ちくま新書

名もなき人びとの歴史へ

江戸時代の「大坂」で市井の名もなき人々はどのように生きたのか? どんな仕事をし、どんな人生の荒波にもまれたのか? 12月刊の塚田孝『大坂 民衆の近世史』は、それに迫ります。「序章」を公開致しますので、ぜひお読みください。

†叙勲と褒章
 1年に2回、春(4月29日)と秋(11月3日)に公表される叙勲と褒章は、例年その時期のテレビや新聞をにぎわせる。毎回、4000人余が勲章を受け、700〜800人ほどが褒章を受けている。全国規模のマスコミで取り上げられるのは、多くは著名な政治家や経営者、文化人などである。しかし、地方版の記事や番組などでは、市井に生きる人たちの受章例もよく目にする。
 たとえば、「黄綬褒章」(褒章の一類型)は、「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する方」を対象としている。だから、その道一筋何十年などと紹介される人を目にすることも少なくない。必ずしも著名人ばかりが受章しているというわけではない。こうした叙勲や褒章について、いろいろと見聞きする機会は多い。しかし、それがどのような根拠に基づいているか知る人は、少ないであろう。現在の叙勲は、制度変更を経ながらも、1875(明治8)年の勲章条例が現在に至るまで、その根拠となっている。また褒章も、改正はされているが、1879(明治12)年の褒章条例が根拠となっている。
 このように現在の叙勲も褒章も、明治初期の制度がベースとなっている。このうち勲章
は幕末から明治初期に西洋の制度を導入してできたものである。しかし褒章については、
実は明治初年に始まるということではなく、江戸時代のさまざまな褒賞(記章〔メダル〕
の授与を伴う「褒章」と区別して、褒章条例以前のものを「褒賞」と表記する)とのつながりを考えなければならない。

†孝女こうの褒賞
 江戸時代には、さまざまな褒賞が行われていたが、本書では、当時の人びとの生活を知
るために、親孝行な子供に対する褒賞(孝子褒賞)と奉公先の主人に誠実に仕えた者に対
する褒賞(忠勤褒賞)について、大坂の例を中心に取り上げたい。まずはイメージをつか
んでいただくために、1つ例を紹介しよう。寛政2(1790)年正月18日に大坂市中に出された、次の通達書を読んでほしい。現代語訳で載せる(以下、前後がかな等読みにくい人名には下線を付す)。

 口達書
南問屋町の荒物屋甚兵衛の借屋に住んでいる大和屋卯兵衛の養女であるこうは、養父の卯兵衛の病死後、養母のさわと一緒に燈心作り職を生業としていた。2年前の13歳の時、母も病気で臥せったが、幼年の時から世話になった恩義を忘れず、わずかながらの手仕事で生活を維持し、母を大切に介抱・看病して不自由な思いをさせなかった。さらに母が臨終の際に、燈心作りの家職を続けてほしいと遺言した心中を思い、そうすると約束した。それを聞いた母の喜んだ様子を今も忘れがたく、遺言を固く守っている。そして他人の世話にならず、自分で家職に精を出し、わずかの儲けでもって家賃や買い物の支払いも滞らせることなく家計を賄っている。去年母の一周忌の際も、志の品を各所に配り、命日の前夜には近所の者を招いて回向(えこう)を行い、当日は菩提寺へ斎米(ときまい)などを持参し、追善の法事を行ったことは、幼少の女子にしては奇特の行いである。それ故、今回江戸からのご下知を受けて、ご褒美として白銀20枚を下し置かれる。
右の趣を町中の末端まで申し伝えるように。

 これは、南問屋町の借屋で燈心(行灯の芯)作りを生業としていた大和屋卯兵衛の養女
こうが養父死後も養母を助けて孝養を尽くし、病気となった養母を看病し、さらにその
一周忌に手厚く回向した行いを奇特として褒美が下されたのである。こうは2年前に13歳とあるので、褒賞された寛政2年には15歳である。いまだ年若いこうが家職にいそしみ、母の看病や手厚い供養に努める姿は、健気という他ないであろう。
 後述するが、老中松平定信が主導した寛政改革において、こうした親孝行な子供に対す
る褒賞が全国的に行われるようになった。大坂においては天明5(1785)年に大和屋熊次郎と弟馬之助の褒賞が市中に通達されているが、このこうの褒賞が寛政改革によって推進された褒賞としては最初のケースであった。
 この褒賞の2ヶ月後、大坂と京都の書肆から豹山逸人なる者が書いた『燈心屋孝女伝』
(内題「南問屋町孝子幸女行実」)が出版された。「ことし寛政弐年春正月、摂州西成郡大坂嶋之内南問屋町大和屋卯兵衛養女お幸(こう)、いまだ幼少にして孝行の聞ありて、上より御褒美を賜りし事を委しく尋るに」と書き出し、こうの実父(天王寺村鍛冶屋某)が生後すぐ母を離別し、さらに父も五歳の時に病死したこと、西高津(にしこうづ)町の従妹河内屋某のところで育てられていたところ、大和屋卯兵衛に見初められ11歳の時養女となったことなどが記されている。その後のことは、先ほど引用した褒賞理由書の事歴が詳細に記されるとともに、この褒賞を伝える「御町触」を受けて、評判となり「燈心を買求る人孝女が門に市をなし」(燈心を買おうとする人が、孝女こうの家の門口に大勢集まり)ている様子で結ばれている。
 幼いこうの孝行は人びとの評判を呼び、出版までされたのである。おそらくこの書物を
通してさらに評判となったであろう。
 こうした孝行者についての出版は、天明五年の大和屋熊次郎・馬之助兄弟の事例や、このこうの事例に続く寛政年間で数件見られた。このことから、町奉行所からの褒賞が市中で評判になっていたことがうかがえる。
 出版されてはいないが、その後も大坂では、幕末まで数百件の孝子褒賞・忠勤褒賞が行われ、市中に通達されている。そこには詳しい理由が書かれている事例が多数あり、そこから都市民衆の暮らしの様相をうかがうことができる。

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