日本人は闇をどう描いてきたか

第十八回 道成寺縁起 ――毒蛇になった女

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第十八回は、紀州に伝わる惨劇から。

追う女と逃げる男

 何かから必死で逃げる夢を見た朝の、夢であったと安堵の気持ちに入り混じる、胸の奥がこわばるような感覚は、「追われる」ことが、人間にとって本能的な恐怖であることを教えてくれる。
 絵解きの寺として名高い和歌山県道成寺(どうじょうじ)に、「道成寺縁起」という名の、室町時代につくられた絵巻が伝来している。後世には能の「道成寺」や歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)」へも展開し、今日でも「安珍・清姫」として語り継がれる馴染み深い伝説を主題とする絵巻である。
 自分を騙した男を追って、瞋恚(しんい)のあまり毒蛇となって日高川を渡り、最後には、道成寺の鐘の中に逃げ込んだ男を我が身と鐘ごと焼き尽くす女の妄執の物語。絵巻の中で、蛇体となった女に追われる男の姿を見るたびに、私には逃げる夢の感覚がよみがえってきて、息が詰まるような、背後から急き立てられるような怖さが迫ってくる。

道成寺をめぐる説話と縁起

 物語の舞台は、延長六年(九二八)八月の頃、紀伊国室郡(牟婁郡、むろのこおり)にある真砂(まなご)という土地。現在の和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)に、この地名が残っている。中辺路とは、紀伊半島を横断して熊野本宮大社へ至る巡礼の道で、いわゆる熊野古道の中でもとりわけ山深い。真砂は、京阪から海沿いを南下してきた旅人が、いよいよ中辺路へ足を踏み入れるその入り口に位置している。ここから先は、清浄なる霊域でもあった。
 絵巻は、熊野参詣を目指す、年若く見目能(みめよ)き僧がこの地を訪れるところから始まる。僧は、清次庄司(きよつぐのしょうじ)という男の家に投宿した。ところが、夜中に清次の女房が僧のもとへ添い伏して、一夜の契りを迫った。困り果てた僧は、「長年の宿願であった熊野参詣を果たした後、下向の際には仰せに従いましょう」と、その場限りの言い逃れを弄して宿を発った。
 日数を経て、女は衣類や食物を用意して僧の帰りを待つが一向に訪れる気配がない。上り下りの旅人たちに尋ねたところ、熊野へ向かう途上のある先達(せんだつ、熊野参詣の先導者)が、「そのような人は、すでに通り過ぎてしまったようだ」との情報をもたらした。若い僧に謀(たばか)られたことを知った女は、「さては、すかしにけり(騙されたのだ)」と怒り叫びながら、鳥が飛ぶように駆け出した。
 この物語の原型ともいうべき説話が、長久年間(一〇四〇~四四)に比叡山横川(よかわ)の天台僧・鎮源(ちんげん)が編纂した『本朝法華験記(ほんちょうほっけげんき)』に、第百二十九話「紀伊国牟婁郡悪女」として採録されている。説話の成立は、さらにさかのぼって十世紀後半頃と推定される。同じ頃、観音霊場として寺勢を増しつつあった道成寺にまつわる霊験譚が、その後も長らく語り継がれて寺院縁起の一部に組み込まれ、室町時代に縁起絵巻として集大成されたものであろう。

スピード感あふれる画中詞

 再び絵巻を見てみよう。怒りに我を忘れて駆け出した後の女が怖い。髪を振り乱し、着ていた被衣(かずき)の裾をめくりあげ、ひたすらに男を追う(図1)。

【図1】「道成寺縁起」上巻より
画像出典:道成寺と日高川――道成寺縁起と流域の宗教文化――(2017年、和歌山県立博物館)より

 この絵巻には、通常の詞書とは別に、絵の中に画中詞がある。これは、登場人物のセリフ、感情、状況などの説明を行うための工夫で、中世絵巻にしばしば見られる。機能としては、漫画の吹き出しに近い。ここに掲げた場面には、以下のような画中詞が記されている。

あなあな口惜しや、いちどでも、われ、此(この)法師めを取つめざらん限(かぎり)は、心はゆくまじき物を。能程(よくほど)の時こそ、恥もなにもかなしけれ。うらなしも、おもてなしも、うせふ方へうせよ。

 この僧を捕まえることなしには気持ちがおさまらない女の口惜しさが、口語を交えた画中詞特有の臨場感をともなって、読む者の共感を誘う。こんな際には恥もなにもない。「うらなしも、おもてなしも」失われたってかまうものか――。
 ここに出てくる「うらなし」とは、裏に別材をあてない粗末な草履のことを言うが、これに対する「おもてなし」の意味が実はよくわからない。裏と表の語呂合わせで草履の左右を指す、あるいは「面なし(おもなし:恥ずかしい)」との語呂合わせで「草履も恥も捨ててしまえ」との意味にも解釈できる。こういった臨機応変の言葉遊びも交えたテンポの良さが画中詞の魅力である。描かれた女の姿をよく見ると、実際に左足の草履が脱げてしまっている。また、長い距離をここまで走りに走って来たのだと、履き潰されて毛羽立った草履が雄弁に物語っている。
 さらに、すれ違う旅人たちが「ここなる女房のけしき、御覧候へ」「誠にも、あなあなをそろしの気色や」などと噂しあって、女を指差し、場面を賑やかに盛り上げている。鑑賞者は、絵と画中詞を同時に読みときながら、非常な速さで展開していく物語に引き込まれるであろう。絵の中の女が駆けていくスピード感を追体験することとなり、逃げる男の側に立てば、今にも追いつかれてしまうとの恐怖が募る。まさに手に汗握る気持ちで右から左へと絵巻をスクロールする。

