ちくま新書

「思考の枠」から、跳び出すには?

お笑い芸人や建築家の思考を探ることで、「クリエイティブ」であるためには「体感」が重要なのではないかという仮説を検証していき、そして、一般の人々がどうしたら創造的になれるのかというヒントを見つけます。AIにはまだできていない、人間だけの能力とは何か。意欲的な新書の「はじめに」を公開します。

「クリエイティブ」。なんと魅惑的な響きだろうか! 誰もがそうありたいと願う、知のありようである。「あなたの仕事、クリエイティブだったね」なんて言われたら、天にも昇る心地になる。
 クリエイティブであるとは、どういうことか? そうなるためにどんなマインドセットで事に臨めばよいのか? 数々の問いが、哲学や心理学をはじめ、認知科学、人工知能など、人の知能を解明せんとする学問分野で、昔から、リサーチ・クエスチョンとして取り上げられてきたが、いまだ謎に包まれたままである。
 クリエイティブであるための方法(how)はわからないのに、私たちの身体は、ときどきクリエイティブなパフォーマンスをやってのけてしまう。また、クリエイティブなパフォーマンスに接すると、それを「クリエイティブだ」と見分けることができる。
 実行力も見分ける力も持っているのに、それをやってのけるhowについての認識は持ち合わせていない。「クリエイティブである」という知は、まさに暗黙知である。
 私も、クリエイティブの謎に惹かれ、自らそうありたいと願う者の一人である。日常に転がる事例を対象にして、クリエイティブという知の謎に風穴を開けたいと探究を続けてきた。暗黙知だけに探究は一筋縄ではいかないし、既存の研究方法論に縛られていては深く探究することはできない。クリエイティブに関わりそうだと直感するものごとは、まな板に載せて、私なりに包丁を入れてみたりしてきた。本書はそういう一研究者の思考回路を開示するものである。
 本書では、クリエイティブな知の代表格として「お笑い」の例を数多く取りあげている。例えば、漫才における「ボケ」は、普通は想定しないものごとにパッと「跳ぶ」。しかし、その跳びを見せられると、誰もが「理解できる」という感覚を抱く。「そんな跳び方ができるなんて、目のつけかたが鋭いし、世の中を捉える視点が新しい!」。そう感心して人は笑うのだ。
 お笑いだけではなく、アートやデザイン、研究開発、文学に至るまで、そして日常生活においても、目のつけどころが良くて新たな視点をもたらすことは、クリエイティブであることの必要条件である。
 では、どのようにすれば、素晴らしい着眼を得て「跳ぶ」ことができるのだろうか? この問いが本書の主題である。クリエイティブな所業には必ず「跳び」が存在するからといって、通常なら想定しないようなものごとへの「跳び」を画策するというマインドでは、クリエイティブな結果は生み出せないのではないか? クリエイティブなパフォーマンスをやってのける人は、「どう跳ぼうか」と試行錯誤しているのではなくて、「跳ぶこと」はあくまでも結果なのではないかというのが、私の仮説である。
 ではどうすればよいのか? 「これこれこうしさえすれば……」という、クリエイティブであるための黄金ルールはない。本書で重要視しているのは、「体感に耳を澄まし、それに向き合って、身体の発露として、臨機応変に対応すること」である。
「体感」とは、外界のものごとに遭遇したときに、体内で湧き起こる体性感覚や情動である、と大雑把に捉えてほしい。例えば、家の近くを散策しているときに、見慣れない急坂に遭遇したとしよう。何か惹かれる。違和感のような引っ掛かりも覚える。とにかく上ってみることにする。何らかの「着眼」が始まっているのかもしれないが、まだ漠としている。一歩一歩地面を踏みしめて上っているとき、路面の状態や坂の勾配に応じて、足の裏や足腰に体内感覚が生じるだろう。坂道に覆いかぶさる樹々の向こうに、急に思いがけない風景が広がってきたとしたら、ピコン! と何かが弾けるような感覚や情動が湧き起こるかもしれない。
 まだことばにはならない、しかしもう少しでなりかけの、体内感覚や情動みたいなものごとが、生活のあちらこちらで生まれては消えている。そういった体感に耳を澄ませて向き合ってみると、自ずと身体は反応し、自分ならではの「着眼」が生まれ、身体の発露として「跳び」がもたらされるのではないか。それがクリエイティブであることの源泉ではないかという仮説を、本書ではいくつかの事例で述べることになる。
 本書のもう一つの話題は、現在ブームを迎えている人工知能(AI)についてである。コンピュータが大量のデータから自動的に学習するアルゴリズムの開発をきっかけに、研究開発と社会応用が隆盛を極め、AIロボットやソフトウェア上の人工頭脳が、近い将来人知を超えるかもしれないとまで主張する研究者もいる。ロボットと人間が共生する未来像も語られはじめている。
 しかし私は、この語られ方に一抹の違和感を覚えている。本書に登場する「臨機応変」、「着眼」、「想定外」、「跳ぶ」、「体感に向き合う」、「身体の発露」といったキーワードの根底に流れるのは、「身体」と「自己」である。ロボティクス研究は、過去二〇年多くの成果をあげてきたが、言葉や感情が宿る基盤としての「身体」への知見はまだ得られていない。ましてや、「自己」が備わるようにプログラミングする手法は、未解明である。
 そもそも、基本動作原理や知識を「プログラミング」するということと、臨機応変に着眼して想定外のものごとに跳ぶことは、本質的に相容れないようにも思える。つまり、AIロボットもしくは人工頭脳が、私たち人間から見ても「クリエイティブだな」と思えるようになるための道のりは、まだ随分遠いのだ。
 私の違和感は、AIと人が共生するためには、少なからずAIがクリエイティブであることが必要条件ではないか、という想いから発している。私たち人間の生活がより便利に豊かになるためにAIが支援してくれることと、AIと人が共生することは異なる。どちらの未来を目指すのがよいかは、これから市民を巻き込んで大いに議論すればよい。その議論において重要なのが、「クリエイティブ」という観点だと思うのだ。
 何よりも私たち自身がもっとクリエイティブになるために、そして、人間とAIの共生という未来像を喧々諤々に議論するためにも、今、「クリエイティブであること」についての研究は、重要性を増している。
 本書は、身体の観点から「クリエイティブ」を見たときにどんなランドスケープが見えるかを綴ったものである。クリエイティブであるという知の姿に、今以上に光を当てるきっかけにならんことを祈る。

 

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