日本人は闇をどう描いてきたか

第十六回 北野天神縁起絵巻(弘安本) ――怨霊から真理の守護神へ

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第十六回は、錯乱した女房を描いた作品から。

栄華と失脚

 菅原道真(すがわらのみちざね、八四五~九〇三)は、祖父の清公(きよきみ、七七〇~八四二)、父の是善(これよし、八一二~八〇)と、代々文章博士(もんじょうはかせ、古代の教育機関である大学寮の教官)を務める漢学者の家柄に生まれた。自身も、学者、また実務官僚として、宇多天皇(八六七~九三一)および醍醐天皇(八八五~九三〇)の二代に仕え、その信任を得る。寛平六年(八九四)には、道真の建議を受けて遣唐使が廃止されるなど、政治家としても手腕を発揮し、昌泰二年(八九九)には右大臣となる。これは学者の家柄に生まれた者としては、異例の出世であった。
 ところが、朝廷内にこのような道真の存在を快く思わない勢力が形成されていく。藤原北家による他氏排斥が進展する時勢とも相まって、左大臣である藤原時平(ふじわらのときひら、八七一~九〇九)が反道真派の中核となる。彼らは、道真が醍醐天皇を廃すクーデターを企てているかのごとく讒言(ざんげん)し、これに惑わされた天皇は、昌泰四年(九〇一)一月二十五日、道真を大宰権帥(だざいごんのそち)に任じる宣命(せんみょう)を発したのである。
 大宰府へ事実上の左遷となった道真は、失意のまま二年間を過ごし、延喜三年(九〇三)二月二十五日、帰還の願いもむなしくこの地において五十九歳で没した。中流の貴族としては破格の栄華と、急転直下の失脚を経験し、強烈な光と闇の両方を目の当たりにした人生であった。

猛威をふるう怨霊

 この時代、同じような話はいくらでもある。
 貞観八年(八六六)に、応天門の変によって伊豆へ配流となった伴善男の騒動を、若き日の道真も目の当たりにしているはずである。伴善男もまた、実務官僚として地位を上昇させた実力派であった。善男配流の背景には、清和天皇の摂政として政権を掌握しつつあった藤原良房が、古代からの名族である伴氏の影響力を朝廷から一掃する目的もあった。善男の名が、中世説話や「伴大納言絵巻」によってかろうじて現代に伝えられているだけであるように、道真の場合も単に大宰府で没しただけであれば、藤原家興隆の陰で没落した不運な貴族の一人として、歴史の闇に忘れ去られたかもしれない。
 しかし、そうはならなかった。道真の没後、平安京では時平の一門に不慮の災いがたて続けに起こり、延喜九年(九〇九)四月四日には、ついに時平自身が三十九歳の若さで変死する。この出来事を、数年前に大宰府で没した道真の無念と結びつけることは自然な成り行きであろう。
 宮中では断続的に不幸が続く。道真の死後二十年が経過した延喜二十三年(九二三)三月二十一日、醍醐天皇の皇太子である保明(やすあきら)親王が二十一歳の若さで没した。皇族の悲劇は続き、延長三年(九二五)六月十八日には、保明親王没後に皇太子に立っていた慶頼親王(保明の子で、母は時平の娘)が五歳で夭折。醍醐天皇の皇統が次々にこの世を去っていく不吉な空気の中、延長八年(九三〇)六月二十六日には内裏の中枢である清涼殿へ落雷があり、これによる火災で多くの貴族が死傷した。高位の公卿たちが腹や顔を焼かれるという凄惨な出来事であった。
 十世紀を通じて、京都周辺で旱魃(かんばつ)、洪水、大風、地震、火災、疫病、飢饉が断続的に続いている。これらは地球規模の気候変動、日本列島における地震の周期、京都の人口増大など複雑な要因が重なったためと考えられ、その多くが人知を超えた災難である。手のほどこしようのない、とらえどころのない不安や脅威の連続が、大宰府で横死した道真の無念に怨霊という具体的な姿を与えることとなった。
 特に、道真配流の関係者周辺でたて続けに発生する不幸との関連がささやかれ、道真の怨恨に対する都の人々の怖れは、時間とともに沈静化するどころか、肥大化しながらゆっくりと深く浸透していったのである。
 京都の異変は止まず、清涼殿への落雷と同年の九月には疫病が猛威を振るい、ついに醍醐天皇が退位し出家も果たすが、間もなく崩御した。ここに至って、道真怨霊への恐怖は決定的なものとなる。

神となった道真

 政争や戦乱によって無念の死を遂げた者の霊を鎮め、神として祀る御霊信仰(ごりょうしんこう)のはじまりは、九世紀半ばに遡る。貞観五年(八六三)には、宮中にて御霊会(ごりょうえ)が執り行われ、奈良時代末期の政争に巻き込まれて憤死した早良親王(さわらしんのう)らが祀られたことが記録に残る。
 十世紀後半には、道真も御霊として意識されるようになり、京都に祟りをなす道真の怨念を鎮め「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん、天神)」として祀る、北野天満宮が創建される。当初、民間から起こった神社であったが、次第に藤原氏の信仰するところとなり、寛弘元年(一〇〇四)に一条天皇が行幸して以降は、歴代天皇の北野社参詣が恒例となる。
 朝廷内での天神信仰の高まりを背景に、十一世紀末頃から、道真怨霊に関する記事が史書にも頻出するようになる。『扶桑略記(ふそうりゃっき)』では、藤原時平の死にざまを「菅丞相(かんしょうじょう)の霊、白昼、形を顕わし、(時平の)左右の耳より青龍を出す」と、道真の怨霊によって怪異に悩まされた果ての異様なものであったと記している。さらに、『日本紀略(にほんきりゃく)』では、保明親王の死について「菅帥(かんそち)の霊魂、宿忿(しゅくふん)のなせる所なり」と、道真の怨みによるものと言及している。
 およそ二百年の時間をかけて、一人の人物が神格化され、それに伴う物語が歴史の一角に確かに刻まれていったのである。

