藪前知子

⑩ もっと「サスティナビリティ」を!

アートとは何か、アートは社会とどう関われるか。気鋭のキュレーターがアートの役割を根源から問いなおす、コラム連載第10回。

「サスティナビリティ」という信条
 美術館で働き始めて、最初に企画を任された忘れられない仕事がある。教育普及部門が今も続けている市民向けの「MOT講座」で、「美術と教育」をテーマに、岡崎乾二郎、堀浩哉、小山穂太郎、河口龍夫という、両者の実践を互いに結びつけつつ行っている錚々たる方々に、週代わりで講演をお願いした。一般化されない個人の感覚を普遍的なものとして伝える、という点で、美術と教育には共通点があり、教育という側面から、美術とは何かを語れないか――と今思えば大それているが、私にとってはひとつの出発点となる企画だった。
 もう一人、どうしてもお願いしたい講師として、当時コマンドNという「アート活動集団」をベースに、インタビューと出版からなる「美術な教育」というプロジェクトを手がけておられた中村政人さんがいた。しかし、緊張しながらかけてみた電話の向こうからは、ちょっと怒った声で、新人学芸員にとってはべそをかきたくなるような答えが帰って来た。「今の美術館に一番欠けている考えはサスティナビリティ(持続性)ということで、一回きりの講座で話すことなんて、何も意味がない。でも、もし美術館の活動に持続的に関われるような展開がありうるのだったら、考えてもいい」。当時の私にそこから先を繋げる力はなく、結局彼が美術館に来てくれることはなかった。
 その中村さんを中心とするコマンドNの20周年の展覧会が、先日まで3331アーツ千代田で開かれていた。言うまでもなく、3331自体が、コマンドNから出発した中村政人が行き着く、彼の「作品」とも言うべき拠点である。秋葉原の電気街のテレビを使った映像祭「秋葉原TV」から始まり、ローカルとグローバルの二つのコミュニティの只中で、社会と地域に関わり、それを内側から更新して行こうとする活動の連鎖がアーカイブとなって会場を埋め尽くしていた。「サスティナビリティ」は、変わらず中村政人の活動を支えるキーワードであり、20年の厚みがその説得力を支えていた。
 この連載でも何度か触れているとおり、バブル期から90年代にかけての全国の美術館建設ラッシュを経て、2000年代に入ってからは、アートプロジェクトや芸術祭が興隆する。「箱モノ行政」が散々批判された末のことである。設置主体である自治体にとって、失敗すればいつでも予算を切ることができる一過性のプロジェクトは、「サスティナビリティ」がないゆえに、手軽に乗ることができる格好の文化事業だった。裏を返してアートプロジェクトの担い手の側からすれば、「サスティナビリティ」とは自分たちを守るための信条でもあったのだ。新人学芸員に向かって、「美術館にはサスティナビリティが足りないのだ」と言った中村政人のいらだちについて、当時の私はどれだけ理解していただろうか。勤務先の美術館でも、指定管理者制度が始まり、アニメーションをテーマにしたメガ展覧会を夏休みに開催するようになった、節目の時期だった。その後私は展覧会の担当を離れ、美術館の「サスティナビリティ」を支えるコレクションの仕事に長く携わることになるのだが、ふとしたときに、中村さんのこの時の言葉が心によぎることがあった。

