武田砂鉄

第2回 人は終電に何を読んでいるのか

電車で本を読んでいる人はいったい何を読んでいるのか──究極の偶然にまかせた読書実態調査は思わぬ発見を運んでくるものだ。逆行する終電車、人もまばらな車内で出くわした「本友」が読んでいたものとは……

 音割れするほど喧しく響く接近メロディは、地元・八王子出身、FUNKY MONKEY BABYSの「ヒーロー」。「最寄り駅の改札抜ければ いつもよりちょっと勇敢なお父さん」と歌うサビの部分が使われているが、京王八王子駅の改札に勇敢なお父さんはいない。お父さんどころか、誰もいない。
 超満員の終電ほど漏れなく不快な場所もないが、その一方で、逆流する終電には、世の流れとも逆流するかのようなアウトサイダーな人種が揃うもの。終電に乗って家路に着くのではなく、むしろどこかへ出かけようとする人たちは、一体どんな本を読むのだろう。新宿行きの終電、23時47分発の特急に乗りこみ、のぞきみを開始する。

兵隊の足並

 この前日、伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』を刊行した政治学者・栗原康とトークイベントを開いた。大正アナキズムに目覚めたきっかけについて、栗原は、遠方の学校に通う高校時代、満員電車に揺られるのが突如としてしんどくなり、その時分に大杉栄「自我の棄脱」と出合い、自分の姿を重ね合わせてしまったんです、と語った。栗原が、その場で大杉の本を開き、朗読を始める。

兵隊のあとについて歩いてゆく。ひとりでに足並が兵隊のそれと揃う。
兵隊の足並は、もとよりそれ自身無意識的なのであるが、われわれの足並をそれと揃わすように強制する。それに逆らうにはほとんど不断の努力を要する。しかもこの努力がやがてはばかばかしい無駄骨折りのように思えてくる。そしてついにわれわれは、強制された足並を、自分の本来の足並だと思うようになる。

 京王八王子駅からの終電は空いている。各車両に数名、その多くが、長い足や短い足を放り出すようにして、スマートフォンをいじっている。親のかたきのように猛烈な勢いで画面を突つきながらシューティングゲームに勤しむ青年を眺めていると、ようやく本を片手にした乗客が高幡不動駅から乗ってきた。読んでいる本を確認しようと向かいの席に移る。歯の隙間に挟まった食べカスを取りたいのだろう、しきりに口を動かしながら「シーシー」と音を立てている。
 初老の男性が手にしているのは、長谷川時雨『旧聞日本橋』(岩波文庫)だ。明治初期の日本橋で暮らす人々を活写した本書は、「ただ忠実に、私の幼少な眼にうつった町の人を記して見るにすぎない」と著者がへりくだる1冊だが、江戸から明治に改まり、「昨日まで土下座の身分の者が、ともかく同等の権利を認められようという」時代の変動を教えてくれる。

 シューティングゲームを止め、なぜか1つだけ持っている信玄餅を手のひらに乗せて撮影、何かしらのSNSに含み笑いで投稿している青年とは打って変わって、初老の男性は、余計な身動きをせずに、引き続きの「シーシー」のみで読みふけっている。後日、『旧聞日本橋』を買い求めると、「チンコッきり」との一節に目を奪われる。煙草の葉を刻む内職、チンコッきり。その仕事は「職人としても好くない」とある。チンコは、陰茎のことではない。賃粉。賃金を得ながら煙草の葉を削る職業であり、落ちこぼれた職業として把握されていたそう。

無規則、無方針、無主張、無主義

 長谷川時雨は婦人解放の文芸誌『女人芸術』の主催者でもあった。寄稿者には神近市子、山川菊栄らの名前もある。奇しくも、若干20歳で雑誌『青鞜』の編纂を平塚らいてうから引き継いだ伊藤野枝の好敵手が並んでいる。神近市子は、愛人だった大杉栄が伊藤野枝に気変わりしたことを受け、日蔭茶屋で大杉を刺傷した。山川菊栄は、廃娼運動などで伊藤野枝と盛んにやりあった。
 栗原とのイベントで、「自我の棄脱」に続くように、こちらは、伊藤野枝が『青鞜』の編集長就任に際して発表した指針を読み上げた。

まず私は今までの青鞜社のすべての規則を取り去ります。青鞜は今後無規則、無方針、無主張無主義です。主義のほしい方規則がなくてはならない方は、各自でおつくりなさるがいい。私はただの何の主義も方針も規則もない雑誌をすべての婦人たちに提供いたします。

 なんとも潔すぎる。伊藤もまた、人と足並を揃えることを嫌った。

 時折すれ違う電車は、押し並べて満員。まさに「強制された足並を、自分の本来の足並だと思うようになる」だ。一方こちらは、まばらな客がそれぞれ「無規則、無方針」に佇んでいて、点在するそれぞれのバラエティを気にかけもしない。高幡不動駅から乗り込んだ男性は、『旧聞日本橋』を手にしたまま、府中駅で降りた。終電車のなか、たった1人だけが本にしがみついていた。目の前の長谷川時雨と昨日の伊藤野枝を繋げる接点が見つかったことを面白がっていたら、自分の最寄り駅に着いた。

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長谷川 時雨

旧聞日本橋 (岩波文庫)

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