日本思想史の名著を読む

第16回 新井白石『西洋紀聞』

シドッチの骨

 思想史に限らず歴史上の人物について、その風貌については詳しくわからない場合が多い。日本に関しては写真が残っているのは徳川末期の開国以後のことであり、それ以前についても、生前に描かれた肖像画が残っているとはかぎらない。
 だが例外的に、重要人物の風貌を立体の復元模型によって知ることのできる例が、近年になって登場した。シチリア島出身で、教皇の命を受け、日本への布教のため宝永五(一七〇八)年八月に屋久島へ上陸した司祭、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ(シドッティ、一六六八年~一七一四年)である。当時の日本はいわゆる「鎖国」政策のもと、キリスト教の布教はきびしく禁じられており、禁教時代に訪れた最後の使節にあたる。
 シドッチは日本に来る途中、マニラで手に入れた和服帯刀の姿で潜入したが、たちまち捕えられ、公儀の監視下に置かれて、翌年に江戸小石川(現、文京区小日向)の切支丹屋敷に移送された。そこに幽閉されたまま、上陸から六年後に没するが、二〇一四(平成二十六)年七月、屋敷跡の発掘調査でその遺骨が発見された。そして文書に遺された身長・年齢の記録と、ミトコンドリアDNA鑑定によって、シドッチその人であることが判明し、国立科学博物館が頭骨を元にして、その顔を復元した立体模型を造ったのである。そのおかげで、歴史上の有名人の立体像に対面できるという、稀有な例が出現した。
 屋久島へ上陸したとき、当時の公方、第五代の徳川綱吉はすでに晩年にあり、その甥、家宣(綱豊から改名)が六代目に就任した直後に、シドッチは江戸へと移送されている。そして家宣は、家臣であった朱子学者、新井白石(明暦三・一六五七年~享保十・一七二五年)に命じ、宝永六(一七〇九)年十一月から翌月にかけて、切支丹屋敷でシドッチの訊問を行なわせる。白石が二度の問答のようすを記録し、みずからの評言を書き加えた短い書物が『西洋紀聞』である。
 この本は、あとで江戸に来訪したオランダ商館長から得た情報も追加して、正徳五(一七一五)年にいったん成立したようであるが、晩年まで手を加えていたことが本文から窺える。自筆本が国立公文書館内閣文庫に収められており、思想史の有名な古典としては、著者自身による原稿が現存する貴重な例でもある(以下、引用は松村明ほか校注『日本思想大系三五 新井白石』岩波書店、一九七五年による)。
 新井白石(本名は君美<きんみ>)は、武士であった父が主君の元を追放されたため浪人となったが、朱子学者としての学識によって家宣の家臣に取り立てられ、旗本となった人物である。シドッチの訊問ののちには、公方のブレーンとして「正徳の治」と呼ばれる政治改革に腕をふるうことになる。林羅山を継承する林家に属していないにもかかわらず、公儀において存分にみずからの政策を提言し、実現する機会にめぐまれた、ほとんど唯一の儒者であった。
 訊問ののち白石が記した「羅馬人処置建議」(村岡典嗣校訂『西洋紀聞』岩波文庫、一九三六年に収録)は、シドッチの処分について上中下と三つの方針を挙げる。「下策」はかつてのキリシタン弾圧の例にならって処刑すること。しかし白石は、シドッチは「蛮夷の俗」のなかで生まれ育ったせいで、「天主教」が邪教であることを知らなかったのだと説き、教皇の命令に忠実に従い、命の危険を顧みずにはるばる日本まで渡航した「志」は評価すべきだとする。白石は二度の対面をへて、その「道徳」はまったく評価できないが、「志の堅きありさま」に感銘を受けたと述べ、この人物を処刑してしまえば「古先聖王の道に遠かるべし」、すなわち人々に憐れみを施す儒学の聖人の道に反すると説いたのである。
 したがって白石が「上策」として挙げたのは、長崎もしくは琉球を経由してシドッチを帰国させ、公儀の禁教政策は変わらないことと、公方の「仁恩」の広さを西洋にも知らせようとする策であった。現実に実行されたのは、白石が「中策」とする幽閉の継続であったが、発掘された遺骨が明らかにするところでは、シドッチの遺体はキリスト教の葬法に従って、身体を伸ばした状態で棺に収められ土葬されている。この処置はあるいは、邪教の信徒ではあっても「志の堅き」人物に対する畏敬を示しているのかもしれない。