天神縁起絵巻の成立

 寺院や神社の創建や由緒にまつわる物語を縁起という。あらゆる物事は、過去・現在・未来にまたがる因縁に基づいて起こるという仏教の考え方に基づく寺社縁起は、人間と神仏をつなぐ信仰のよりどころとして、なくてはならないものであった。史実に基づく歴史書であると同時に、平安時代には、霊験譚や奇跡譚をふんだんに盛り込んだ内容へと展開し、やがて絵を伴う縁起絵巻が成立する。不思議な物語を記した詞書と、変幻自在の活躍をする神仏や聖人の姿を目の当たりにすることができる縁起絵巻は、中世を通じて爆発的に流行した。
 天神縁起絵巻も多数制作され、六十点近くの現存が確認されている。
 中でも承久元年(一二一九)に原本が成立したと見られる承久本(京都・北野天満宮所蔵)は、天神縁起絵画化の早い例であると考えられ、「根本縁起」とも称される。絵巻は、道真の生涯にはじまり、死後に京都で起こった数々の怪異と醍醐天皇の崩御、続いて日蔵という僧による六道巡りが描かれている。本来、冥界を巡歴中の日蔵が、地獄に堕ちた醍醐天皇や大政威徳天(だいせいいとくてん)に変じた道真と対面する場面が含まれるはずであるが、承久本は六道巡り場面で唐突に終わっており、続く場面の下描きと思われる白描が付属している。本作は、何らかの事情で、未完のまま制作が中断されたもののようである。
 北野天満宮には、これとは別に、詞書に弘安元年(一二七八)の年号を記す天神縁起絵巻も伝来し、弘安本と通称されている。天満宮には三巻分が現存するが、部分的に流出したようで、東京国立博物館、大東急記念文庫、米国・シアトルアジア美術館に、弘安本の一部と見られる断簡が所蔵されている。
 弘安本の特徴は、天満宮創建以後の霊験譚をふんだんに盛り込み、庶民を含む幅広い層に対する数々の利益が表されていることにある。その内容から、天神に特徴的な霊験として、人の讒言によって窮地に陥ったものを救う力が期待されていたことが浮かび上がってくる。

女房の虚言と狂乱

 ここに掲げたのは、東京国立博物館所蔵「北野天神縁起絵巻(弘安本)」(甲乙二巻)のうち、乙巻に含まれる「仁俊潔白」(図)の場面である。

【図】「北野天神縁起絵巻」(重文、東京国立博物館蔵)
画像出典:日本美術全集8(2015年、小学館)より

 この場面に該当する詞書は、天満宮伝来分に含まれており、下記の内容が記されている。

治部卿通俊卿の子息に、世尊寺の阿闍梨仁俊とて、顕密に貴き僧ありけり。女心ある由を、鳥羽院の女房申し出したりければ、彼の阿闍梨参籠して、
 哀れとも神々ならば思ふらん
 人こそ人の道をたつとも
と詠みたりける時、かの女房、紅袴ばかりを、うつほに着て、手に錫杖(しゃくじょう)を振りて「仁俊にそら事いひつけたるむくひよ」といひて、狂ひ舞ひければ、阿闍梨を招じて、助くべき由仰せられける間、一度慈救呪(じくじゅ)を見てけるに、女房の狂ひ、覚めにける。

 鳥羽上皇に仕えている女房が、藤原通俊(ふじわらのみちとし、一〇四七~九九)の子息で高僧の評判高い仁俊(にんしゅん、生没年不詳)に対して、「女心ある由」つまり女性と関係を持っている破戒僧であるとの讒言をなす。
 これに対して仁俊は、冤罪を晴らすため天満宮に参籠し、さらに「人(の虚言)が私の求道を妨げようとも、(真実を知っておられる)神であれば、私のことを哀れに思ってくださるであろう」との歌を詠んだ。すると、件の女房に神罰が下り、紅の袴だけを身に着け、上半身をあらわにした狂乱の姿で、手に錫杖を持って「仁俊に虚言を申した報いである」と言いながら踊り狂ったのである。鳥羽上皇が仁俊を召して祈禱させたところ、女房の狂乱はおさまり、仁俊の潔白も証明された。画面では、狂乱の女房を前に祈禱する仁俊が描かれている。
 詞書は短く、女房がなぜこのような虚言をなしたのかの理由は記されていない。おそらく、高僧に恋心を抱いた女房が、それを拒絶されることで却って相手を恨んだというような物語の背景が、絵巻の鑑賞者には共有されていたことであろう。
 噓の言葉は恐ろしい。社会の秩序を容易に転覆する力に満ちている。噓か真実かの判断は、究極のところ人知を超えており、中世の日本人は、その判断を神仏に委ねることで「天道が知っている」という社会的モラルを形成した。
 なかんずく、讒言によって無念の死を余儀なくされた道真に、後世の人々が真理の守護神としての役割を期待し、深く信仰したのである。それは、天災から身を守るだけでなく、日常生活の傍らに潜む、言葉という人災に対する中世日本人の防衛策でもあった。

(参考;「北野天神縁起絵巻」は、e国宝サイトで参照することができます。)

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