文科省の中には、加計学園の獣医学部について、いくら行政がゆがめられようと、官邸がこしらえたストーリーに沿って粛々と設置認可をすればいいだけの話で、わざわざ騒ぎを引き起こす必要はなかったと考える人もいることだろう。もしかすると、私の発言によって、誰が文書を流出させたのか、お互い疑心暗鬼に陥ってしまい、省内にギスギスした雰囲気が生まれてしまったかもしれない。もとよりそれは、私の本意ではない。
 だが、間違いなく、加計学園の問題では、あるべき行政の姿がゆがめられ、国家権力の私物化が起きていた。私の知るかぎり、一昔前まで、ここまでひどくはなかった。
 おそらく、権力の集中によって驕りが生じているのだろう、国民の税金を使って、一部の人を儲けさせるようなことを、「岩盤規制にドリルで穴を開ける」とか「既得権益の打破」といった、それらしい言葉で説明しさえすれば、国民を納得させられると思いなしているようだ。
 こうした中で私は、加計学園による獣医学部の新設に関して政府内部でゆがんだ問題が生じていることを知る立場にあった。このことを私一人の胸に納めておいて、本当にいいのか、一国民として見たとき、何もなかったと済ませることは到底できない。そう考えた。「あったものを、なかったことにはできない」――。そう証言することが、本当の意味での「全体の奉仕者」としての務めを果たすことになるだろうし、民主主義を維持していくためにも、密室の中での出来事のままにしておくのはよくない。そう思った。 

教育は営利事業ではない
 今回わたしは、寺脇研さんと対談をする機会を得た。
 寺脇さんは文科省(文部省)時代の、尊敬する先輩の一人である。寺脇さんは、文部官僚として、誰もが、いつでも、どこでも学ぶことができるように、教育制度の改革を推進してきた。当時から寺脇さんは、言いたいことを言い、やるべきことをやるという姿勢を崩さない稀有な人だった。退官されてからも、誰におもねるでもなく、自分の思うところを言い、議論し、教育への情熱を失っていない。
 この本で私は加計学園の問題だけでなく、生涯学習からゆとり教育、高校無償化、夜間中学まで、約40年にわたる教育改革について、寺脇さんと対話をしている。これらの改革は、いずれも寺脇さん、もしくは私がかかわったものだ。ある意味で、この40年間の文部行政に関するオーラル・ヒストリーでもある。
 加計学園の問題で、文科省は「既得権益の牙城」であり、新規参入を許さぬ「岩盤規制」を敷いてきた張本人だと批判された。もっぱらそうした批判は、市場競争に任せれば万事うまく行くという「規制緩和」論者からなされた。この手の議論に決定的に欠けているのが、国民一人ひとりの学ぶ権利をいかにして保障し、教育の質が劣化しないようにするかという視点だ。
 子どもの貧困は、深刻の度が一段と増している。こうした中で、弱肉強食の市場競争に教育をさらしてしまっていいのだろうか。そうではなく、充実した教育をこの社会が、私たちがすべての子どもに用意することが、本当の意味での格差解消につながるのではないだろうか。
 大学入学年齢である18歳人口は、平成26(2014)年段階で118万人いる。ところが少子化が進むことで、あと20年もすれば、90万人台になる。50年で半減するとも言われている。こうした中で、一人ひとりを大切に育てていかなければ、この社会はもたないのではないか。そのためには、将来、どのような分野の仕事が必要になるかを、信頼できるデータをもとに予測しながら、教育内容を充実させていく必要がある。
 教育は、短期間で成果が上がるような営利事業ではないし、そのことを目指すべきでもない。「教育は国家百年の計」と言われるが、少なくとも、人ひとりが大人になるまでの時間をかけなければ、その成否は分からない。だからこそ、教育がどうあるべきかは、これから社会がどう変化していくかを見据えながら、長期的な視野のもとで考えなくてはならない。
 寺脇さんも私も、そのような思いで教育改革に取り組んできたし、現役の文部官僚たちも、その思いに変わりはないはずだ。

