ちくま文庫

論理の徹底、笑いの爆発、現実の露呈

『戦闘破壊学園ダンゲロス』文庫版解説

藤田直哉さんは、架神恭介さんの『戦闘破壊学園ダンゲロス』をどう読んだのか。5月刊のちくま文庫より解説を公開します。

1
 徹底した論理と、バカバカしさの同居。この見事さ。
 それは、論理的に徹底するがゆえに生まれるバカバカしさでもあり、バカバカしいものをこそ論理的に徹底することで生まれるユーモアでもある。
 いや、そもそも、人間や世界すら、バカバカしいものであるという達観した認識にまでぼくたちを導く。しかし、それは祝祭的で、そのような存在である人間そのものを肯定しているようなユーモアもある。だが、同時に、このような世界を丸ごとを突破してしまいたいという強烈な破壊と否定の衝動にも満ちている。
 怪作である。同時に、快作である。
 あなたが本編を既に読み終わってからこの解説を読んでいるのか、読む前に立ち読みなどで読んでいるのかわからないが、既に読み終わったなら、面白さは存分に味わっただろうから、ぼくが特に何かを言う必要はないだろう。まだ読んでいない方なら、これから初めて読む楽しみがあるということで、うらやましい。本作の面白さは、保証します。これだけの分厚い文庫本で尻込みしているかもしれませんが、一気に読めるので安心してほしい。

 この作品のジャンルを簡単に紹介するとすれば、「学園異能バトルもの」に一応は分類されるだろう「学園異能バトルもの」とは、学校を舞台に、特殊能力を持った人たちが戦いあう作品の類型を指す「異能バトル」とは『ジョジョの奇妙な冒険』(荒木飛呂彦)がその典型だが、様々な特殊能力を持ったキャラクターたちが、様々な組み合わせや作戦で戦うのを楽しむものである。宇野常寛によれば、このような類型が流行しているのは、一時期のジャンプ漫画のように、トーナメントで「最強」を目指すような高度成長時代の「大きな物語」の時代が終わったからである。一元的な能力である頂点を目指す戦いをするのではなく、様々な能力者同士が生き残りを賭けて戦うのが、ポストモダンかつ新自由主義の現在の社会・経済・労働環境などと適合しているというわけだ。
「学園」もまた、この時代を象徴するエンターテイメントの類型であると呼ばれることが多い。宇宙やら冒険やら、地球の滅亡やらの「デカイ」エンターテイメントが流行してきた時代と比較すると、学校を舞台にした小さな人間関係を描くタイプの作品が多いことは明らかである。その理由に、「社会全体が学校化した」とか「関係性に社会全体の関心がシフトした」「エンターテイ メントの基盤にできる共通体験が学校ぐらいしかなくなった」などの説が挙げられることが多いが、どの説が有力なのかはまだ定まっていないようである。
 こう説明すると、「なんだ、流行に乗っかった何匹目かのドジョウの作品か」とあなたは思うだろう。それは正しい。
 ただし、このドジョウは、その「流行」自体を破綻に追い込むような、悪意に満ちたドジョウなのである
 では、このドジョウは、どんなドジョウか。
 それを知るためには、作者・架神恭介のこれまでの作風を追う必要がある。
 彼は、これまで、ベストセラーとなった鶴見済『完全自殺マニュアル』のタイトルをパクった『完全パンクマニュアル』『完全教祖マニュアル』『完全覇道マニュアル』を書き、岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』が流行ったら『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』を書いてしまう、便乗商法の名人である。
 もちろん、この世には、単なる「便乗商法」は無数にある。それ自体が悪いわけでもない。資本主義の運命である。
 架神恭介が行っているのは、むしろ、「便乗商法」のパロディ、コピー品の露悪的なコピーのようなものである。
 売れているマニュアル本、自己啓発本、ビジネス本などの体裁を採り、その内容や構造を皮肉にパロディ化し、便乗商法という出版の苦しい懐事情自体も嘲弄しながら、その中に教育的で啓 蒙的で思想的な毒を盛り込もうとする。
 古き良きパロディ、古き良きアイロニーの戦略を、作品の中だけではなく、出版業界全体の文脈の中で行っている知的で巧妙な作家、それが架神恭介である。
 かつて、アヴァンギャルド(前衛)が、ポップ(大衆文化)の中で生き残れない状況が嘆かれたことがあった。そこで、ラリイ・マキャフリイという人物が「アヴァン・ポップ」という概念を作り、「添い寝して刺せ」ということを言った。資本主義や流行と同衾したフリをして、夜中にナイフで刺し殺してしまえということである。本作のやろうとしていることは、それを思い出させる。「売れる」ため、「生き残る」ために、流行に擬態して、自分の言いたい毒をこっそり混ぜる。
 そうすることで、自分にそれを「強いる」何かを極限にまで持っていってぶち壊してしまうような、限界にまで追い詰めていくような、そんなエネルギーに満ち満ちているのが本作である。
 本作は、「学園異能バトル」を極限にまで追い詰め、自壊させ、その先はもうない、というところにまで追い詰めにかかっている。このドジョウは、どうもそういうことをしかねない、凶暴なドジョウであるようだ。