「形而下」の学のパフォーマンス

 シドッチは、日本に来たときすでに数え年で四十一歳。シチリア島の貴族の出身で、教皇庁の法律顧問を務めていた。『西洋紀聞』に記された本人の弁によれば、教皇庁での選任(「一国の薦挙」)によって、日本への宣教師となることを教皇(「本師」)から直に命じられ、ローマにいたころから日本語の学習を始めていたという。教会では高い地位にある人物が、周到な準備を経て来日した。対する白石は五十三歳。公方の政策顧問という儒者としては最高の地位についたところである。切支丹屋敷での訊問は、そうした大物どうしの対面の場であった。
 過去に多くの宣教師たちが日本にやってきて長崎で処刑されているが、清国やシャムではすでに禁教を緩めている。したがって現在なら、長崎にとどまらず江戸まで出て、公儀に直接哀願したならば、「恩裁の御事」によって布教を許されるのではないか。それが来日の理由だとシドッチは説いた。大きな危険を冒しながら日本に来たのは「法のため、師のため、其他あるにあらず」というシドッチの言葉を、白石は記録しているが、そこに「志の堅きありさま」を見てとったのであろう。
 この『西洋紀聞』に関してよく強調されるのは、白石がシドッチの「博聞強記」「多学」ぶりに感心し、「天文・地理の事に至ては、企<くはだて>及ぶべからず」と記すくだりである。初めて会見したとき、たまたま白石が同席している奉行所の役人に現在の時間を尋ねたところ、庭に座らされていたシドッチは、太陽の位置と自分の影を観察し、計算して、西洋の時間では何年何月何日の何時何分かをただちに答えた。また世界地図を開いて、ローマはどこにあるかと尋ねたところ、シドッチはコンパスを何度も操作した上で、その位置を指し示した。白石は、キリスト教の「教法」については「一言の道にちかき所もあらず」とまったく評価しなかったものの、「彼方の学のごときは、たゞ其形と器とに精しき」と、天文・地理の「形而下」の事柄に関しては西洋の学問が優れていることを認めたのであった。
 しかし、渡辺浩『日本政治思想史[十七~十九世紀]』(東京大学出版会、二〇一〇年)が指摘するように、このエピソードには不審なところがある。太陽と影だけを見て月日と何時何分までを、日時計もなしに計算するのは不可能であるし、その答が正確かどうかを証明する手段もない。また、世界地理に通じた人物がローマの場所を指し示すのに、コンパスを使って計算する必要はないだろう。これは、公儀の高い地位にある人物を驚かせ、尊敬を得ることによって、何とか布教の許可へとつなげようとする作戦だったと思われる。『西洋紀聞』の記述に見るかぎりでは、白石も、同席していた奉行所の役人たちも、そのはったりには気づいていなかった。

東と西の対決

 他方で、「形而上」の道理や人間世界の「教法」「道徳」に関することでは、白石は鋭く考察をめぐらせ、シドッチの矛盾を指摘する。最初の会見は十一月で、もう寒い季節であった。奉行所の役人がシドッチに上着を与えようとしたところ、異教徒の物はもらわないのが「教戒」だと言って断った。そして、自分はもはやどこにも逃げようがないのだから、番人たちが休めるように、せめて夜間だけは自分を拘禁しておいて、監視の必要がないようにしてほしいと依頼したのである。
 役人たちはこの言葉に感心したが、白石は手きびしい。「此ものはおもふにも似ぬ、いつはりあるものかな」と一刀両断するのである。監視役の役人がシドッチを大事にするのは、あくまでも「おほやけ」の命令を重んじて、そのために細心の注意を払おうとするからにほかならない。そうした彼らの「うれへおもひ給ふ所」を理解せず、自分の信仰(「法」)を優先して上着の着用を拒むことと、番人たちに対して親切な態度をとりたいと言うこととは、矛盾するではないか。――これを聞いてシドッチは恥じ、上着を受け取ることを受け入れたが、それでもせめて贅沢な絹ではなく、木綿の類にしてほしいと求めたのだった。
 おそらくシドッチが片言の日本語を操ることができ、またオランダ通詞の役人たちが補佐したおかげで、徳川時代の日本には珍しい、西洋と日本の知識人の、正面からの対決の場が生まれたのである。シドッチは、「試<こころみ>に物を観るに、其始<はじめ>皆善ならずといふ事なし」と言った上で、「天地の気、歳日の運、万物の生」はみな「東方」から始まるのだから、ユーラシア大陸から見て東の端にある日本は「万国にこえすぐれ」た国だと、あからさまなお世辞を口にするが、白石はまったくとりあわない。
 このシドッチの発言について白石が記すのは、創造主である「天主」への信仰を、父への孝や主君への忠といった道徳よりも優先させ、人間関係におけるモラルを顧みない、キリスト教に対する批判である。「もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐての二尊、国におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし」。キリスト教の神への信仰が、現世における権威を相対化し否定してしまうという批判は、白石に限らず、徳川時代におけるキリスト教批判の論理として、しばしば見られるものである。だがそれに加えて、シドッチが日本をほめると同時に、キリスト教圏ではローマを「尊び敬はずといふ所なし」と語っているところに、矛盾を見いだしていたのだろう。
 ただし、シチリアとローマで十六の学問を学んだというシドッチの知識の全体について、白石が本格的な吟味を加えたわけではない。また、もし長い時間をかけて二人が対話を続けたとしても、両者がそれぞれの信じる「教法」の正しさを疑うには至らなかっただろうと思われる。だが、異文化圏からの来訪者に対して、その発言に真摯に耳を傾け、その内部にある矛盾を見いだすまでに、深く理解しようとする態度。『西洋紀聞』は、徳川時代における西洋研究の出発点として評価されるが、そうした態度がのちの時代の日本人の異文化理解の方法に、どれだけ継承されていったのか。まじめに考えるべき主題だろう。

 

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