 実は私は、小学校3年生の時に不登校になったことがある。転校先の東京では、それまで暮らしていた奈良とは言葉遣いが違っていたし、先生もどことなく冷たい感じがした。決定的だったのは、奈良ではなかったプールの授業で溺れかけたことだ。2学期以降、学校に行こうとすると、吐き気や腹痛がするようになった。
 いまや不登校の子どもたちは、全国に12万人いる。かつては文科省も、不登校の子どもは、いずれ学校に戻さなくてはならないと考えていた。だが、今ではそうした学校中心主義から脱却しつつある。フリースクールや夜間中学といった学びの場を、以前よりも柔軟に認めるようになった。
 弱肉強食の市場競争に子どもたちをさらさず、一人ひとりの学ぶ権利を保障すること。それが教育行政本来の使命ではないか。寺脇さんも、私も、そう考えている。
 この本を通じて、そのことが分かっていただけたなら、これに勝る喜びはない。

いくつかの出会い
 最後に、私的な思い出を書くことをお許しいただきたい。
 1996年に47歳で病死された河野愛さんは、私が文科省で尊敬するもう一人の先輩だ。私が文部省に入った当初から、河野さんには親しくしていただいた。
 河野さんは私より6歳年上で、利益誘導を図るような仕事の仕方をなにより嫌い、権力のある偉い人にこびへつらうことを嫌った。とてもまっすぐな人だった。だから、上司と衝突することも少なくなかった。
 私自身は、上司と部下という形で河野さんと仕事をしたことはないが、よく飲み会に誘っていただいた。「どういうつもりで仕事をしているのか」と、結構厳しいことも言われたが、後輩思いで、とても温かな人だった。筋の曲がったことが大嫌いで、誠意や理想を捨てない人だった。
 文科省に在職中も、退官してからも、ちらっちらっと河野さんのことが頭に浮かんでくることがあった。河野さんの魂が、どこかで見ているんじゃないか、そういう気持ちになることが時々ある。
 いま思うと、文科省を引責辞任したときも、加計学園のことで文書は存在すると証言したときも、河野さんのそうした生き方が、どこかで影響していたように思う。
 これまで公の場で語ったことは一度もないが、文科省時代の私のノートパソコンの待ち受け画面は、チェ・ゲバラの肖像写真だった。
 アルゼンチン生まれで医師でもあったゲバラは、圧政に苦しむ人々を見捨てておけず、世の中を良くしようと革命運動に身を投じた人だ。カストロとともにキューバ革命を成功に導いた後、南米解放闘争の一環として潜入したボリビアで政府軍に捕えられ、銃殺されている。39歳という短い生涯だった。政府軍との戦闘によって負傷した味方だけでなく、敵兵まで治療したという逸話が残されている。
 ゲバラのことを初めて知ったのは、中学生の時だった。1960年代末の頃、若者たちが既成の秩序に対し盛んに異議申し立てをしていた時代だった。人間を解放するために戦い続けたゲバラの生き方は、この上なく魅力的だ。
 10代の私に強い印象を残したもう一人が、宮沢賢治だった。賢治は『農民芸術概論綱要』で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と書き記している。
 この言葉は、遂に到達することのできない永遠の目標として、今日に至るまで私の意識の奥底に存在しているように思う。
  賢治は同じ作品の中で、こういう言葉も綴っている。
「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう/しかもわれらは各々感じ各別各異に生きてゐる」
 自己と他者の区別を超え、人間と自然の区別を超えて無限大の宇宙の生命と一体化する。しかも、現実の社会においては一人の個として生きる。そういう生き方の天啓のようなものを与えてくれた言葉だ。
「諸君はこの時代に強ひられ率ひられて奴隷のやうに忍従することを欲するか」
「むしろ諸君よ更にあらたな正しい時代をつくれ」
 これは『生徒諸君に寄せる』の一節だ。私はこの言葉に何度も鼓舞され、励まされた。 時代も場所も異なるこれらの人々と出会えたことが、こんにちの私を形作っているところがあると、今にして思う。
 最後の最後――、ヨットは逆風の中にあっても、前へ進むことができる。ただし、向かってくる風に対して、真っすぐには進めない。ジグザグに、少しずつ進んでいく。
 文科省にいたときの私は、組織の論理に従いながらも、何とか改革したいと思うことについては、逆風の中のヨットのように、少しずつ、ジグザグにでも、前へ進もうとしてきたように思う。
 この本が、少しでもみなさんの力になれれば、本当にうれしい。
 

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