アートプロジェクトをどのように評価するか
 さて、その「サスティナビリティ」とは具体的にはどのように実現されてきたものだろうか。中村政人は、今回の展覧会に併せて出版された『新しいページを開け!』と題されたカタログのあとがきで、「PDCA(Plan=計画、 Do=実行、Criticism=批評、 Awareness=気づき)」のサイクルを繰り返し続けていくことで、「地域因子=地域に潜在している魅力ある対象」がある日価値を持って発芽するのだ、と述べている。「PDCA」とはもともとは商品の品質管理の現場で提唱された理念である。注目したいのは、事業を継続的に進行させるにあたって、事後の評価が、事前の計画と同等の重要性を持つと考えられていることだ。
 近年、アートプロジェクトをいかに評価するかという問いは、ひとつの大きなトピックとなっている。オリンピックに向けて各地で助成金を分配するためのアーツカウンシルが設置されたが、これはそもそも、公金を適正に活用するための評価機関である。しかしこのアートプロジェクトの「評価」は、既存の評価基準ではなかなか測ることができない。例えば、アートプロジェクトの「何を」評価するのか。既存の美術批評のように、作品としてのクオリティを評価するだけでは事足りない。アートプロジェクトのほとんどは、例えば社会への関与や地域の活性化など、美学的な価値とは別の目的を持っているからだ。それを見定めた上で、目的をどこまで達成したかを評価するにしても、では、それを「いつ」するのか。地域との関係の変化を評価するのであったら、ある程度の時間を置かなくてはわからないはずである。また、そもそもそれを「誰が」評価するのか。そのプロジェクトを、一度だけ訪れる一般の鑑賞者だけではなく、プロセスをつぶさに体験する評価者が必要である。それは、ほとんどプロジェクトの内部の人間にしかできないことだったりもする。並走しながら客観的にプロジェクト全体を俯瞰できるような、そのような評価者というのは果たして可能だろうか。
 さて、私が今年の春に企画担当し、この連載の第6回でも触れた「MOTサテライト2017春 往来往来」でも、併走しつつ「記録」と「評価」を行ってもらうためのサブ・プロジェクトを作った。地元にあるキュレーター・小澤慶介さんのアートスクール、「アートト」との共催で、芸術の文化人類学者の兼松芽衣さんを中心に、彼女のゼミに参加したメンバーで、「MOTサテライトアーカイ部」を結成し、着かず離れずの距離で、MOTサテライトを「観察」してもらったのだった。最初に声をかけた当時、SF批評家の藤田直哉氏が、『地域アート』(堀之内出版、2016年)という本を出版し、話題となっていた。現在興隆する地域アートプロジェクトの多くが、コミュニティを活性化させる目的で、他者との関係性や参加型の手法を用いており、それは、芸術の美的な構造を変化させてしまっているのではないか、というのが彼の問題提起だった。地域アートプロジェクトの担い手からはこの本に対する違和感をよく耳にした。当事者以外の人間の批評や言葉を排除するものではないか、と藤田氏は指摘しているが、既存の批評言語で捉えられないものであることは大前提で、それにいかなる評価基準を与えるかということを熟考して来た側からしたら、議論が一周遅れたところで白熱してしまっているようなもどかしさがあったのだろう(註)。一方、兼松さんは、越後妻有大地の芸術祭が行われている土地に住んで、芸術祭が地域に与えてきた変化を、長年文化人類学の視点からリサーチしてきた人である。地域アートプロジェクトについては、作品中心ではない、別の視点からの批評の入り口があるのではないか、それを一緒に模索してもらいたいというのが私の希望だった。
 アーカイ部のメンバーは、会期前と会期中、会期後とMOTサテライトの参加者や地域の方々にリサーチを行い、可能な限り全てのイベントにも顔を出してくれた。そのリサーチ結果が近日中に「アートト」のウェブ上で公開されることになっている。私にとっても、全く手探りのプロジェクトで、先方にしてみたらストレスが募る仕事だったと思う。上述したように、プロセスを評価するには、そのプロジェクトを内側から体験するような併走者となってもらわなくてはならなかったはずなのだが、初めての地域での事業を立ち上げることに必死で、ついアーカイ部との情報共有が後回しになってしまったのが悔やまれる。また、今になって振り返ると、「プロジェクトの狙い」――企画意図を考えるということは、すなわち「何を評価してほしいのか」ということと対になっている。外側から観察してもらうのではなく、企画段階からのコミュニケーションがもっとも大事であったということ、これらもまた、すべて終わった後で気がついたことである。
 結果として彼らが、この短い期間で成果を出せるものとして選んだ内容は、深川/清澄白河地区のイメージが住民たちにとってどのように変遷してきたのか、それに東京都現代美術館の存在はどのように寄与してきたのか、というリサーチだった。プロジェクト全体の記録と評価をしてもらいたい、という希望とはかけ離れた内容に、正直に言えば最初は戸惑った。が、作品内容についての叙述がほとんどなく、錯綜したコミュニティの中から人々の声をひたすら拾うという尖った内容の労作は、地域アートプロジェクトの評価の本質を抽出したものだったと思う。興味深いのは、この調査をしたアーカイ部のメンバーたちの、清澄白河というまちに対する関係や、プロジェクトへの参加によって起こったイメージの変化をも丁寧に聞き取り記述しているところだ。当初の私は、客観性を保つために、評価者とはなるべく距離を置くべきなのだと考えていた。しかし前述したように、プロセスを評価するということは、その主体自体も只中に巻き込まれ、変化していくということなのだ。

