人生につける薬

第3回 なぜ私がこんな目に?
ストーリーの気分

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

 ストーリーが滑らかになったとき、「わかった」気がする


 前後関係を因果関係だと思ってしまうことを、「前後即因果の誤謬」と呼びます。人間の脳はつい、これをしてしまいます。
 18世紀英国の哲学者ヒュームが指摘したとおり、人間は、時間のなかで前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性を持っています。
 また20世紀フランスの批評家ロラン・バルトは、この前後即因果の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」だ、とまで言いました。
 できごとの因果関係が納得できるものであるとき、人間はそのできごとを「わかった」と思ってしまうらしいのです。

 「わかる」というと知性の問題だと思うかもしれません。
 しかし、上記のように考えてくると、「わかる」と思う気持ちは感情以外のなにものでもないのです。脳科学者・山鳥重(あつし)は、つぎのように書いています。

〈わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます〉(『「わかる」とはどういうことか 認識の脳科学』)

 ということは、

〈「わかった気になる」と「わかる」とのあいだには本質的な線引きが出来ない〉(佐々木敦『ニッポンの思想』)

ということにもなります。

「地球温暖化は、××のせいだ」
「自分がモテないのは、××のせいだ」
「××だから、凶悪犯罪が起こる」
「××だから、日本経済がこのような事態に立ち至った」

 それらの「から」「せい」は、正しいかもしれない。間違っているかもしれないのです。

「ストーリー」は、人間の脳の認知の枠組

 世界をストーリー形式の(story-like)枠組で認知・解釈してしまう傾向は、脳にとって必然的な性質であり、ときには「生きていくのに必要なこと」でさえあります。
 けれど、脳にとって必然的・本能的なことが、その脳の持ち主や、持ち主が住む社会にとって、つねに「よい」ことであるとはかぎりません。

 私たちはいつも単純明快な答えを求めてしまいます。ストーリーが滑らかで「わかりやすく」感じるとき、そのストーリーが──ひいては、自分の左脳のインタープリターが──「ただの前後関係」や「ただの相関関係」を「因果関係」にこっそりスライドさせている可能性があります。
 生きていくうえでいろんなことの原因・理由がはっきりしているほうがラクなので、脳はその説明についすがってしまいます。

 そういう意味で、ストーリーの形をしたものはしばしば危険でもあるのです。
 安心して生きられるような「安定した世界把握」それ自体が、少し長い目で見ると、危険を孕んでいることもある。

 「説明が正しいかどうか」よりも、また「その問いが妥当かどうか」よりも、私たちの脳はともすると、「説明があるかどうか」のほうを重視してしまう。
 ストーリーでそこを強引に説明してしまうことがあるのです。

 説明とは、そのままでは未知にとどまってしまうものを分解して、自分がすでに知っているものの集合体へと帰着させてしまうということです。

「わかった」という麻薬的体験

 こういったわけで、「わか(った気にな)る」ことはときに、お手軽な説明とセットであることがあるので要注意です。
「あなたが不本意な状況にあるのは、お墓を掃除していないからだ」
と霊能者に言われて、言われるがままご先祖のお墓を掃除するだけなら、それはいいことです。お墓がきれいになるのはいいことですからね。
 でも、勧められるまま、印鑑や壺などの高価な霊能グッズを買ってしまう人もいます。

 「わからない」が続くということは、ばあいによっては苦しいことです。
 その反対に、左脳のインタープリターが作り出す説明は「納得した感」という感情を与えます。「わかった」には、麻薬的な気持ちよさがあるのです。
 繰り返しますが、「わかる」とは、知性というよりは、感情の問題だからです。

 自分はできごとの原因や仕組みを知らないと思うと、不安という感情が生まれます。「ただ自分が不愉快な目に遭う。理由は不明」だと、たんに不愉快なだけでなく、左脳のインタープリターが不安まで掻き立ててしまう。
 いっぽう、自分は知っていると思うと、安心感が生まれます。たとえ、
「自分が不本意な状況にあるのは、特定の人たちに有利なふうに世の中が設計されているからだ」
というような、怒りを掻き立てるストーリーでも、ないよりは「安心」なのです。
 優遇されている「特定の人たち」は、「そこに自分が含まれない集団」であればなんでも入ります。貴族、富裕な資本家、白人、ユダヤ人、列強諸国、男、女、子ども、老人、既婚者、未婚者、子持ち、子なし、美人、イケメン……。

