ちくま文庫

星が落ちてくる、つかまえろ

『田中小実昌ベスト・エッセイ』解説

「お前、英語が出来るだろ」と、コミさんが片岡義男さんに問いかけてきた謎とは? 最高のジョークあふれる解説です。

 僕が最初に田中小実昌さんに会ったとき、僕は二十代のなかばだったと思う。場所は新宿の歌舞伎町で、時間は夜が始まった頃だった。年長の編集者に誘われて同行した料理店のカウンター席ではなかったか。その年長の編集者は、客としてあらわれた田中さんとは旧知であり、いっしょにいた僕を紹介してくれた。

 田中さんと僕とは、少なくて十五歳、多くて二十歳ほど、年齢が開いていたと思う。しかし、そのような年齢差とはなんの関係もなしに、この田中さんという人には会ったことがある、と僕はしきりに思った。会ったことがある、としきりに思いはするけれど、それがいつのどこでのことだったかに関しては、なにも具体的なことは思い出せなかった。会ったとすればそれは十年くらい前のことではないか、と僕は思った。当時から十年さかのぼると、僕は十歳前後の子供で、父親の仕事の関係で広島県の呉にいた。

 呉にいらしたことはありますか、と僕は田中さんに訊いてみた。驚くべきことに、あるよ、俺は呉にいたよ、と田中さんは答えた。占領連合軍の基地で爆弾処理の仕事をしていたという。ふたりが共通して知っている場所がいくつかあった。僕がいつもいた場所から、田中さんがいた場所まで、路線バスと路面電車を乗り継いで、一時間もあれば子供でもいけたはずだ。お前はそんなとこにいたの、と田中さんも驚いていた。ひょっとしたら会ってるよな、と言って田中さんは自分の坊主頭を撫でまわし、困惑したような表情を浮かべていた。

 会ってはいない、と僕は判断した。この人にはどこかで会ったことがある、という思いは、実際に会ったことの記憶から導き出されたものではなく、田中さんがかもし出しているこの感じには親しく覚えがある、というやや抽象的な共感のようなものから、生まれてきているものであることが、僕にはわかったからだ。

 田中さんがかもし出していたあの感じ、とはいったいなになのか。外側からとらえるなら、彼が発散していた雰囲気、というような言葉をあてはめることになるだろう。彼が発散していた雰囲気とは、ではいったいなになのか、という問いはその答えへとすぐにつながる。雰囲気は確かにあった。いつも充分すぎるほどにあった雰囲気だけをとらえて、それを自分が理解する田中さんとしていた人たちは、多いことだろう。

 この感じには親しく覚えがあるとは、自分はその感じをよく知っている、身に覚えがあると言っていいほどに知っている、ということだ。身に覚えがあるとは、どういうことなのか。しかも、覚えのあるそれは、この感じという、きわめて不定形なものでしかない。

 新宿の歌舞伎町やゴールデン街の酒の店に田中さんがいる様子をひと目見るのは、その店のぜんたいに田中さんがじつによくなじんでいる様子を見ることだった。ずっと以前からその店のそこに、そのようにいる人として、田中さんの雰囲気は出来上がっていた。いったんはすべてを受容する、恐ろしいまでに柔軟ななにごとかが、田中さんの内部にはあったのだ、といま僕は書く。受容すればその当然の結果として、よくなじむ。受容したことを田中さんが自分の言葉で言いあらわすとき、内部の田中さんは外部においても田中さんとなった。

 酒の店のカウンターで隣合わせになったとき、

「キャッチ・ア・フォーリング・スターというのは知ってるよな」

 と田中さんは僕に言った。一九五八年のアメリカでヒットした流行歌だ。題名を直訳すれば、落ちて来る星をつかまえろ、となる。

「俺はここから小説を作ったんだよ。日本に駐留してるアメリカ軍にスターという名前の軍曹がいて、地元の飲み屋の日本女性に惚れてね。休みの日にはその店へ通ってくるんだけど、彼女は嫌がってさ、店の裏にある自宅の二階に隠れるんだよ。彼女に会いたいスター軍曹は、その家の屋根にのぼって二階の窓からなかに入ろうとするんだけど、足をすべらせて屋根から落ちていくところを、面白がって見物してた店の客たちが受けとめて、キャッチ・ア・フォーリング・スターだよ。な、面白いだろ」

 僕は笑った。田中さんは坊主頭を撫でまわしていた。この話は短編小説になり、『問題小説』という雑誌に掲載された。

 別のとき、別の酒の店で、カウンターでなぜか隣どうしになったとき、田中さんはいきなり次のように言った。

「お前、英語が出来るだろ。そのお前にいま俺が語るのは、つい先週、俺が伊豆へいったことだ。伊豆の西のほうだな。駅前の道を歩いてたら、万年筆が落ちててね。だから俺はそれを拾ったよ。このことを英語でなんと言うか、お前、言ってみろ」

 英語と日本語を掛け合わせたひと言が答えだ。田中小実昌さんが残した最高の冗談が、いまもなんら変わることなく、ここにある。

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