2
 先に「古き良きアイロニーの戦略」と書いた。
 これは、柄谷行人の言う「アイロニー」の概念を踏まえている。「脱構築」とほぼ同一意味で使われるこの言葉は、ある体系の中で論理を徹底させることで、矛盾に追い詰め、自壊させてしまうということを意味する。
 本作には、そのような意味で、「学園異能バトル」というジャンルの限界まで突っ走っていってしまい自壊に至る瞬間が見事に現れている。
 この「論理性」の徹底こそ、本作の最大の美徳である。
 凡百の少年漫画であれば主人公が追い詰められると、なんかよくわからないパワーが目覚めたり、想いの力でなんとかなったりするが、本作ではそういうことは起こらない(続編『飛行迷宮学園ダンゲロス』では、そういう能力を持ったキャラクターが出てきて、茶化される)。「魔人」という超能力を持つ人物たち、『転校生』と呼ばれるさらなる力を持った存在、そして一般人たちが戦うが、どんなキャラクターでも、法則/能力の作動を免れることはない。ゲームのルールは冷徹に作動する。「設定」自体は非現実的だが、作動は厳密である。
 それぞれ違う能力や特性を持っているキャラクターたちが、勝ち、生き残るあらゆる手段を模索する。戦争と同じで、手段は問わないのだ。その「手段」の選択肢・可能性の考えられ方が練りに練られている点が素晴らしい。ぼくたち読者が蓄えてきた物語のパターンの裏をかく展開がそれによって可能になっている。
 このような内容を可能にしたのは、「ダンゲロス」が元々は、オンライン上で行われていたウォーシミュレーションのゲームであったことによる( http://www34.atwiki.jp/hellowd/)。「ダンゲロス」はプレイヤーが参加して、数週間でキャラクターを作り、戦略を練って、一日3~5ターンぐらいプレイし、それが数日続く、というタイプのゲームである。本作に出てくるキャラクターは参加者によって作られたものであり、物語内容も実際のプレイを参考にしている部分がある(TRPG業界では、ゲームプレイを元に小説化したものを「リプレイ」と呼ぶが、本作にもリプレイ的な性質がある)。
 インターネットで行われていたという性質上、そこにはふざけ半分の参加者が多く来るわけだが、このゲームがスタートした当時はまだ、インターネットにとっても「古き良きアナーキー」の時代だったように思われる。
 現在のような、炎上や、集団リンチや、自宅まで突き止めてしまうほど「悪ふざけ」が激化していない時――まだ「悪ふざけ」が、ネット内での猥雑な祝祭性に寄与していただけで済んでいた時代。「制御された悪ノリ」のようなものが実現し、「集合知」という言葉にもまだ期待ができていた時――
 およそ悪ノリで作られたようなキャラクターや能力たちが、「ルール内ではあるが、思いつかないようなやり方」で戦う本作に、「集合知」の夢の残滓を嗅ぎ取るのは、ぼくだけではないだろう。
 たとえば、「ぴちぴちビッチ」という能力を持つ女子高生・鏡子は、なんと手コキで、射精に至らせるか至らせないかギリギリの状態で至福の性的快楽を与える能力を持っている。バカバカしい悪ふざけみたいなキャラクターと能力ではないか。しかし、それがちゃんと物語的に意味をなすのである(この解説の筆者であるぼくと、本書の担当編集は、打ち合わせで「鏡子ちゃんいいっす よねー」などと話していた。マジでバカである)。
「ハルマゲドン」という作中の言葉にも、何かネットの祝祭性と関連した「懐かしさ」をどうしても覚えてしまう。パソコン通信でのリアルタイムのやりとりと新聞連載を連動させた筒井康隆の『朝のガスパール』『電脳筒井線』では、悪ふざけを行う人たちが増加し、「ハルマゲドン」が起こると後半では参加者が騒いでいた。
 2ちゃんねる的なノリを小説に導入した舞城王太郎も『阿修羅ガール』の中で、祝祭的な暴力の発露を「アルマゲドン」と読んでいた(余談だが、異能バトルものを論理的に徹底して自壊させる別の極限的な作品に、舞城の『JORGE JOESTAR』がある。本作とは徹底の方向性や、「枠」の扱いなどに違いが見られて興味深いのだが、ここでは比較を展開する紙幅はないので、示唆に留める)。
 ダンゲロスにおける「ハルマゲドン」には、そのような、インターネットにおける祝祭性の、ワクワクするニュアンスが残っている。
 二〇一〇年代以降のネット環境では、このような祝祭性、ハルマゲドン、集合知、悪ふざけなどが、九〇年代からゼロ年代のネットユーザーの心理において内的連関を持っていたことが実感を持って理解されにくくなってくると思うので、ここに一つの証言として記しておく。

