ちくま学芸文庫

『社会分業論』文庫版解説

11月刊行のちくま学芸文庫『社会分業論』(エミール・デュルケーム著、田原音和訳)より、文庫版解説を公開します。今年、没後100年を迎えたエミール・デュルケーム。ヴェーバーとならび近代社会学の祖と称される彼の理論的主著『社会分業論』を、いまどのように読むことができるのか。菊谷和宏氏が、その魅力と今日的意義を明らかにします。

「現代社会学大系」と銘打たれた叢書の一冊として青木書店より刊行されていた、田原音和氏の定評ある翻訳による本書『社会分業論』が、デュルケーム没後100年の今年、ちくま学芸文庫に収録され装いも新たに刊行されたことは、まさしく出版界の良心の表れであるといえよう。押しも押されもせぬ古典書であるとはいえ、ハードカバー・函付きの旧版は、決して安価とはいえず、またその後新装丁・函無しの復刻版が刊行されたものの長らく品切れと、手に取りづらい状態が続いていた。そんな中での今回の再刊は、極めて意義深く、極めて喜ばしい。
 本書の内容、また著者たる近代フランス社会学の創始者エミール・デュルケームと彼を取り巻く歴史については、今回の文庫版にも収録されている田原音和氏の解説に詳しい。その内容は半世紀近く前に書かれたものではあれ、決して古びていない。
 そこで文庫版の解説では、その後のデュルケーム研究の動向を踏まえて、本書の可能性を広げるいくつかの論点を提示し、もって本書読解の一助を期するとともに、デュルケームの他の著作へと読者をいざなうことを試みるとしよう。

1 同業組合(職業集団)論

 はじめて本書をひもといた読者は、いきなりいささか面食らうであろう。というのも、冒頭に置かれている第二版序文は、序文とは名ばかりの、実質的なあとがきないし補足なのだから。
 実際、初版刊行の9年後に付されたこの序文は、同業組合(職業集団)に関する独立した一論考である。それは、本書初版刊行後の反響とデュルケーム自身の思考の深化に対応して書かれた文章であり、実のところ、本書を最後まで読み切った後でなければ、その意義は理解できるはずもないものだ。
 原語でcorporation, groupement professionnel, corps de métiers などと表現される同業組合に関するデュルケームの議論は、本書第一版(1893)第一編第六章および第七章にはじめて現れる。その後、1895-96年にボルドー大学で講じられた講義の草稿である『社会主義およびサン- シモン』第十章で触れられ、『自殺論』(1897)の結論部たる第三編第三章で展開される。さらに、1896-99年の講義草稿と推定される『社会学講義』第一講から第五講、第八講、第九講、そして第十八講で取り上げられた後、最終的に本書第二版序文(1902)において、もっともまとまった形で論じられたものである。
 それはもちろん、その名が示すとおり、職種を同じくする者たちが、必然的に共通する経済的利益を協力して守り追求するための集団である。これにより、分業と産業化の歴史的進展に伴う無規制状態(アノミー)を、経済の実際に精通している彼ら自身によって調整させよう、いやむしろ近代社会における経済の重みの増大に鑑みれば、この集団こそ不可欠であるというのが、デュルケームの主張である。
 だがしかし、その名が与える印象に反して、経済的機能は同業組合に託された主要機能ではない。

「われわれがこの組織〔同業組合〕こそ不可欠のものと判断したとしても、それは、この組織の果たしうる経済的用役のゆえではなく、それがもちうる道徳的影響力のゆえだからである。なかんずく、われわれが職業集団のうちにみるものは、一個の道徳力である。この力によってこそ、個人のエゴイスムを抑制し、労働者の心のうちにいきいきとした共同連帯の感情を絶やさぬようにし、弱肉強食の法則が商工業上の諸関係にこれほど露骨に適用されないようにすることが可能なのである。」(本書第二版序文、34ページ)

 つまり、田原氏の解説にもあるとおり、デュルケームは、近代社会における経済の重要性を認識しつつも、これをこの社会の基盤や本質とはみなさなかった。経済は、いかに重要であれあくまで社会の一機能にすぎないと捉え、いわば経済を道徳化することで社会を成そうとしたのだ。
 実際、本書第二版序文で語られているとおり、同業組合は、経済的役割だけでなく教育事業や芸術鑑賞にまで及ぶ多様な役割を期待されている。また、その起源を古代ローマにまで遡り求めた上で、フランス革命時テュルゴーの改革により封建的とされ廃止された中間集団の近代社会における再生であると位置付けられている。
 この意味でデュルケームの同業組合論は、現代的な意味における労働組合論よりも、歴史学でいわれるアソシアシオン論の系譜の中に適切に位置付けることができよう。すなわち、広義では「どのような形(結社association)をもって人々は団結(associer)できるのか」についての議論、より限定的には「かつて国家と個人の間に多数存在した、ギルドや家族などのいわゆる中間集団(二次的集団)が、フランス革命とともに封建的なものとして廃止され、あるいは衰退の一途をたどる中、ばらばらの状態で残された諸個人はいかにしてまとまることができるのか」、この問題に関する一群の議論である。
 そのように位置付けてみれば、同業組合の奇妙に弱い経済機能と、大きくそこに託された他の諸機能との不可思議なバランスが理解できる。つまり、だからこそデュルケームは、『自殺論』においてこれを近代社会における自殺減少のための処方箋として描いたのだ。そしてまた、『社会学講義』や本書においては、地域代表制を否定し、国家や自治体と個人を媒介しそれらの統治者を選ぶ際の有権者集団ないし選挙母体、換言すれば一種の選挙区としてこれを構想したのだ(その見事な分析が『デュルケム社会理論の研究』(宮島喬、東京大学出版会、1977)の第四章第二節「民主主義と中間集団―職業集団の問題―」にある。また、拙稿「デュルケームの民主主義論」(『一橋論叢』第114巻第2号所収、日本評論社、1995)もあわせてご参照いただければ幸いである)。
 実際のところ、これまでの社会学的研究において、デュルケームの同業組合論は、具体性を欠く抽象的な議論であると、また復古的あるいはユートピア的な、いずれにせよ非現実的な提案とみなされがちであり、いささか軽んじられてきた。がしかし、これを今日的な意味での労働組合論に直結するものとしてではなく、近代社会そのものの存立に関わる提案として、「近代社会という問題」に対する根本的で実践的な処方として捉えるとき、例えば先の「選挙区としての同業組合」など、今日我々が当たり前のものとして無反省に受け入れているものではない社会の構築法を、いわばオルタナティブな現実のありかたを提示していることが理解されよう。そこには引き出すべき豊かな可能性が潜在しているのだ。
 グローバリゼーションの嵐が猛威を振るい続ける中、家族や地域共同体は風前のともしびとなり、他方、激しくはあるが空虚な反作用でしかない排他的ナショナリズムや宗教的原理主義が叫ばれ、いわば「社会の解体」をさえ皆が多かれ少なかれ感じはじめている今日、かようにして本書は、普段自明視している社会制度や社会生活そしてそもそも社会というものを「ありえた近現代社会」をもって捉え返し「ありうる近現代社会」を構築するためのヒントに、その意味で、虚偽の別名ではない本来の意味での「オルタナティブ・ファクト」を構想し具現化するための足掛かりたりうるのではなかろうか。

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