piece of resistance

21 コンサート

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 東京ドームは底から沸いていた。
 平面に椅子を敷きつめたアリーナ席、スタンド一階席、スタンド二階席――二階席の最果てみたいな隅から身を乗りだしている僕の目には、うごめく五万の影からゆらゆらと立ちのぼる湯気が見てとれるようだ。
 誰ひとり座ることなく、歌い手の去ったステージを皆がひしと見入っている。
 感涙にむせぶ者。
 歌い手の名を叫ぶ者。
 高々と拳を突きあげる者。
 ばらばらに切りはなされていたそれらの興奮は、やがて小さな幾つかの塊となり、ついには大きな一つの塊になる。
 アンコール。その一語が五万の心を結ぶ。
 アンコール。アンコール。唱えるほどに熱を帯びていくその声は、ゆるやかな弧を描く天井に反射して環流し、ドーム狭しと渦を巻く。
 アンコール。アンコール。アンコール。地響きのような歓声が最高潮に達したそのとき、ステージにライトが灯り、ラフなTシャツに着替えた歌い手がステージに再び現れた。
 わっと万雷の拍手が鳴りわたる。歓喜の悲鳴が立ちのぼる。歌い手がアンコールの曲を歌いだす。バラードだ。
 一瞬にして静まり返ったホールを歌い手の透明な歌声が浸していく。包むようにあたたかく。とろかすように優しく。
 歓声がすすり泣きへ変じていく。魂が痺れる。全身全霊を遠いステージへ傾け、僕はゴマ粒大の歌い手と自分を接続するコードをその歌に探す。皆が一つになりたくてここにいる。 
 バラードの次は一転してノリのいいパンクロックだった。
  この歌い手はアンコールを二曲しか歌わない。完全燃焼とばかりに皆は腰をひねって踊り、跳び、絶叫する。僕も踊る。跳ぶ。絶叫する――と、ふいにそのとき、僕の隣席にいた彼女に肩を叩かれた。
「そろそろ行こ」
 突きあげていた拳が硬直する。ついさっきまで一緒に踊っていた彼女が急に遠ざかる。
 どうする? 息を殺して僕は自分に迫る。決断のときだ。もう先延ばしにはしないと決めて来たはずだ。
「ね、早く」
 忍び声に苛立ちを滲ませる彼女に、僕は意を決して一通の封筒を渡す。デニムのポケットに入れていたくしゃくしゃのそれを、突きあげていないほうの手で。それから、思いを吹っ切ってステージへ目を戻す。
 歌い手が最後まで熱唱し、「ありがとうっ」と五万の観衆に別れを告げたとき、僕の横に彼女はもういなかった。

『   えっちゃんへ
   えっちゃん、いつもコンサートにつきあってくれてありがとう。
 いつもぼくの好きなアーティストばっかりで悪いなと思ってたけど、えっちゃんがそんなことない、楽しいよと言ってくれるので、これまで甘えてきました。
 実際、いつもえっちゃんは一緒に楽しんでくれました。コンサートの前にはちゃんとアーティストの曲を聴きこんでくれたし、振りつけだって覚えてくれました。コンサート中、ぼくがノリノリで踊っていると、一緒に踊ってくれました。拳を突きあげるべきところでは突きあげ、合唱すべきところでは合唱し、何もすべきでないところでは何もしませんでした。
 本当によくできた彼女です。コンサートに限らず、万事においてえっちゃんは首尾よくこなせる人です。過不足がない、というのでしょうか。ぼくとは違うとよく言われますし、自分でもそう思います。
 とりわけその違いを実感するのは、じつは、コンサートのときです。
 これまで言えませんでしたが、ぼくはえっちゃんがアンコールの途中で席を立つたびに、一緒にホールを去りながらも、ステージに後ろ髪を引かれていました。
 確かに、コンサートの終了後、ブロックごとに客を退場させようとする会場の誘導に従うと、やたらと時間がかかります。出口もごったがえすし、道も混みます。電車も混む。ひと足早く帰るのが得策というえっちゃんの考えはまちがっていないのでしょう。
 けれど、ぼくはえっちゃんが帰りの電車の中で、「よかった、空いてて。ね、早く出てきてよかったでしょ」と声を弾ませたり、「三十分は得したね。時間の節約、節約」と小鼻をうごめかしたり、「一本遅かったら、電車、ぎゅうぎゅう詰めだったよね。悲惨」とほくそ笑んだりするたびに、なにかやるせないような気持ちになっていました。
 えっちゃんと一緒にいれば、ぼくは首尾よく生きられるのかもしれない。人に遅れをとったり、損をしたりせずにすむのかもしれない。いつも適度に楽しめるのかもしれない。過不足なしに。
 でも、最近はこうも思えるのです。えっちゃんと一緒にいるかぎり、ぼくは本当にすばらしい一瞬に立ち会うことはできないのかもしれない、と。
 何が言いたいの、とイライラしはじめたえっちゃんの顔が目に浮かびます。
 言いたいことを言います。別れてください。
 これまで本当にありがとう。
                浩太』