3
 さて、本作における「論理の徹底」の意義について、もう少し別の側面から解説してみたい。
 ぼくの理解では、架神恭介は、「露悪的なやさしさ」と、「教育的なバカバカしさ」というアイ ロニカルなテクニックを用いながらも、本質的には啓蒙家であり、伝道師である。もちろん、本作もそのような側面のある作品である。
 これについては、これまでの彼の著作も参照してみるのが早い。
 たとえば、辰巳一世との共作である『よいこの君主論』。これはマキャベリを用いて、統治する側の視点から人間管理をする方法を露悪的に書く。日本人が思考することを嫌う「マキャベリズム」を、学校のクラスを舞台に、生々しく理解させてくれる。
 あるいは、同じく辰巳一世との共著である『完全教祖マニュアル』では、日本人がなんとなく深く考えることのない「宗教」というものを、ろくに信仰心も神秘体験もしたことのないぼくたちに、人間を統治したり精神を安定させるためのテクニックとして、ロジカルかつ涜神的に説明してくれる。
『仁義なきキリスト教史』では、日本人にはわかりにくいキリスト教の「信仰」やセクト争いの歴史を、ヤクザにおける仁義や抗争に置き換えてわかりやすく説明してくれる。
 これらの作品は、社会学者の橋爪大三郎が『世界がわかる宗教社会学入門』や、大澤真幸との共著『ふしぎなキリスト教』で行った仕事を、より世俗的で大衆的で、マンガが好きそうな読者にまでリーチできるように行った試みのように思われる。エリートの集まりであった「小乗仏教」ではなく、それを「方便」を用いて民衆に布教し救済しようとした「大乗仏教」の姿勢なのだ。
 ここで言う「方便」とは、本稿冒頭の言葉で言えば「流行」のことである。自己啓発本やマニュアル本の体裁などを採ることで、そうしなければリーチできない人たちに、重要なことを教えてくださるのだ。
 なんとありがたいことであろうか、なんとおやさしいことであろうか。
 本作も、エロとヴァイオレンスに満ちた山田風太郎リスペクトのエンターテイメントの「方便」を採りながらも、本質はありがたい、現代を生きるための啓示なのである。
 わたくしめのような、下衆で下品な欲望に満ちた衆生には、このような暴力やエロに満ちたエンターテイメントは、面白くて仕方がないのであります。

