世の中ラボ

【第92回】なぜいま『君たちはどう生きるか』なのか

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2017年12月号より転載。

 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』が売れているという。そりゃまた、なんで!?
 そりゃあ私もこの本は、小学校五年生ではじめて読んで以来(ご多分にもれず、旧制高校世代の父に買い与えられたのである)、折にふれて読み返しもしたし、書く仕事をするようになってからは幾度かネタにもしてきた。だけど八〇年も前の本でっせ。
 調べてみると、ひとつの理由は八月にマガジンハウスから新装版と漫画版が同時発売されたこと。宮崎駿が同名のアニメを制作すると発表したことも、それに拍車をかけたらしい。その余波で岩波文庫版も売れ行きを伸ばしているようで……。
 そういう外形的な理由なら、わからないでもない。
『君たちは……』は、一九三七年に山本有三編纂の「日本少国民文庫」全一六巻(新潮社)の一冊として出版された後、戦後、二度改稿されている。一度目は一九六二年に日本少国民文庫が編集し直されたとき(私が読んだのはこの版)、二度目は一九六七年に『ジュニア版吉野源三郎全集1 君たちはどう生きるか』(ポプラ社)が出版されたときである。一九八二年発行の岩波文庫版、およびマガジンハウスの新装版は初版を底本にしているが、戦後の改稿は作者がこの本に大きな愛着を持っていた証拠だろう。
 読者も同じかもしれない。新装版や漫画版が発売されたのは、いまこそ読む意味がある本と判断されたためにちがいない。それはいったいなぜだったのか。あらためて読み直してみた。

