ちくま文庫

毅然たる飄然さ
『田中小実昌ベスト・エッセイ』書評

 

 どのエッセイを読んでも、そして(この本には載っていないけれど)「ポロポロ」などの小説作品を読んでも、飄然という言葉が浮かぶ。そして同時に、時代も感じる。

 八二年生まれの私は、残念ながら、その時代に文筆にとどまらず活躍していた田中小実昌の姿をほとんど見ていない。今は、この人の文章から感じるような飄々とした気風を表している人はあまりいないように思う。言葉を発する時に「飄然としていること」が難しくなったのかもしれない。大勢につかず、といって明確なアンチを表明するのでもない。そういうスタンスの人は今も世間にはたくさんいるはずだが、極端な意見が喧しくなれば中庸さや曖昧さはどんどん見えにくくなる。中庸さや曖昧さに留まることは、優柔不断とかどっちつかずということではなく、ある信条や主義と同等にすべき、ひとつの態度だ。田中小実昌の飄然とはまさにそのことで、本書を読むと、この書き手の現実や言葉に対するどこにつくわけでない態度が、しかし常に毅然としていたことも、よくわかる。

 Ⅰ部は「ひと」「おんな」「旅」「映画」などテーマごとに構成され、Ⅱ部では出征し大陸に渡った際のことや、終戦後東京の繁華街やアメリカ軍基地で過ごした頃のことを書いたものが、時代を追うように並ぶ。

 とりわけ戦争中の回想記でこの〈毅然たる飄然さ〉が際立つ。

 戦争体験の悲惨さや苦しさが悲愴に語られることが間違っているとは思わないが、その体験のすべてが悲愴一色に語られ、そして聞かれてしまうのは、勿体ないことでもあると思う。しかし私たちは何かを語る時にそんなにフラットにものを語れるわけではなくて、つらさや悲しさが語りたいことの中心ならば、それを強調し、それ以外の情報を省略して語り、伝えようとしてしまいがちだ。そういう物語性や予定調和な情緒を徹底的に拒み、物事を一色に染めないのが田中小実昌の語り方で、ということはどうなるかというと、つらさ悲しさの渦中にある時こそ、それとは反対の方へと目が向けられる。

 たとえば出征後、入営先の山口から釜山へと移動し、そこから浦口までの長い長い鉄道での移動がつらかった、と書きつつ、「そんなことよりも」と山口の聯隊で脱走疑惑をかけられた顛末や、ようやくたどりついた浦口で見た揚子江が思ったほどの大河でなくがっかりした、という話をはじめてしまう。あるいは南京で脳炎が流行し同じ分隊の仲間を何人もなくしたことを語りつつ、その地を離れる朝に少尉の訓示を聴きながら、雪のなかでさかりがついて追いかけっこをしている豚を見て「春だなあ」と思ったことなどを語ってしまう。

 過酷な状況のなか、しかしたしかにあった呑気さや間抜けさ。その忘れがたさは、しかし語りにくさと一体でもある。そして田中小実昌はそれをこそ語ろうとする。どんなに忘れがたい光景も、語られなければ忘れてしまい、話は過酷さや悲惨さ一色になろうとするからだ。それに抗い、語りにくい対象を忘れがたさと適切に結びつけることで、「忘れがたさ」ははじめて「忘れがたさ」となり、かつまた読み手は単色だった過酷さや悲惨さが持つ複雑な色彩に気づくことになる。それができるのは、この書き手が世界や人間に対してとてもフェアであり、言葉を用いること、言葉で何かを語ることにかんして真摯だからだ。

「言葉がりっぱになり、美しくなるのは、ぼくにはいやなことだ」という印象的な一文がある(「言葉の顔」)。「オーサー」か「ライター」かというアメリカでの肩書きについての短い稿だが、田中は「ライター」と呼ばれる方を好み、「オーサー」は「権威ありげ」で嫌だと言う。

 立派で美しい言葉につかず、自身の愛したゴールデン街の夜みたいに雑多で複雑で、しばしば出鱈目な世界の語りにくさにつくこと。それは文芸が本領とすべきところに違いなく、ならばこの飄然から学ぶべきことは今なお多い。

 

 

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