「勉強」や「啓蒙」などといわれると、「めんどくせ」「やなこった」となるのが、人情である。
 しかし、本作は、面白がっているだけで、自然に学べるようにできている。
 学べるのは、論理的に考えることの大切さと、面白さである。
 いくら弱っちくても、たいした能力がなくても、しっかり戦略・戦術を練って冷静に行動すれば生き残れるかもしれない。あらゆる可能性を無意識に排除せずに選択肢として浮上させることで、思わぬ道が見つかるかもしれない。
 そして見つかったら、躊躇わずに実行すること。感情や情緒で曖昧にしないこと。
 なかなか難しいことではある。しかし、学校という過酷な環境で生き延びるためには、それが重要なのではないか。
 学校だけではない。ろくに身体能力がなく、容姿にも恵まれていない弱い存在とは、世界における日本という国家のことと考えても良い。資源にも恵まれないこの小さな国は、かつては非合理な精神主義で隣国を侵略したり竹やりでB-29を落とそうとしたり爆弾を持って自爆テロをしたりしてしまった。
 論理的な思考や、意思決定を行うのを阻害する様々な要因に満ち満ちたこの国の「思考」のOSを根底的に、民衆のレベルから変えていこうとするのが、架神恭介のミッションなのではないか。
 そもそも、「架」の「神」などと、十字架に張り付けられたキリストのような厚顔無恥な名前を名乗ってしまうような人間である。露悪的にマキャベリズムや宗教の手口を解説すれば、日本社会の精神的風土からして、石を投げられて追いやられるぐらいのことはわかっているのだろう。
 わかっていながらも、「空気」や「無意識」が思考にバイアスをかけて生まれる「盲点」「裏側」を衝きつけ続けることをやめることができない。それは、悪戯心でもあるだろうし、真摯な非難でもあるし、警告でもある(こういうことを、キリストもやったし、道化師もやっていた)。
 露悪的で、論理的で、啓蒙的でありながら、ユーモラスで猥雑でもあるこのような作品を「書き続けてしまう」ことの、業というか、使命感というか、ある種の恭しさというものが、確かにここにはある。

 そんな彼の、小説としての最高傑作が本作である。以降に出版された『ダンゲロス1969』や『戦慄怪奇学園ダンゲロス』『ダンゲロス・ベースボール』などと比べても、本作の徹底度と破壊度はずば抜けている。まずは本作からダンゲロス・ワールドに入門するのがいいだろう(インチキ実用書の傑作『よいこの君主論』もオススメする)。