何のために学ぶのか、がモチーフ
〈コペル君は中学二年生です。/ほんとうの名は本田潤一、コペル君というのはあだ名です。年は十五ですが、十五にしては小さい方で、実はコペル君も、かなりそれを気にしています〉。
 これが書きだし。二年ほど前に父を亡くしたコペル君は母と郊外の小さな家に住むが、博覧強記な叔父(母の実弟)がおり、コペルニクスに由来するあだ名を彼につけたのも叔父だった。本は、コペル君を主人公にした物語の間に、この叔父が書きためた「おじさんのノート」を挟み込む形で構成されている。
 物語はコペル君が中学一年生(旧制中学なので満年齢で一三歳)だったころの、ある出来事を中心に展開する。
 コペル君には水谷君という親友がいたが、ある事件を機に北見君と浦川君という新しい友人ができるのだ。
 浦川君は貧しい豆腐屋の息子で、クラスメートに何かといじめられていた。これに怒った北見君がいじめっ子を平手打ちしたことから取っ組み合いとなり、教室は騒然。しかし、浦川君はいったのだ。「北見君、いいんだよ。そんなにしないんでも、いいんだよ。」「ね、後生だ。もう、ゆるしてやっておくれよ。」
 一方、先生にケンカを見とがめられた北見君も「どっちが先に手を出したのか」という先生の問いに「僕です」と答えた。
 北見君の勇気と浦川君の優しさにコペル君は感動。これをキッカケに水谷君も含めた四人は仲良くなり、上級生に睨まれている北見君が殴られそうになったら、みんなで守ろうと誓い合う。
 ところが、冬のある日、コペル君はこの約束を破ってしまった。北見君が上級生に因縁をつけられた際、水谷君と浦川君は北見君に味方したのに、コペル君は出て行けなかったのだ。絶望の淵に沈むコペル君。頭の中には「卑怯者、卑怯者」という声が響く。
〈さっきまではあんなに仲のよかった友だちが、もう永遠に近づけない、よそよそしいものとなって、自分から遠ざかってしまったように思われます。まるで、自分ひとり暗い谷底へ落ちこんで、這いのぼることも出来ない高い崖の下に取り残されてしまったような気持ちです。なんてことを自分はしてしまったんだろう〉。
 コペル君はこの後、ひどい熱を出し、半月も寝込んでしまう。さてコペル君の運命は。そして四人の友情は!
 友情、いじめ、貧しい友、裏切り……。いまでも通用する内容ですよね。事実、かなり端折られてはいるものの、漫画版の『君たちは……』もこのエピソードを中心に構成されている。
 とはいえ『君たちは……』をユニークなものにしているのは、やはり「おじさん」の存在である。コペル君との会話や「おじさんのノート」を通して語られるのは、彼らの周囲に広がる大きな世界についてである。銀座のデパートの屋上から眺めた分子のような人の群れ、天動説と地動説、万有引力を発見したニュートンの話、コペル君が考えた「人間分子の関係、網目の法則」と資本主義下での生産関係の話、ナポレオンの功罪とフランス革命、遠いギリシャとインドと日本をつなぐガンダーラの仏像……。
 同じ時代の別の少年文学と比較すれば、この本の「新しさ」がいっそう際だつ。たとえば、日本少国民文庫の編者でもある山本有三の『路傍の石』。『君たちは……』と同じ一九三七年に大阪朝日新聞で連載がスタートしたが、戦争で中断を余儀なくされ、戦後、改稿されて出版されるも未完に終わった作品である。
 高等小学校に通う主人公の愛川吾一は満一二歳。成績優秀な少年で、新設された中学への進学を熱望していたが、父親の猛反対で断念する。父は愛川家が士族の出であることに強いプライドがあり、定職にもつかず、名誉のかかった裁判にのめり込んで、東京から戻ってこない。当然、一家の家計は火の車。吾一の学費を出してもいいという篤志家の申し出も、援助者が商人であることを理由に断ってしまうのだ。やむなく呉服屋の奉公に入った吾一はしかし、母の病死を機に一念発起。奉公先を飛び出してひとり上京、印刷工場で働きながら、夜学の商業学校に通いはじめる……。
『君たちは……』に比べると、ずっと困難な人生のスタート。物語としても、はるかに波乱に富んでいる。なんだけど、ここで描かれるのはあくまで個人の頑張りで、「社会の中でどう生きるか」を考えさせる『君たちは……』とは方向性が異なるのだ。
 というか、戦前の少年文学は、だいたいみんなこうだった。青少年に勉学と労働の尊さを説くのは福沢諭吉以来の伝統で、だから少年文学の主人公たちはみんな勉強熱心だ。が、多くは立身出世主義に回収され、何のために学ぶのかというモチベーションにまで踏み込むことはめったにない。一九四一年に第一部が出版された下村湖人『次郎物語』しかり。一九二八年に出た佐藤紅緑『ああ玉杯に花うけて』しかり。『路傍の石』もこの域にとどまっている。

