ひきこもり支援論

第6回 「分からない」が与える安堵、「分かる」が与える苦痛

 前回までに「ひきこもり」の当事者たちを悩ませている二つの〈語れなさ〉を指摘しました。一つ目は、自分が直面している困難や苦悩を言語化できないということ。二つ目は、言語化できたとしても、それを率直に語ることが許されない状況があるということ。今回はさらに、語ったことが自分の思いや意図にそぐわないところで勝手に理解されてしまうという、三つ目の〈語れなさ〉を明らかにしたいと思います。

 

話の通じなさがもたらす不安

 今回もある当事者――Bさんとしておきます――へのインタビューに沿って、話を進めていきましょう。前回ご登場いただいたAさんと同じく、Bさんも語彙が豊富で話し上手な方です。ところが、Bさん自身はどうしても自分の話が理解されないことに深く思い悩んでいるようでした。発達心理学の専門書に目を通すなど「言語化する努力」をしているにもかかわらず、なかなか思うような反応を得られずにいたのです。

 Bさんはインタビューで、次のような「不安」を口にしました。

「社会の中に自分の居場所があるのかなって、そういうことを考えたりして……結局不安なのはそこなんですけどね。だから、大多数の人とそもそも根本的に違うんじゃないかとか、話が通じる可能性があるんだろうかとか、そこらへんなんですよ」

 このとき話が通じない相手として挙がったのは、カウンセラーなどの支援者、そして両親、とりわけ父親でした。父親も「勉強熱心」な「読書家」でしたが、それでも自分の話が「通じた」と思えることはなく、大事なのは「知識の量とかじゃない」と感じたそうです。では、具体的にはどういう場面で「通じない」と感じたのでしょうか。

「なんかね、たとえば働けないとか仕事がしんどいとかっていうので、僕が仕事が続かないとか学校行きたくないって話をすると、やっぱり当たり前なんだけど、これは皆も行けないんだよとか、しんどいんだよとかって言って。俺だって家族を食わせるために仕事してたんだよ、とか」

「働けない」とか「仕事がしんどい」と打ち明けても、父親からは決まって、自分も同じような思いをしてきたし、誰でもそういうしんどさを抱えているのだと諭されていたことがうかがえます。Bさんは父親のそんな言葉にどうしても納得がいきませんでしたが、だからと言って反論もできなかったようです。その理由は次のように語られています。

「うーん、あたりまえのことなのよ、言ってること自体は。だから、学校なんて皆行きたくないけど我慢していくもんだよとか、仕事だって別にやりたくなくてもお金のために行くんだし、っていうのは皆言うことじゃない? うちの父親に限らず。要するに皆しんどいっていうふうに言われちゃう、と」

 父親の言うことは、世の中でも「あたりまえのこと」として通っていることです。そして、Bさん自身もそれを「あたりまえ」と感じるからこそ、何も言い返すことができなくなってしまったのでしょう。こうして鬱積されていったモヤモヤとした思いが高じて、先ほどのような「不安」を抱えるに至ったのではないかと考えられます。Bさんにとって「話が通じる」のかどうかということは、この社会で生きていくことを自分は許されているのだろうか、といった問いと切り離せない問題であるように思われます。

 

三つ目の〈語れなさ〉

 さて、Bさんは自分の思いや経験を、かなり言語化できているように私には感じられました。また、父親のほうもBさんの話を一方的に否定するのではなく、耳を貸そうとしていたように思えます。しかし問題は、それでもBさんが自分の話をちゃんと聞き届けてもらえた、存分に語りきったという感覚を持つことができず、この社会で生きていくことに対する根本的な「不安」を抱えるまでになっているということです。

 Bさんが繰り返していた「話が通じない」という言葉。これを私なりに言い換えるならば、次のようになります。すなわち、自分の思いや経験が自分にとっては全くそぐわないところで勝手に理解されてしまう、あるいは、相手にとっての「あたりまえ」や世間の常識で〈上書き〉され、自分自身の本当のところは宙吊りになってしまうということです。これが三つ目の〈語れなさ〉として指摘したいことです。

