日本人は闇をどう描いてきたか

第十四回 融通念仏縁起絵巻 ――疫神と将軍

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第十四回は、疫病神のユーモラスな一面も垣間見える作品から。

相互に融通しあう念仏の功徳

 融通念仏(ゆうずうねんぶつ)の教義は、平安時代中期に活動した浄土僧である良忍(りょうにん、一〇七三~一一三二)にはじまる。現在は、大阪市平野区の大念佛寺を総本山とする融通念仏宗として継承され、毎年五月の来迎会(万部おねり)などを通じて、念仏の功徳を現代に伝えている。
 仏語の融通(ゆずう)とは性質の異なるものがとけあって、互いに妨げず融合して一体となることをいう。すなわち、融通念仏とは自他の念仏が互いに融通して、その功徳が個人を超えて無限大に広がることを目指す、集団的な宗教運動である。開祖良忍が阿弥陀如来から直接授けられてという偈(げ)が、この教えを端的にあらわしている。

一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳円満

 一人は全ての人のために、全ての人は一人のために、一つの念仏は全ての念仏に通じ、全ての念仏はまた一つに収斂するというこの教義は、人と人とのつながりを重視した相互扶助の思想となって、中世社会に広まっていった。

転写される絵巻

 鎌倉時代末期の正和三年(一三一四)に、良忍の生涯と融通念仏の功徳を主題にした「融通念仏縁起絵巻」が成立すると、肉筆本だけでなく版本の絵巻としても展開しながら、中世を通じて数多くの転写本が制作された。特に、南北朝時代から室町時代にかけての作例が多く残る。
 正和三年の原本は現存しないものの、米国のシカゴ美術館とクリーブランド美術館に分蔵される「融通念仏縁起絵巻」上下巻が、鎌倉時代末期に制作された転写本と推定されており、絵巻成立の早い段階から「転写」が行われていたことを物語る。
 さらに南北朝時代には、勧進僧の良鎮(りょうちん、生没年不詳)が、至徳年間(一三八四~八七)に肉筆本を、明徳二年(一三九一)ごろには版本の「融通念仏縁起絵巻」制作を企画したことで制作の機運が高まり、特に版本の図様がその後の転写本に大きな影響を与えた。
 転写されて広範囲に広まっていくことこそが、この絵巻にとって本質的に重要な要素であった。これは、融通念仏の教義そのものが、一人の念仏が広がっていくことで全ての人々の救済を可能にするという、反復的で連鎖的な構造を有していることと深くかかわっている。

華麗なる競演

 良鎮勧進の明徳版本に連なる肉筆の豪華絵巻が、京都・清凉寺に伝来する「融通念仏縁起絵巻」である。

【図】「融通念仏縁起絵巻」(重文、京都・清凉寺蔵)
画像出典:日本美術全集9(2014年、小学館)より

 本作の詞書は、後小松上皇(一三七七~一四三三)や室町幕府の第四代将軍足利義持(一三八六~一四二八)をはじめとする、二十人以上の貴顕によって分担執筆されている。また、各々の担当箇所の末尾には詞書染筆の年月日が記されている。これは、絵巻の詞書としてかなり特殊な形式であるが、「融通念仏縁起絵巻」諸本においてしばしば見られる特徴である。
 さらに、絵は紙背に貼られた押紙の記載から、六角寂済(ろっかくじゃくさい)・粟田口隆光(あわたぐちりゅうこう)・藤原光国(ふじわらのみつくに)・土佐行広(とさゆきひろ)・永春(えいしゅん)・藤原行秀(ふじわらのゆきひで)の六名による分担制作であることが知られる。このうち、寂済・光国・行広・行秀の四名は、前回取り上げた「十王図」(京都・二尊院蔵)を手掛けた藤原行光の流れを汲む、土佐派の絵師たちである。
 公武聖俗にまたがる貴顕が参画し、当代一流の絵師たちを総動員して成立したこの絵巻の制作背景には、義持による、父・足利義満(一三五八~一四〇八)追善供養の目的があったものと推定されている。詞書染筆の日付が集中する応永二十一年(一四一四)五月六日が義満の七回忌祥月命日にあたっており、このことが義満追善説の論拠となる。

