脇田玲

第12回:僕らはテクノロジーとどう向き合っていくべきか

技術の本性を問いなおす

いま「ラボ」や「リサーチ」を冠した組織が、アフターインターネット時代のビジョンを作りあげつつある。彼らはスピード感と軽やかさを武器に、新しい技術の可能性を社会に問い続けているのだ。ラボやリサーチをイノベーションの駆動力とする「ラボドリブン社会」とはどのようなものか。ビジネスからアートまで、最先端の現場からラボの新しい姿を解き明かす。

テクノロジーとの向き合いかた

2016年に連載を開始した本コラムも今回で12回目。その時々の出来事に呼応しながら、私なりのラボ論を展開してきた。最終回となる今回は全ての回に関連するテーマ、テクノロジーとの向き合いかたについて思うところを書きたい。そして、特にこれからの社会を作っていく20〜30代の若い人に向けてこのコラムを書くことにする。

デジタルメディアはテクノロジーと深く関わる領域だ。この分野のエンジニアや研究者は最新技術を生み出し続け、デザイナーはその技術を積極的に設計に組み込み、政策立案者は技術を社会で効果的に活用するために社会の仕組みを作る。マスメディアは連日のように魅力的な新技術の誕生を報じ、新技術を用いたスタートアップの生態系はかつてないほど活性化し、書店には技術とイノベーションの書籍が山積みになっている。この領域に関わる人々の多くは技術を好意的に捉えているように見える。

私には彼らを否定するつもりはない。しかし、諸手を挙げて技術を礼賛する前に、我々はその本性を知っておくべきではなかろうか。技術の本性を知った上で、それでも技術と向き合わざるを得ないのが人間という生き物であると認識すること。そこをなおざりにして、知的好奇心に任せて研究に邁進したり、バズワードからビジネスを動かそうとするのは愚かである。

偉そうなことを言っている私も、かつては技術が大好きな青年だった。学生の頃は新しい情報技術を積極的に学ぶことに喜びを感じていたし、エンジニアとして働いていた20代、大学で働き始めた30代までは、技術こそが停滞した日本を良い方向に切り開いていくと信じていた。今になって思えば、ガムシャラに技術と向き合った若い頃があったからこそ、現在の私がいるのは事実ではあるが、一方でもしそのまま技術の本性について深く考えることなく現在に至っていたら、そして技術を盲信したまま、50代、60代を生きていくことになっていたならばと考えるとゾッとするのだ。なので、くどいようだが、これから書く内容はこれから社会を作っていく若い人に向けてのメッセージだ。


「技術の正体」はどのようなものか

ハイデガー研究で知られる哲学者の木田元は『技術の正体』(デコ、2013年)で以下のような技術論を展開している。我々は学校で、科学とは理性の産物であり、人類の偉大な叡智である、と教えられてきた。科学は冷静な観察から得られた純粋な知恵であり、実利とは無関係なものだ。それを実生活に応用し、実利を求めたものが技術である。その意味で、間接的ではあるが、技術も理性から生まれたものと言える。人間の理性が生み出したものである以上、技術は理性で制御できるはずだ。しかし、それは本当だろうか。科学が技術を生んだのではなく、先に技術というものが存在し、それが大きく発育していく過程で、科学を生み出したのではなかろうか。さらに言えば、技術は人間よりも起源の古いもので、人間が技術を作り出したのではなく、むしろ技術が人間を人間たらしめたのではなかろうか。類人猿と人類の違いを見ればそれは明らかではなかろうか。


この木田元の技術論は今から25年前に書かれたもので、それは東日本大震災とそれに伴う原発事故よりも随分と前のことだ。3.11以後に再注目され、現在は単行本も出版されている。技術とは人間が理性によって作り出したものではなく、むしろ人間よりも起源の古いものであり、人間に寄生し、さらには己を肥大化するために科学を作り出したというのだ。生命のように自己運動を続ける技術の姿は不気味なものであるが、同様の技術観を持っている識者は少なくない。


世代を超えて生き延びる「利己的なテクノロジー」

WIREDの初代編集長として知られるケヴィン・ケリーも、生物学的な技術観を『テクニウムーーテクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房、2014年)の中で述べている。テクノロジーを個体レベルの分断された存在ではなく、相互に有機的に関係する生態系(ケヴィン・ケリーはそれをテクニウムと呼んでいる)として捉えると、これまでの技術の進歩が納得いく形で説明できると主張している。テクノロジーは生命と同様な形で進化していくし、あるテクロノジーは別のテクノロジーを自己生成しさえする。長期の生命進化に照らし合わせて比較してみると、生命に大きな進化が起きる時は「進化の起こり方自体」が変化している時期であることが知られているが、同様に文化が大きく変わる時、「アイデアの作り方自体」が大きく変化していることが人類学的に知られている。かつて、生物学者リチャード・ドーキンスは遺伝子は何を望んでいるのかという視点から利己的遺伝子説を提案し、生命の個体は遺伝子の乗り物にすぎないと提示した。同様にケヴィン・ケリーはテクノロジーは何を求めているのかという問いから、利己的テクノロジーという説を提唱している。そして木田元と同様に「我々人類はテクノロジーによって定義される」と考えている。