 この三つ目と前回指摘した二つ目の〈語れなさ〉は、ともに語り手と聞き手の関係において生じるものだと言えます。こうした〈語れなさ〉が支援現場でどのような問題を生じさせうるのか、引き続きBさんのインタビューから考えていきます。

 

支援の現場で生じうる排除

「ひきこもり」の支援では、ひきこもった経験やそのなかで感じたことを分かち合うことのできる仲間との交流が大事にされており、その際はフリースペースや自助グループなど、いわゆる「居場所」が大きな役割を果たすとされています。

 ところが、これは働くという話題に限ってのことなのかもしれませんが、当事者が相手であっても、Bさんが「話が通じる」という感覚を持てたことはあまりないように見受けられました。働くことをめぐる苦しさはかえって「当事者同士のほうが言えない」と、Bさんは語ります。

「なんでかっていうと、働かなきゃっていう意識がむしろ普通の人よりも強かったりして、そういうことを言うと、何言ってんだ、お前はって。自分も働けないくせに言ったりとか、僕もやっちゃったことあるけど(笑)そうなんだよね。だから結構言えない。どうせ言っても踏みつぶされる、踏みつぶされそうな感じだから言えないってことはありますよ」

 当事者のほうが「働かなきゃっていう意識がむしろ普通の人よりも強かったり」するために、働くのが辛いとか働きたくないといった言葉は、〈上書き〉されるどころか「踏みつぶされ」かねないというのです。

 ひきこもっている間は、こんなことをしているのは自分だけだと思っていた。だから、同じような経験をしている人たちに出会えて本当に救われた――多くの当事者が「居場所」につながったときの気持ちを、こんなふうに語ります。ですが、そういう「居場所」であっても思いきり語れない場面や話題があることが、以上のBさんの発言からは分かります。

 もちろん当事者同士といえども事情や背景は人それぞれであり、互いに相容れないものがあっても当然です。しかし、長きにわたって孤独に過ごしてきた人びとにとって、ようやく見つけた「居場所」での様々な葛藤は、より熾烈なものとして経験されるであろうことは想像に難くありません。

 また、助けを求めて行ったはずのところで、逆に踏みつけにされてしまうということは、支援施設や行政の相談窓口などでもしばしば起きているようです。勇気を振り絞って足を運んだのに、スタッフの心ない言葉や振る舞いに傷つけられたという話は、残念ながら珍しいものではありません。

 さらに、支援者に「話が通じない」ことは、先ほど触れたような「不安」をいっそう深刻にさせるだけでなく、「死活問題」にもつながるとBさんは語っていました。なぜなら、Bさんはカウンセリングなどの個別相談だけでなく生活面での支援も受けていたので、何に苦しんでいるのか支援者にきちんと理解してもらわなければ、ライフラインを断たれてしまう可能性があったからです。

 以上のようなエピソードは、支援の現場がときとして排除の現場になりうることを示しています。つまり、支援に携わる人々が当事者の声を〈聴けない〉こと、別の言い方をすれば、当事者に〈語らせない〉ことは、かれらを様々なセーフティネットから排除することに直結しており、また生きることの意味や自分の存在価値を見失ってしまうという「自分自身からの排除」にもつながっているのです(湯浅誠『反貧困』岩波新書、2008年)。

 

「あなたのことは分からない」が与える安堵

 さて、語り手と聞き手の関係において生じる二つ目と三つ目の〈語れなさ〉では、語り手はあからさまに攻撃されたり無視されたりするわけではありません。とくに三つ目の〈語れなさ〉で難しいと思うのは、語り手の言ったことを聞き手が怒りや反発とともに〈上書き〉するのではなく、「あなたの感じている辛さは私にも覚えがある。あなただけが辛い思いをしているわけではない」といったように共感や同情を示してくる場合です。