権力の継承と絵巻制作

 室町時代、歴代の将軍にとってその先代の追善供養を執り行うことは、自らが正当な後継者で、将軍にふさわしい徳を備えた人物であることを示すためにも不可欠な営みであった。「融通念仏縁起絵巻」制作はその一環として位置付けられていたようで、清凉寺本に先行する明徳版本も、義満による、父・足利義詮(一三三〇~六七)追善供養のために開版された可能性が高い(明徳版本の詞書染筆年月日が、貞治六年十二月七日に没した義詮の二十三回祥月命日に集中している)。
 清凉寺本以後も、文安二年(一四四五)ごろに成立した文安本(現存せず)や、禅林寺に所蔵される寛正六年(一四六五)成立の禅林寺本が、嘉吉の変(一四四一)で赤松満祐(あかまつみつすけ)に暗殺された、第六代将軍足利義教(一三九四~一四四一)追善の目的で制作されたものと見られる。
 歴代の将軍たちにとって、他でもない「融通念仏縁起絵巻」制作が将軍権力継承の証とされた理由は、何よりもこの絵巻が立場の異なる多数の人員を招集してはじめて完成する、特異な形式であったことが大きい。公武の融和や聖俗の協調を前提とした社会秩序の創出は、公家の都である京都に開かれた武家政権を率いる歴代の足利将軍にとって重大な政治課題でもあった。異なるものを混ぜ合わせ、一体化することを目指す融通念仏の教義は、室町幕府が目指す政治的イデオロギーそのものであった。
 その意味で、天皇や法親王、高位の公家、大名、一流の宮廷絵師らを集めて制作された清凉寺本「融通念仏縁起絵巻」は、第三代義満から第四代義持にかけて、室町幕府絶頂期の輝かしい政治的達成を可視化するモニュメントでもあったのだ。

念仏に帰依する疫神たち

 良忍による融通念仏の教義確立を主題とする上巻に対して、下巻では、広い社会層に広がっていく念仏の功徳を数々のエピソードを通じて明らかにする。
 ここに掲げた清凉寺本下巻第九段では、はやり病をもたらす疫神(えきじん/やくしん)さえも帰依させる念仏の功徳が主題となっている。武蔵国与野郷(現在の埼玉県南部)の名主が、正嘉年間(一二五七~五八)に流行した疫病を防ぐため、別時念仏(べつじねんぶつ、特別な日時や期間を定めて念仏すること)を行おうとし、そのための番帳(念仏に結集する者の名を記した名簿)を書いて念仏道場に安置した。
 その夜、名主の夢に多数の異形の疫神どもが群がり来て、道場に乱入しようとした。名主はこれを制止し、翌日の別時念仏のための番帳が既に仏前に供えてあることを伝えたところ、疫神らはこれを見たいと所望した。この場面について、詞書では次のように記す。

主すなはちこれを見するに、疫神随喜せる気色(けしき)にて、結衆(けっしゅ)の名字の下ごとに判形(はんぎょう)を加てけり。いはく、我一人の息女あり、他所にありといへども、彼名字を書て此念仏に入れんと思ふ。疫神これをゆるさずと見て夢さめぬ。