ケヴィン・ケリーはテクノロジーをポジティブに捉えて歓迎している一方で、木田元はやや冷静な立場をとっている点は異なるが、人間に寄生しながら世代を超えて生き延びていく利己的なテクノロジー観はとても似ている。


技術とは人間の野生の一つである

木田やケリーが哲学者や作家という立場からテクノロジーの正体を捉えたのに対して、私個人はコンピュータサイエンティスト(特に計算幾何学やシミュレーションが専門)、そしてアーティストという立場から技術の本質について考え続けてきた。そして、自分自身でも失敗を経験しながら技術を実用化していく立場でもあるため、前述した二人と比べて、やや身体的というか肉化された技術観を持っている。それはすなわち、「技術とは人間の野生の一つではないか」という説だ。人間個体に寄生した技術は、我々の身体のかなり深い部分にまで入り込んでおり、本能のレベルから我々をつき動かそうとしているのではなかろうか。

野生をどう捉えるか、様々な考え方があると思う。人類学者のクロード・レヴィ=ストロースは、『野生の思考』(みすず書房、1976年)において、未開人にも文明人の思考とは異なる種類の精緻な思考体系が存在すると主張している。これはかなり高度な野生の捉え方であるが、ここではもっと素朴に「人間が未開の地で文明、文化、教育といったものを伴わないで生きている状態」を野生として考えてみたい。文字通り、野に生まれたままの状態だ。人は生き延びるために何でも食べるだろう。人々はたえず威嚇しあい、争いは絶えないだろう。

しかし、人間は野生を解放しているだけでは良く生きられないことに気がついた。生肉にかぶりつくのではなく、調理された料理をナイフとフォークで食べる文化を作り出してきた。初対面であっても(表向きは)相手を尊重し礼儀を重んじる作法を作り出してきた。言い換えれば、人間は自身の中の野生を少しずつ飼いならしてきたのだ。それこそが現代人としての存在証明である(残念ながら、野生を完全に飼いならすことは誰にもできないだろう)。

野生のままだと社会がうまく回らないから、人間はマナーやルールといったものを作り、野生を適度に抑える仕組みを作り出してきた。しかし、技術という名の野生については、まだ十分に飼いならすことができずにいる。野に生まれた時から現在まで、技術を際限なく作り出し、際限なく使い続けている。しかし、それを飼いならさなければ、良く生きられないことが顕在化しているのが現在ではなかろうか。


自分の技術観を作り出す大切さ

技術とは何かと問うと、一般的に返ってくる答えは道具論的なものが多い。川の流れを見て、それが水車に使えるとか、洗濯に使えるといった視点、つまり道具的視点を我々は安易に持ってしまう。一方で、その川の水の最初の一滴はどこから始まるか、川が海に至り、様々な生物の体を通過し、この地球上を循環しているという自然への眼差しには至りにくい。しかし、そこに至らなければ、技術の本質は見えてこないだろう。便利な道具として技術を見ている限り、いつまでも技術を礼賛し続けることになりかねない。

それで良いではないか、という意見もあろう。しかし、自分なりに技術の本質を見抜いた後で、それでもあえて技術を使うのと、深く思考することもなく技術を便利な道具として使い続けることは、全く異なる現象が起きているのだ。一方は、自身の中で自己運動を続ける技術と向き合う行為であり、もう一方は自身の中で技術の増殖を無自覚のうちに助けていることになる。我々の見えないところで技術はお互いに影響を与え会い、進化と自己複製を進めていく。それが飼いならされた範囲であるのか、危険なレベルを超えてしまうのか、私たち自身の精神の問題である。

大切なことは、先人の技術観を取り込みながら、自分自身の技術観を考え続け、技術と向き合い続けることだ。もしある種の結論に至り、それで世界の見方が一新するようであれば、それを悟りと言ってもよいだろう。技術の本質を悟った研究者、エンジニア、デザイナー、政策立案者、ジャーナリストが一人でも増えることを祈りつつ、本コラムを締めくくりたい。

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