「偏狭な国粋主義」に抗うために
 大人になった私は、『君たちは……』に対する「なんだかな」な気分もないわけではない。結局は中産階級の少年たち(少女は除く)のお話よねとか、教養主義的だよなとか、ここで求められているのはつまり「正しい知識人の生き方」でしょ、とか。
 しかし、いまなぜ『君たちは……』かを考えると、一九三七年と二〇一七年に共通する時代の雰囲気が浮かび上がってくるのである。一九三七年は日中開戦の年。日本少国民文庫が企画された背景を、巻末で吉野源三郎は次のように書いている。
〈当時、軍国主義の勃興とともに、すでに言論や出版の自由はいちじるしく制限され、労働運動や社会主義の運動は、凶暴といっていいほどの激しい弾圧を受けていました。山本先生のような自由主義の立場におられた作家でも、一九三五年には、もう自由な執筆が困難となっておられました。その中で先生は、少年少女に訴える余地はまだ残っているし、せめてこの人々だけは、時勢の悪い影響から守りたい、と思い立たれました。(略)この人々には、偏狭な国粋主義や反動的な思想を越えた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかしてつたえておかねばならないし、人類の進歩についての信念をいまのうちに養っておかねばならない、というのでした〉。
 当時の少年少女を取り巻く思想的状況に、山本有三も吉野源三郎も大きな危惧を抱いていたのだ。
 と考えると、「おじさんのノート」はもとより、コペル君たちの物語にも吉野らの思想が反映されていることに気づく。
 北見君に因縁をつけた上級生らは〈愛校心のない学生は、社会に出ては、愛国心のない国民になるにちがいない。愛国心のない人間は非国民である〉という考えの持ち主で、〈われわれは、こういう非国民の卵に制裁を加えなければならぬ〉と主張していた。彼らをいわば国家権力の手先と考えるなら、それに刃向かうのは自由を守る闘いといえるし、コペル君がそこから逃げた行為にもまた別の意味が加わる。北見君といじめっ子のケンカに浦川君が割って入ったのも、国家間の関係に置き換えれば、軍事力(暴力)に頼った解決法に歯止めをかける行為かもしれないのだ。
 山本有三は『路傍の石』を中断するに当たっての苦しい胸のうちを同書に収録された「ペンを折る」(一九四〇年)で次のように明かしている。〈いわゆる時代の線にそうように書こうとすれば、いきおい、わたくしは途中から筆を曲げなければなりません。けれども、筆を曲げて書く勇気は、わたくしにはありません〉。
 ひるがえって二〇一七年。ヘイトスピーチ、安保法制、共謀罪。現在の状況もまた、この時代に似ているといえないだろうか。〈偏狭な国粋主義や反動的な思想〉に対する漠然とした不安が、この本を思い出させ、選ばせている可能性は十分あり得る。
 付け加えると、一九三七年に一三歳だったコペル君たちは、学徒動員の世代に当たる。彼らのような少年たちが六~八年後には戦争に動員されて命を落としたのである。にしても、なんという時代になってしまったのか。偏狭な国粋主義に抗うために、『君たちは……』が求められる時代が来るとは思ってもみなかったよ。

【この記事で紹介された本】

『君たちはどう生きるか』
吉野源三郎、岩波文庫、1982年、970円+税

旧制中学一年生のコペル君とその仲間たちを中心にした物語と、「おじさんのノート」をセットにした歴史的名著。岩波文庫では緑帯(日本文学)ではなく青帯(思想・芸術・哲学など)に分類されている点からも、純粋な小説ではなく、物語を介して人文科学的、社会科学的な物の見方、考え方を学ばせる本だと理解できる。『資本論』との類似などを指摘した丸山真男の解説も秀逸。

『漫画 君たちはどう生きるか』
原作・吉野源三郎/漫画・羽賀翔一、マガジンハウス、2017年、1300円+税

岩波文庫版をもとにした漫画と文字だけの「おじさんのノート」で構成。コペル君の野球の実況中継、コペル君が浦川君の家を訪ねて油揚げが豆腐を揚げたものと知るくだり、水谷君の姉がナポレオンについて振るう弁舌など、原作のチャーミングな逸話が削られているのが残念だが、キャラクターはほぼイメージ通り。ここでは、おじさんが『君たちは……』の執筆者に設定されている。

 

『路傍の石』
山本有三、新潮文庫、1980年、940円+税

 

明治末期を舞台にした少年の成長物語。戦後四度も映画化された人気作品で、特に主人公の吾一が見栄の張り合いから鉄橋の枕木にぶらさがるシーンは有名。自由民権運動あがりで口だけは達者だが生活力ゼロの横暴な父、小学校の担任で文士志望の次野先生。文選工仲間で社会主義者の得次らが語る人生論や国家論も見どころだが、吾一が慕う次野先生が小物なのが、この作品の限界かも。

PR誌ちくま12月号

関連書籍

こちらあみ子
こちらあみ子

斎藤 美奈子

ニッポン沈没 (単行本)

筑摩書房

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入
こちらあみ子

斎藤 美奈子

本の本 (ちくま文庫)

筑摩書房

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入