ちくま文庫

「三島由紀夫と楯の会事件」解説
保阪正康『三島由紀夫と楯の会事件』解説

三島由紀夫事件と楯の会を冷静に描いた名著を、当時、いわゆる右翼学生運動の立場にいた鈴木邦男が解説する。

 あの事件から四十七年が経つ。今でも、「新資料発見!」などというニュースが新聞に出る。また、「楯の会」会員だった人を含め三島の近くにいた人びとの書いた本が毎年のように出ている。保阪のこの本でも触れているが、安藤武編著『三島由紀夫全文献目録』によれば、三島由紀夫関係の文献は六千点以上に及ぶという。三島や楯の会について書かれた著作類は毎年三十冊近くは刊行されているという。膨大な数だ。この安藤の本が出たのは二〇〇〇年だ。とすると、今では「三島関係の文献」はさらに増えている。これだけ書かれた作家は他にいないし、作家が起こした〈事件〉について、これだけ書かれた例もない。
 さらに、「今、三島が生きていたら何を言うだろう」「この事態についてどう思うだろうか」と思い出されることがある。だから三島は何十年たっても常に我々とともにいる。楯の会の会員の中には「あの時」で時計が止まってしまった人もいる。「一緒に決起するはずだった」「なぜ俺は連れて行ってもらえなかったのか」と嘆き、三島を恨んでいる人もいる。事件に関係しない一般の人だって、あの事件のことはよく覚えている。十七年前のことなのに鮮明に覚えているのだ。あの日で時計が止まった人もいる。あの日から生活が変わった人もいる。強烈な思いと、問いかけを突きつけられて生きてきた人もいる。僕もそうだ。
 それほど重要な事件であるのに呼び方は一致していない。たしかに一般的には「三島事件」と呼ばれている。外国で報道される際もそう書かれている。でも、そう書くことによっては事件やその後の影響が見えてこない、そう思う人がいる。この本の著者、保阪正康もそうだ。また、何よりも三島自身がそう呼ばれることを嫌い恐れた。世界的な大作家としてあまりにも有名な三島だったからこそ、この事件は「三島事件」として歴史に残る、そのことを三島は予測していた。予測していたから、「でも違う」と最後まで叫び続けていた。当日、ともに決起した楯の会の小賀正義にあてた「命令書」にはこう書かれている。
 〈今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凜烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。〉
 最後の一行は三島の血の叫びだ。これは三島事件ではない、と言っている。もし、森田ら楯の会会員の参加がなかったら、「三島事件」とも呼ばれなかっただろう。憂国の志をもつ「一作家の自殺」として報じられただろう。それを〈事件〉にし、その後も多くの人々に強く影響を与えたのは森田らの参加だった。いや、参加ではない。森田らが提案し、突き上げた面も多い。四十五歳の高名な作家が二十五歳の青年に「ともに死のう」と声はかけられない。森田のほうから言い出し、最後の最後まで三島は「森田、お前は生きれ!」と叫んでいた。その三島の声を跳ね返し森田は自決した。そしてあの事件は完結した。だからあれは「三島事件」ではない。「三島・森田事件」と言う人もいる。むしろ、「森田事件」とまで言う人もいる。保阪は「楯の会事件」と書いた。
 決起については、楯の会の人間はほとんどが知らされなかった。そして全員が参加を熱望したはずの事件だ。「楯の会事件」という命名には彼らの思いがこめられている。保阪がそう表現することで、楯の会会員たちも口を開き取材に協力したのだ。もっともそんな目論見があってつけたのではないだろう。
 この本は楯の会会員だった倉持(本多)清の話から始まり、最後には、やはり会員だった阿部勉のことが出てくる。阿部と保阪のやり取りは単なる取材ではない。人間と人間のぶつかり合いだ。膵臓がんにおかされ末期だった阿部は、保阪と最後の別れを覚悟した酒を酌み交わす。
 「先輩、今生ではいろいろありがとうございました」と阿部は言う。「そうか、あんたも死ぬのか」と保阪はつぶやく。そして別れの場面だ。保阪を見送るため、阿部はタクシーを止めた。
 〈私が車に乗りこむと、阿部氏は丁寧に一礼し、握手を求めた。瘠せた手であった。私は車の中から振り返って阿部氏を見つめた。和服姿の阿部氏が、手を振り、そして軽く一した。笑顔であった。風が吹いて和服が少しはだけた。阿部氏のその姿が闇の中に浮かんでいるように私には思えた。
 それから一カ月ほどあと、阿部氏は静かに逝ったと聞かされた。〉
 この場面は何度読んでも涙が出る。阿部と保阪の優しさと強さがにじみ出る場面だ。楯の会には真面目で優秀な男たちが沢山いた。森田必勝、持丸博、阿部勉……と亡くなった人もいる。保阪は阿部の才能を評価し惜しんでいた。
 〈阿部氏のとぎすまされた感性は私にはすぐれているように思え、「あなたは運動家かもしれないが、文筆をおやりになったらどうか。小説など書けばいいではないか。そういう方面で必ず一人前になると思うけれど」となんども勧めた。「だめですよ、机にむかうというのはできませんよ」と苦笑いを浮べたりもした。〉
 こんなに阿部のことを思い、気にかけてくれていたのだと、僕はありがたいと思った。実はその後の〈新右翼〉といわれる運動をつくったのは阿部なのだ。「三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」という、三島の命令書に従って、阿部は森田必勝を追悼・顕彰する「野分祭」を執り行うことになる。「野分祭」とは森田の辞世からとって名付けた。そして昔の仲間たちを集めて「一水会」をつくった。綱領・規約などは彼がつくった。最初の事務所は下北沢の阿部のアパートだった。当然、阿部が代表になるはずなのに、謙虚な彼は「年長だから」と僕に会長を譲り、自らは副会長になった。優秀な男だった。僕は世話になりっぱなしだった。その男を保阪は愛し気にかけてくれていたのだ。
 この本はあの事件を語るうえで第一級のドキュメンタリーである。そして素晴らしい
文学である。
 三島が政治に目覚め、楯の会をつくるきっかけとなったのは、一般には二・二六事件だと言われているが、しかし違う。五・一五事件との類似を保阪は指摘する。戦前の農本主義者の橘孝三郎は農民決死隊を率いて五・一五事件に参加する。保阪は戦前の国家改造運動の中でも、橘に注目し直接本人に取材している。そして「楯の会事件」を戦後の一つの事件として「点」ではなく、先んじた運動との「線」で昭和史の流れの中にとらえている。その正確さ、厳しさは他の書き手にはない。三島や事件に関する本が何千冊と出ようと、これを超える本はないだろう。「楯の会事件」についてはこの一冊を読めば全てが分かる。そして、その後は自分で頭で考えろ、そう言っている本である。

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