 歩み寄ろうとする相手を「あなたは分かっていない」と突っぱねるとき、たとえ相手のピントがずれていたとしても、たいていは突っぱねた側のほうが狭量で大人げないと見られがちです。しかも、話の脈絡や相手との関係性によっては、「あなたは分かっていない」は単なる拒絶ではなく、「自分の考えていることや感じていることを、自分の思うとおりに理解してほしい」という過剰な要求にもなりえます。

 これがなぜ過剰な要求になるのとかといえば、他者を完全に理解することも、望みどおりに操ることも不可能だからです。にもかかわらず、それを求め続けることは「わがまま」や「甘え」になってしまいます。そのため、適切に理解できない聞き手よりも(どういうふうに、どのくらい分かれば「適切な理解」と言えるのかという重大な問題は別にして)、理解を示そうとしている聞き手を受け止められない語り手のほう(だけ)に問題があるかのような構図が出来上がってしまうのです。

 インタビューでの印象では、Bさんの父親が「皆しんどさを抱えている」と言ったのも、「だから甘えるな」と息子を叱りつけるためではないように思えました。ですが、ひょっとしたらBさんにしてみれば、頭ごなしに怒鳴りつけられたほうが楽だった部分もあるのではないか、という気もします。なぜなら、そのほうが多少なりとも面と向かって「あなたの理解は間違っている」と反論したり、一方的な態度について抗議したりしやすくなるからです。

 父親から聞いた言葉の中で「ホッとした」とBさんが語ったのは、むしろ「分からない」という一言でした。

「どうも俺はお前のことが理解できないみたいだなとかって、父親がふと言ったのね。それ、ちょっとホッとした。あ、そうだ、この人分かんなかったんだって、逆にホッとして(笑)そうなんだよ、それが聞きたかっていうか、逆に。本音みたいな感じで言ったからさ、ふと、ふぅ~っていう感じでさ。あぁ~疲れたなぁ~っていうぐらいの感じで。どうも俺にはお前のことが理解できないみたいだなって」

 Bさんは「話が通じない」ことに思い悩んできたにもかかわらず、なぜ父親のこの一言によって心が軽くなったのでしょうか?

 

「あなたのことは分かる」が与える苦痛と失望

 繰り返しになりますが、Bさんの父親は「仕事が続かないとか学校行きたくない」といったBさんの苦悩に対して、「皆行けないんだよ」とか「俺だって家族を食わせるために仕事してたんだよ」と応えていました。つまりBさんの父親は、「皆」すなわち世間一般の人びと、そして、そのうちの一人である自分の苦悩と重ね合わせることで、Bさんの苦悩を理解しようとしていたのだと言えます。

 これは私たちが普段やっていることでもあります。私たちは自分の手持ちのカードの中から相手の言動や振る舞いが当てはまるものを探していく、つまりは自分の経験から相手の経験を類推していくことで、相手を理解しようとします。要するに、ここでは自分と相手が「同じ」であることが前提になっているわけですが、どうやらこの前提こそがBさんの解消されないモヤモヤと深く関連しているようです。以下は、父親の言うことは「あたりまえ」過ぎて反論できないという先ほどの発言の続きです。

「要するに皆しんどいっていうふうに言われちゃう、と。でも、皆のしんどさと自分のしんどさが同じか違うか分かんないじゃない? 空が青いって言ってて、じゃあ自分が見てる青と、隣の人が見てる青が同じかっていう話になっちゃう。だから皆辛いんだよって言われちゃうと、どうにもなんない」

 Bさんは空の色を例に挙げて、二人で同じものを見ていたとしても、その見え方や感じ方が必ずしも「同じ」とは限らない、だから「皆のしんどさと自分のしんどさが同じか違うか」も分からないはずではないか、と訴えます。そして、「どうにもなんない」と話を一区切りさせたところで、Bさんは「ふふっ」と何とも形容しがたい笑いを漏らしました。