聖地巡礼

 女は、眼前に現れた切目川(きりめがわ)を、構わずに裸足で渡る。牟婁郡からこの川への距離は、山道で五〇キロほど、海岸沿いの道を行くと四〇キロほどで、いずれにせよ現代人の足では移動に十時間以上かかる。絵巻では、川のほとりに、熊野参詣の巡礼地のひとつである切目五体王子(きりめごたいおうじ)社が描かれており、現実の巡礼路を再現したかのような場面選択に、中世の鑑賞者たちは熊野参詣への憧れもかき立てられたことだろう。
 女は巡礼の道をあたかも逆走するように北上し、日高川の手前、上野に至ってとうとう目指す僧の姿を見つける。なおも、「人違いだ」と苦しい逃げ口上を吐きながら逃げる男を、髪は逆立ち、蛇のような顔つきになって口から炎を吐く女が「やるまじき物を」と追い詰める。次の場面で、女は上半身が青い鱗の毒蛇、下半身が白い人間のままというグロテスクな異形に変化する。そして、日高川を船で渡ろうとする僧を追って、完全に蛇体となってしまった女が水に飛び込むのである。川岸には、人間であった時の女が身につけていた被衣が、あたかも蛇の抜け殻のように脱ぎ捨ててあった。

道成寺の観音信仰と熊野の阿弥陀信仰

 この先の展開は、能「道成寺」などの芸能とも重なる。
 日高川のほとりの道成寺に逃げ込んだ若い僧を、同寺の僧らが一計を案じて大鐘の中に隠すが、蛇体となった女はこの鐘に巻き付いて龍頭(りゅうず)を咥え、尾で鐘を叩きながら火焔を噴き上げた(図2)。

【図2】「道成寺縁起」下巻より
画像出典:道成寺と日高川――道成寺縁起と流域の宗教文化――(2017年、和歌山県立博物館)より

 三時間ほど燃え続けた後、毒蛇は両目から血の涙を流してもと来た方向へ去っていったが、鐘の中には、黒焦げになった僧の骸骨のみが残されていた。
 この惨劇を引き起こした女の妄執を、詞書では「女人地獄使、能断仏種子、外面似菩薩、内面如夜叉(女人は地獄の使いで、仏の種子を断ってしまう、外面は菩薩に似るが、内面は夜叉の如し)」と厳しく非難する。女性は貴賤にかかわらず嫉妬心の強いものであるので、発心の妨げであると説くのである。仏教における女人罪障観を端的に表した言葉であるが、現存する経典にはこれと一致する表現を見出すことができない。一方で、治承年間(一一七七~八一)に平康頼(たいらのやすより、一一四六~一二二〇)が編纂した仏教説話集の『宝物集』巻四には同様の言い回しがあり、どうやら中世初頭の日本で成立した説話を通じて人口に膾炙していたようである。
 詞書の末尾では、この絵巻を見た者は必ず熊野権現の利益を得るであろうと寿がれ、さらに、阿弥陀如来の念仏を十遍、観音菩薩の名号を三十三遍唱えることが勧められている。阿弥陀は熊野権現の本地仏、観音は道成寺の本尊である。中世末期に成立したこの縁起絵巻の特質は、道成寺という一寺院の霊験譚が、熊野という、より大きな信仰のトポスに接続されることで一層の普遍性を獲得している点にある。紀伊半島を巡礼する人々の長い歴史が、各地に点在する説話を語り継ぎ結びつけ、熊野文化圏ともいうべき広域の宗教ネットワークを包括する物語へと成長した。それが道成寺縁起である。
 一方、絵巻の画面には、さらに、このようなあさましい行いをした女とその犠牲となった僧に対する救済譚が続く。
 ある日、道成寺の老僧の夢に二匹の蛇が現れた。これは件の女と僧で、悪縁によって蛇の夫婦に転生してしまったので、法華経の供養をして後生を弔って欲しいと訴えた。道成寺では、総力を挙げて法華経の写経供養を行うと、今度は老僧の夢に二人の天人が現れ、法華経供養のおかげで、女は忉利天(とうりてん)に、僧は都率天(とそつてん)に各々生まれ変わることができたと告げた。縁起には、救済への回路が不可欠でもある。詞書では尽くされていなかった後日譚を、絵と画中詞が生き生きと語り継ぐ。さまざまな楽器で編成される交響曲を聞くような豊かな余韻の残る、室町絵巻の傑作がここにある。

道成寺縁起を見た将軍

 この絵巻には、もう一つの後日譚がある。天正元年(一五七三)、織田信長との抗争に敗れた最後の室町将軍、第十五代足利義昭(一五三七~九七)は、紀伊国由良の興国寺に仮寓していた。年も暮れゆく十二月、義昭はこの絵巻を道成寺より取り寄せ閲覧し、花押を記している。そしてこの閲覧時に義昭が「日本無双之縁起」と激賞したことが、後日寺僧によって記録され、その一文は今日も絵巻の下巻巻末に附属している。室町幕府崩壊という失意の中、都を遠く離れた場所でこの絵巻を繰った義昭の心中に去来するものは何であったのか。初代尊氏以来、各地の寺社の霊威を取り込みながら拡張した室町幕府の再生を、日本最大の霊域ともいうべき紀伊半島の片隅で夢想していたのかもしれない。

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