4
 最後に、本作の「リアリティ」について、触れておきたい。
 荒唐無稽な設定と展開で「ゲーム的」な小説を現実と関係のない小説であると低く評価する「リアリズム至上主義者」もいるだろうが、それは誤解である。本作はきっちりとリアリティと切り結んでいる作品なのだ。以下、その点について指摘しておきたい。
 筆者は今「解説」と称してエラソーなことを書いているが、鏡子ちゃんが好きだし、「はわわ~」とジタバタする番長に胸がキュンキュンしてしまうのである(ちなみに、「はわわ」は架神作品に頻出する重要単語である。誰か全文検索で出現頻度などを分析すると良い)。
 こんなあざとい設定に、あざとくてもちゃんと引っかかる自分の脳のダメさを自覚させられる。
 これが重要なのである。
 スラヴォイ・ジジェクは、『イデオロギーの崇高な対象』で、シニシズムを「本当はそれが嘘である事を知っている。しかしだからこそ、彼等はそれを信じるふりをやめられない」と定義した。だが、ぼくらが生きている世界は「本当はそれがあざとい虚構であることは分かっている。だけれど、そんな事情とは関係なく、脳に快楽が生じてしまう」という、身も蓋もない世界であり、これはジジェクが現代社会を分析して言うシニシズムというものとはちょっと違う。脳に対するダイレクトなハッキングのようなものだ。
 それは、虚構であるとわかっている。実在しないキャラクターであるとわかっている。しかし、脳は反応する。
 脳は、刺激のインプットに対して、それが外部から来たものなのか内部から来たものなのかを区別するのがあまり上手ではない。内から来た刺激と、外から来た刺激をよく取り違える。「どこからの刺激か?」を検討する能力を「現実検討能力」と呼ぶが、これが機能しなくなってくると、いわゆる病的な妄想の状態に陥る。
 ぼくらは、現実と虚構を、ある程度は区別できるが、ある程度は区別できないような生を生きている。それは「ゲーム脳」とか、「統合失調症」になっているということではない。脳というものの本質的な検討能力の限界に関係している。現代ではこれを利用して脳科学やポジティヴ心理学を応用した「脳内報酬系などへの刺激」を与えることが文化産業の中心的な役割となってくる。ソーシャルゲームなどで目当てのキャラが手に入ったときの快楽、パチンコでフィーバーしたときなどを想像してもらえばいい。それはゲームだけではない。SNSなどの「いいね!」の数で喜びを得させるなどの形で、社会の様々な領域に実装されている。
 そのような、脳科学的な操作の対象としてぼくたちは生きている。自分自身の「意志」や「自由」を疑わせるような管理や操作の技術が存在していることも知っている(使う側として知ることもあるし、使われる側として知ることもある)。
 人間を、ロジカルな操作の対象として扱うこと自体は、政治学や経済学などではありふれたことである。コンピューターができてからは、シミュレーターの精度も上がった。社会学、心理学、 脳科学などの発達により、人間の集団を「モデル化」する精度も上がったし、それらのシミュレーションの結果を現実に応用し、成功を収めている。たとえば、ショッピングモールの動線の設計などがそうだ。
 ぼくたちが、「ゲーム」というモデルに、自己のリアリティを投影しがちになるのは、そのような環境の変化と関係しているのではないだろうか。既にぼくたちが、ルールの上で動いている「コマ」のようなものとして扱われ、そのことが無意識に自覚されているから、作中人物たちへの感情移入の度合いが高まっているのではないだろうか。そして、そのことへの意識的・無意識レベルでの「不満」があるがゆえに、「ゲームのルール」を徹底することで自壊に導く本作の物語に心躍らせるのではないか。
 そして何より、「論理の徹底」という本作の「啓蒙的」「思想的」な側面こそが、私たちのリアリティと決定的に切り結ぶのは、「思考しないようにしている」盲点を衝いてくるからだ。
 東日本大震災以降の私たちのリアリティは、「想定外」のことが「起きる」ということを知っている。「安全神話」は、現実に起きたことを想定していなかった。少年漫画の主人公のように自分には「起きないはずだ」という思い込みが、論理を超えて言説を支配していたようだ。そして、事故が起き、危機が訪れても、少年漫画のように、奇跡の力が目覚めることもなく、物理法則に従って淡々と対策の戦術・戦略を練る必要に駆られている。震災前の原発に関する日本の支配的な理解のパターンは、「現実検討能力」を欠いており、論理的に考えればありえる可能性を、妄想的にないことにしてしまっていたのだ。
 本作が2011年2月に発表されたというのは、偶然に過ぎない。が、本作が批判し、警鐘を鳴らし続けてきたことが、より身に迫って感じられるような状態に、ぼくたちの感性は変化したのではないか。
「想定可能」なはずなのに様々なものを「想定外」にしてしまっているぼくたちの認識の盲点を衝くという構造。論理的に可能性や選択肢を網羅していけば思考から抜け落ちるはずがないのに、「なんとなく」「ジャンルの慣習で」思考しない領域が自分自身にあることを、作品の展開で次々と思い知らされ、反省させられ、突きつけられる。それこそが、「リアリティ」を生じさせている。その構造そのものが、ぼくたちが、現実で体験してしまった世界体験と、よく似ているからだ。
 荒唐無稽な設定とキャラクターによる「単なる虚構」だが、この世界と、人間のことを書いているように感じられるのは、この効果である。本作が虚構を経由することで、単なるリアリズムでは到達することの困難な「リアル」に迫りえているのは間違いがない。その上で、その世界をさらに突破してしまおうという「衝動そのもの」こそが、新しい世界のあり方を求めている現代のぼくたちを、共感の震えに誘うのだ。

2016年5月12日更新

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藤田 直哉(ふじた なおや)

藤田 直哉

1983年生まれ。SF・文芸評論家。博士(学術)。二松学舎大学、和光大学非常勤講師。著書に『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』『文化亡国論』がある。

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