 Bさんの主張は決して間違ったものではありません。ですが、このように自分と相手が「同じ」であるという前提に疑問を持ってしまうと、途端にコミュニケーションを行うことは難しくなります。言い換えれば、この前提に疑いを向けない限りにおいて、コミュニケーションは成り立つのです(なお、「自分と相手は本当に「同じ」なのか?」という問いは、本連載第4回で触れた「実存的問題」にほかなりません。この点については「〈動けなさ〉を読み解く」というセクションで、おしゃべりを例に挙げて論じています)。

 とはいえ、Bさんも常に自分と相手が「同じ」であるということを疑問視しているわけではないでしょう。そうでなければ、私との会話も成立していないはずです。では、どういう場面や話題で、この前提に対する疑いが浮上してくるのでしょうか?

 この点についてはBさん本人にきちんと聞けていないのですが、自分がひきこもったことの核心に関わるような苦悩、ひいては自分自身の生の根幹に密接に結びついているような場面や話題ではないかと想像します。そういう局面で、自分と相手が「同じ」であるという前提に立っていることに目を向けず、また自分と相手がどう「同じ」で、どう「違う」のか吟味しようともせずに「あなたのことは分かる」という態度や言動をとられると、自分の存在を軽く扱われ、踏みにじられたように感じるのではないでしょうか。たとえば、皆さんも家族や友人に悩みごとを打ち明けたとき、ろくに話もしていないうちに相手から「分かる、分かる」と言われて腹が立ったことはありませんか?

「どうも俺にはお前のことが理解できないみたいだな」という一言は、私とあなたは「違う」と突き放すもののようでありながら、私と「違う」からこそ自分とは別個の存在としてあなたを尊重しなければならないのだ、という気づきを含んでいるように感じます。だから、Bさんは「ホッとした」のではないでしょうか。そして、この一言がBさんを安堵させることができたのは、少し変な言い方になりますが、どうしても「話が通じない」ことをちゃんと確認できるところまでは、やりとりを重ねられていたからではないでしょうか。ほとんどやりとりしていないうちに同じことを言われていたら、尊重とは真逆の拒絶に感じられていたかもしれません。

 

ふたたび「共感」について考える

 連載第2回では私の調査過程を振り返りながら当事者に共感を示そうとしてきた側の経験を取り上げ、今回はBさんへのインタビューを通して共感を示された側の経験に触れました。共感とは相手の経験のなかに自分と「同じ」ものを見つけたときに生まれるものですが、この「同じ」が曲者であることが重ねて確認されたのではないかと思います。

 たとえば、先ほども取り上げたように、自助グループなどでは参加者同士が「同じ」だと前提するからこそ得られる安心感があります。ですが、「同じ」であるという前提ゆえに「違い」に対する感受性が鈍り、自分の「あたりまえ」で相手を塗りつぶしてしまうような事態も生じてしまうのです。

 相手の声に注意深く耳を傾け、自分の手持ちのカードと慎重にすり合わせていくためには、自分と相手は「違う」ということを忘れないようにしなければなりません。私がいったん当事者に対する共感を手放したのも、自分と「同じ」ところにばかり目を向けることで、当事者との向き合い方が雑になっているとことに気づいたからでした。

 ただし、いまの私は当事者への共感を自分に対して固くは禁じていません。第4回では共感をあきらめることで改めて見えてきた当事者の姿について書きましたが、次回はさらにそのあと、当事者との関わり方がどう変わったのかということを確かめてみようと思います。話を先取りすれば、当事者と自分の接点をどこに見出すのかが変わり、いったん手放したときよりも深いところで共感が生まれたように感じています。そして、この議論を踏まえて、どういう支援が望ましいのかということについても掘り下げていきたいと思います。