資本主義の〈その先〉に

第16回 資本主義的主体 part5

4 守銭奴にして企業家

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弛緩した文体で崇高なことを書く

 われわれは前回、ヴェーバーに従いながら、そしてヴェーバーを離れて、召命klēsisの概念の含意を見てきた。「ルター訳」とされて普及していた聖書で、「クレーシス」は、「Beruf」という訳語が充てられ、「職業」という意味をもった。ヴェーバーは、ここに、「資本主義の精神」につながりうる重要な価値を認めたのだった。ヴェーバーによれば、パウロが「クレーシス」という語を使ったときには、そこに、「職業」という意味はなかった。
 どんな宗教も、特別に価値がある体験や行為の領域を指定する。神との合一を生々しく実感する神秘体験や真理へと到達したという確信をともなう解脱体験などが、それである。「召命としての職業」という観念が特異なのは、日常の勤労が、そのまま、この種の宗教的に特権的な価値を帯びることになったことだ。こんなことが生じたのは、キリスト教、いやプロテスタンティズムにおいてのみである。他の宗教においては、神秘体験等は日常の活動からの隔絶を(必要)条件として獲得することができた。ルター以降のプロテスタンティズムにおいては、しかし、日常から区分されていた特殊に宗教的な価値を帯びた体験が日常に重なり合ってしまう。そのことを象徴的に示しているのが、「ベルーフ」という語である。
 もっとも、厳密に言えば、宗教的に特権化された非日常的な体験の日常への回帰ともみなすべき現象が、ルター派プロテスタントの登場とともに突然生じたわけではない。そうしたことを可能にする潜在的なベースが、キリスト教には最初からあったのだ。この点を示唆する事実を、われわれは、エーリッヒ・アウエルバッハの名高い大著『ミメーシス』が指摘していることのうちに見いだすことができる。この本は、文学的描写の本質は、ミメーシス(模倣)による現実の解釈にあるとし、ヨーロッパ文学における現実描写をたんねんに追った研究である。アウエルバッハによれば 文体の点から捉えたとき、西洋の文学表現は大きく二つの様式をもっていた。ヘレニズム(古代ギリシャ)に由来する文体とヘブライズム(キリスト教)に由来する文体である。両者の違いが、われわれの考察にとって意味がある。
 古代の理論では、崇高な文体は「荘重体sermo gravis」ないし「崇高体sermo sublimis」と呼ばれ、低俗な文体は「弛緩体sermo remissus」ないし「謙抑体sermo humilis」と呼ばれた。ヘレニズム系の文体は、両者は截然と分けられるべきだ、という規範に従っている。つまり神に連なる超越的なことは崇高体によって、卑俗なことは謙抑体によって、というように、意味と文体の間の対称性が保たれなくてはならない。これがヘレニズム系の文体の基本的な規範であり、マナーだ。
 当時にあって主流をなしていたこの文体論の観点から、ヘブライズム系の文章、つまり聖書やキリスト教の文学が、美学的な批判を受けることになる。ヘブライズム系の文章では、神に関する崇高なことが、俗悪な謙抑体で書かれていることが、見苦しいというのだ。「異教の〔非キリスト教の〕教養人は、彼らにはあり得べからざることに思われる無教養な言葉でしたためられたこれらの書、様式の範疇をいささかも心得ぬかのような書に至高の真理が包蔵されていると聞いて、動転したのである」[1]。この批判はある程度は功を奏し、キリスト教の最古の文献に比べれば、教父たち(2世紀から8世紀にかけての頃のキリスト教の著述家)の文章には、古代の(ヘレニズム的な)様式伝統に倣おうとする努力が認められるという。
 が、いずれにせよ、二つの文体を画然と区別するヘレニズム系の古代の文章に対して、キリスト教系の文章は、もともと、両者を混融させ、神に関することを謙抑体で描写する傾向があった。キリスト教の説明によれば、神は「それ(真理)」を智者や賢者に覆い隠し、嬰児(みどりご)たちに顕らかにしたからである(「マタイ福音書」11章・25節、「ルカ福音書」10章・21節)。
 聖書やキリスト教関連の文献のこうした文体上の特徴は、最も宗教的な価値が高い聖なる体験が日常の活動に重なるという転回のはるかな予兆ではないだろうか[2-1][2-2][2-3]。プロテスタンティズムは、キリスト教が最初から萌芽的に宿していたポテンシャルを誇張し、顕在化させた、ということではあるまいか。だが、そうすると次の疑問は、どうして、キリスト教には、キリスト教にのみ、そのようなポテンシャルが孕まれたのか、ということである。
 その疑問への答えは、〈キリストの受肉〉である。受肉とは、最も崇高な者(神)が最も卑俗な者(一介の惨めな男)になる、ということなのだから。ヘブライズムの文献は、受肉の論理を文体の上で表現していたのである。今しがた、神は智者ではなく嬰児に真理を顕らかにしたという福音書に記されたイエスの言葉を引きつつ、聖書の謙抑体の意義を説明したが、この言の通り、キリストの最初の弟子は、権威のある者や知恵のある者ではなく、漁夫や収税人といった卑しい身分の者であった。つまり、彼らは、最も卑俗な職業従事者であった。「ベルーフ」の源泉、かすかな芽すら出していないようなその種子はここにある。言い換えれば、「ベルーフ」は、受肉の論理のひとつの帰結と解釈できるのである。

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