 「わからない」から逃れたいと思う人が、そういうストーリーにすがって狂信的な宗教に入信したり、世論操作の得意な好戦的な政治家に投票したり、といったことが起こります。

 第1回で僕は、人間は〈ストーリーを使って自分を救ったり、逆に苦しめたりすることがある〉と書きました。
 では上記の、
「自分が不本意な状況にあるのは、特定の人たちに有利なふうに世の中が設計されているからだ」
のような麻薬的な説明で「わかった」感を得ることは、自分を救うことになるのでしょうか? それとも、自分を苦しめていることになるのでしょうか?
 いますぐにここで、答えを出すことはしません。僕自身のことや周囲の人たちのことを思い浮かべて、この連載を書きながら少しずつ考えていこうと思っています。

不本意なことに注目してしまう脳

「自分が不愉快な状況にあるのは、特定の人たちに有利なふうに世の中が設計されているからだ」
というストーリー的な説明が起こるのは、人間が、
「なぜ自分は不本意な状況にあるのか?」
と問うからです。

 電車の乗換情報を調べるためにスマートフォンを使おうとして、どこにもつながらないとき、僕は、
「なぜ?」=「なぜ自分は不本意な状況にあるのか?」
と問い、自分が電波の圏外にいることがわかると、原因がわかって納得します。
 いっぽう、思ったとおりにスマートフォンが機能して、無事に目的を達成したばあい、
「なぜ(自分は思いどおりに目的を達成できたのか)?」
とは問いません。

 半世紀以上前ですが、クレイジーキャッツというグループに「どうしてこんなにもてるんだろう」(萩原哲晶作詞)という歌がありました。メンバーの植木等が映画『日本一の色男』のなかでモテモテになったときに歌うんじゃなかったかな。
 でもじっさいには人間は、
「どうして『あいつはあんなにもてる』んだろう」→「どうして『自分はもてない』んだろう」
と問うことのほうが多いのです。

 「自分の都合どおりに運ぶこと」は、好もしいことですよね。
 その反対で、「不本意なこと」は、厭なことです。
 だれしも「不本意なこと」は嫌いです。人間だけでなく、動物もそれは同じです。
 人間を含む動物は、ラッキーなことよりアンラッキーなことを強く記憶に刻みますし、チャンスを期待する以上にリスクを恐れて生きています。
 つまり僕らは、よくないことに注意が偏る生き物だということです。この傾向を「ネガティヴィティバイアス」と言います。

 脳にとって、ネガティヴ情報の入力刺戟はポジティヴ情報の入力刺戟よりも強く作動します。
 宝くじで下2桁を当てて5等賞金3,000円もらったとしても、同じ日に1,000円落としたら、落とした1,000円のことをくよくよ考えてしまうわけですよ。

ストーリーは「問題─解決」図式で動く

 だから、「ストーリー」の出発点は、主人公が不本意な状況であるということが多いのです。 
 主人公が不本意な状況にあると、ストーリーの聴き手・読み手の脳は、主人公あるいは他の人物がその状況にたいして解決に乗り出すことを、期待してしまいます。問題解決が失敗するか成功するかは、また別問題ですが。
 ストーリーというものはしばしば、「問題(=不本意な状況)─解決」の図式のなかで動き出すのです。

 ここで大事なのは、じっさいの現実生活では、人は不本意を認識していたとしても、必ずしも解決には乗り出さない、ということです。
 同じことは、小説なんかでもそうですね。小説の主人公は、不本意な状況の解決に乗り出すとは限らない。
 そして、小説というものは必ずしも「問題─解決」図式で動くわけではないということを、小説の読者である僕は知っています。
 「僕」は知っているけれど、「僕の脳」はじつは、どこかで「問題─解決」図式を期待しています。
 「問題─解決」図式を期待する脳の働きは、お腹がすくとか眠くなるとかいった、知識や意志では制禦できない不随意な(というか、受動的な)ものだということです。