ちくま新書

ギリシアとローマを比較する

12月刊の桜井万里子・本村凌二『集中講義! ギリシア・ローマ』。それぞれの専門家だからこそ、成立した一冊です。 「はじめに」を公開しますので、ご覧くださいませ。

 本書は、朝日カルチャーセンター新宿校の夏季特別講座として二〇一五年八月六日の午後に受講生の前で行われた対談に端を発する。それが好評だったようで、また講師にもいささか言い足りないことがあるという思いがあったので、第二回目の対談を一一月一二日に実施した。この全二回の講演・対談の原稿をもとに、加筆・修正を加えてこのような新書が出来上がったという次第である。
  本村教授と私はすでに、一九九七年刊行の中央公論新社の『世界の歴史』第五巻『ギリ 〇シアとローマ』を分担執筆している。早いものですでに二年以上もの歳月が過ぎた。その間に古代ギリシア・ローマに関する研究の状況も変化した。本書はその変化を反映させつつ、前掲書が古代ギリシア・ローマ史の概説書という制約を課せられていたのに対し、本書ではより自由な姿勢で対談・執筆に臨むことができた。例えば、最近の国際的な民主主義の劣化と思われる動向との関係で、古代ギリシアの民主政を論じたり、最近の若手研究者の間にみられる研究動向に刺激された結果として弁論(レトリック)の意義に触れたりした。さらに、ギリシアとローマのあいだに比較の視点を導入することによって、解りやすく明快な歴史叙述にすることができたと考えている。
   比較史は歴史の新たな側面に光を当てるという利点がある。本書においても、ローマに比べギリシアが非寛容である、との本村教授の指摘を受けたが、確かにその傾向は否定できず、その意味を考えた。同時に、前五世紀の悲劇全盛の時代の「非寛容」に比べ、弁論が本来内在させている説得の論理は寛容の精神に裏付けられていることを見逃してはならない、と考えもした。こうして前五世紀と前四世紀の時代精神の相違に向き合うことになったのである。では、この相違にはどのような意味があるのだろうか。具体的に史料を通して考えてみた。
   以下にギリシア悲劇のなかでも評価の高いソフォクレス作『アンティゴネー』(前四四一年上演か?)の一部を引いておこう。本論ではできなかった引用によって悲劇の香りをお伝えしたいという思いもあるので……。

 コロス(合唱隊) 不可思議なるものがあまたある中に、
                           人間にまさって不可思議なるものたえてなし、
                          あるいは冬、吹きすさぶ南風に身をさらしつつ、
                          山なすうねりのはざまに漂い、
                          波頭砕ける海原を押し渡る。
                          あるいは神々の中にもことさらに尊き
                          不朽の女神、疲れを知らぬ大地に、
                          来る年も、来る年も、鍬を打ち、
                          馬の子らを追いつつ、
                          女神の胸を悩ましまつる。
                        (11行略)
                         あるいは言葉を用い
                        はやての勢いもて思考をめぐらす術を知り、
                        国を治める気風をみずから習い、
                        空の下に起き伏すには
                        凌ぎがたき霜と、
                        矢と降る雨を
                        避ける術にも事欠かず、
                         まこと、人間は、事に接して窮することなく、
                        不治の病より身をかわす術すら
        よく案ずるにいたりぬ。
        案じ得ざるは、ただひとつ、
        死を逃れる道ならん。
        まこと、技を織りなす
        才知は大方の見込みを越えてなお、
        時には悪、時には善の道を行く。
        国の掟を尊び、神の正義を誓って尊ぶところ
        国は栄え、心おごるゆえに
        見苦しさを敢えて行うところ
        国は滅ぶ。
        願わくは我が一族のうちに
        かかる者のなく、
        またかかる者が
        我らの心の友ともならぬよう。(柳沼重剛訳)

 断固たる人間肯定、確固たる人間賛歌である。それだけに、良きにつけ悪しきにつけ人の進む方向をおし止めることはできないという信念が謳われている。

 しかし、このような人間観は、プラトンの初期の作品である『プロタゴラス』では、以下に引くように変化しているのが認められる。
「むしろ懲らしめの目的は未来にあり、懲らしめを受ける当人自身も、その懲罰を目にするほかの者も、二度とふたたび不正をくり返さないようにするためなのである。そしてそう考えている以上、彼は徳というものを、教育可能のものと考えていることになる。とにかく、悪いことをやめさせようと思えばこそ、懲らしめをあたえるのであるから」(藤沢令夫訳)
 人間は懲罰を受けることで不正を繰り返さなくなる、と教育の可能性が論じられている。前五世紀と前四世紀では人間観に劇的な変化が生じている、と言わざるを得ない。しかも、その変化の契機は、プラトンの師であるソクラテスにあった、とする見方が有力である。ソクラテスは自己の人間観に基づいて行った若者教育を通してアテナイ社会を変化させたのである。前五世紀と前四世紀のあいだに生じたこの変化は、今の私たちの世界にまで影響していると言わざるを得ない。
 この対談によって異文化との接触・比較を試みることで、新たな視界が開けてきたことは、私にとって思いがけない収穫であった。

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