 名主の夢に現れた疫神たちは、融通念仏に結縁した人々の名を見て大いに喜び、その名の下に判形(サイン)を記して帰っていった。続く詞書には、その番帳に名前を記していた人々は疫病から逃れることができたが、ただ一人、他所にいて記名をしていなかった娘だけが、しばらくしてはやり病で没したことが記されている。下巻に採録された念仏功徳譚の最後にあたるこのエピソードは、番帳に記名し融通念仏のネットワークに加入することの万能性と、逆にそこから漏れてしまうことの恐ろしさを物語っている。
 村々、家々に入り込んで病気をまき散らす疫神は、近世以前の日本人にとって現実的な恐怖であった。現在でも全国各地の神社で執り行われる、鎮花祭(ちんかさい/はなしずめのまつり)の源流は律令時代の神祇令(じんぎりょう)にさかのぼり、桜花が散る時、花弁とともに疫神が拡散することを防ぐ神事である。疫神とは、原因不明の、目にはさだかに見えないはやり病の原因を可視化することで対策可能なものとし、社会の秩序の側に組み込んでいくための知恵でもあった。
 画中には阿弥陀如来を本尊とする念仏道場に集まる老若男女が描かれ、名主が門前に押しかけた疫神たちと問答している。門の上には、融通念仏を守護するという毘沙門天が飛来し、この道場の内部が仏の加護によって守られた場所であることを示している。疫神たちは、牛頭や髑髏を載せるものあり、三眼や八眼のものあり、赤・青・黄・緑に色とりどりの、おどろおどろしい異形の姿で描かれている。
 ただし、手に棍棒や小槌など疫病をまき散らし人間を悩ませる道具を持つものがいる一方で、扇子や奉幣など人間らしい持ち物を携えてやってきたものもいる。さらに良く目を凝らすと、疫神の多くが合掌をして、既に融通念仏に対する帰依の意を示している。先頭の疫神は筆を執って判形を記しているところである。
 続く詞書を読むと「其夜あけて番帳をみれば、実に名字の下ごとに判形あり、いろはの字を書損ぜるがごとし、其色焼絵をしたるに似たり」とある。名主が目覚めて番帳をみてみると、焼絵のような疫神の判形は、いろはの字を書きそこなったようなものであったという。途端に、人間のようには上手に文字が書けない疫神たちがどこか憐れでユーモラスな存在に見えてくる。
 疫神たちもまた、仏の功徳にあずかることを切望するものどもであり、人間と同じ世界を生きる一員として描かれているのである。

将軍の夢

 この場面の詞書の末尾は、以下のように締めくくられる。

此事其聞ありて、彼番帳をば将軍家へめされてけり。是併祇園部類眷属等もみな融通念仏の結衆にて御坐ば、彼異類異形と申も別の者にあらず、皆祇園部類眷属共なれば、元より此念仏衆に入たる疫神也、真実に深志を致して、道場を荘厳して番帳をゝり、明日より別時念仏を始べき信心の誠色にあらはれければ、行疫神も番帳に判形を加へ、随喜して過にけり。

 疫神が判形を記した番帳に関する奇瑞が世に語り伝えられると、この番帳は将軍家に召されたという。同様の詞書が正和本系の写しであるクリーブランド美術館蔵「融通念仏縁起絵巻」(下巻)にもあり、ここでいう将軍とは、説話の年代設定(正嘉年間)にあわせて、鎌倉幕府の将軍を想定しているものと思われる。
 敢えて現実と重ね合わせるならば、この時期の将軍は第六代宗尊親王(むねたかしんのう、一二四二~七四)であった。公武融和政策の先駆けともいうべきこの宮将軍の治世は、政治上の実権を執権・北条氏に掌握されたものではあったが、文化面では鎌倉における歌壇隆盛を牽引し、公武の文化がまさに混じり合う一時代を築いた。
 続く詞書では、その昔に釈迦が説法したという祇園精舎の眷属たちは全てが融通念仏の結衆であり、異類・異形のものであっても皆がその一員なのだと説く。清凉寺本制作に合力した人々の中心で、将軍義持が垣間見たひとときの夢が一つの絵巻に結晶する時、立場や出自にこだわらず互いに功徳を融通しあい究極の融和を目指す融通念仏の理想が、絵巻の内と外、さらには鎌倉時代の将軍と室町時代の将軍の理想と響き合い、時間や空間を越えた美しい和音となって見るものを魅了する。

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