地域の本当の潜在力が発芽するまで
 そういう私自身の、まちとの関係も確かに変化している。先日行われたMOTサテライト第2回の最終週に合わせて、深川の人たちが一つのイベントを立ち上げてくれた。この連載でも触れた、深川の人たちが異なるコミュニティを繋ぐために立ち上げたトークイベント「コウトーク」のメンバーが、ここで培った人脈を生かして、60以上の拠点が参加し、それぞれがイベントやワークショップを行う「深川ヒトトナリ」というまち歩きイベントに発展させたのだ。名ばかりだが、私も実行委員に入れてもらい、DIYで自らの世界を作り上げているまちの達人たちの拠点を巡るツアーを企画したりした。会議の場で、夜の飲み歩き担当、歴史語り担当、といろんな得意分野を持つ方々が集まる中で、「アート担当、行けるよね?」と言われたとき、まちと美術館と自分の関係がひっくり返ったような、不思議な気分になったのを思い出す。まちのアート担当者か……。それも悪くないなあと思ったのだった。
 さて、こうした各個人に起こった小さな変化は、短期的には「まちの複数のコミュニティが繫がり、活性化した」成果として評価されるかもしれない。しかし、中村政人が言うように、地域が持っている本当の潜在力は、「サスティナブル」な実践の後に発芽するものなのだということも忘れてはならないだろう。それは、とかく短期の成果が期待される既存の評価システムでは、なかなか捉えることができないものだ。同様に、受け手にとっても、個人の中に埋め込まれた美術の潜在力が発芽するのは、おそらくはずっと後のことだ。中村政人が、地域での展開と並行して、「美術な教育」というプロジェクトを行っていたことの意味が思い起こされる。美術も教育も、それが各々に何をもたらしたのか、本当のことは、コマンドNが実践してきたように、20年後、あるいはその受け手の一生が終わるときにならないとわからないものなのかもしれない。「もっとサスティナビリティを!」と新人学芸員に向けた中村政人の声は、他者と関わるということについて、それだけの覚悟をお前は持つことができるか――と、時を超えて私に問いかけてくるのだった。


(註)例えば、アーツカウンシル東京の前身である東京文化発信プロジェクト室は、2011年と2012年の2年間にわたって、「アートプロジェクトを評価するために」と題したリサーチプロジェクトを主催し、冊子を発行している。東日本大震災後の地域振興型アートプロジェクトの増加直前のことだが、外部者による評価の難しさについて、具体的なプロジェクトをもとに一通りの議論がなされている。


追記:筆者が編集委員長を務めた今年度の美術評論家連盟会報でも、「基準点(クライテリア)の現在」と題し、地域アートプロジェクトやアールブリュットなど、評価基準の異なるいくつかのトピックについて、いかに共有のための批評言語を構築するかについて議論されている。ご興味がある方はこちらもぜひ。


 

関連書籍

藤田直哉

地域アート――美学/制度/日本

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