世の中ラボ

【第94回】明治150年にあたり、「司馬史観」を検証する

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2018年2月号より転載。

 今年、二〇一八年は「明治一五〇年」である。官邸のポータルサイトには〈「明治150年」をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです〉などとある。悪い冗談かよ。敗戦で断絶された歴史を無視し、主権在君の帝国主義時代に戻れといわんばかりだ。この機に乗じて『文春MOOK明治150年 文藝春秋でしか読めない幕末維新』『別冊正論30 明治維新150年――先人の智慧と気概』といったムックも、すでに発売されている。この傾向が今年いっぱい続くのだろうか。
 ところで、右のようなムックも含め、明治というと必ず名前があがるのが司馬遼太郎である。たしかに司馬は『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』『花神』など幕末明治に取材した作品を数多く残したし、一九六八年から七二年まで産経新聞に連載された『坂の上の雲』は日本人の明治観を決定したほど大きな影響力を持った。
 しかし、私は忘れない。歴史修正主義の発火点ともいうべき藤岡信勝+自由主義史観研究会『教科書が教えない歴史』が〈私たちの考えでは亡くなった司馬遼太郎さんの「司馬史観」も自由主義史観と同じ立場にあります〉と巻頭言で述べていたことを。
 いまや思想信条のちがいを超えて称揚される司馬遼太郎だが、歴史学者の中には司馬に批判的な人も少なくない。はたして「司馬史観」とは何なのか。そこに問題点はなかったのだろうか。

「明るい明治」と「暗い昭和」の二項対立
 まず磯田道史『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』。最近テレビ番組などでも活躍中の著者による司馬作品の手軽な入門書である。
〈歴史というのは、強い浸透力を持つ文章と内容で書かれると、読んだ人間を動かし、次の時代の歴史に影響を及ぼします〉と著者はいう。そのような「歴史をつくる歴史家」として彼が名前をあげるのは、頼山陽、徳富蘇峰、司馬遼太郎の三人だ。とりわけ司馬は、戦後の急激な経済成長と民主主義を伴った大衆社会の時代の作家であり、その叙述が映画やテレビ番組に翻案された結果、〈日本人の多くは司馬作品を通じて日本の歴史に接し、その歴史観をつくったと言っても過言ではないでしょう〉。
 実際、この本を読むと、司馬が戦後の日本人に受け入れられた理由がよくわかる。
 斎藤道三から織田信長へと時代が変わる過程を描いた『国盗り物語』が雑誌で連載されたのは一九六三~六六年。高度経済成長の時代であり、その時期に働いていたのは復員軍人を中心とする人々だった。〈国を失った人々が、もう一度国を獲得していくその展開に、読者は非常にシンパシーを感じたのではないかと思います〉。
 一方、明治維新から日露戦争までの過程を描いた『坂の上の雲』が連載された六〇年代末から七〇年代初頭は、高度成長の終わりが見えた頃だった。高度成長によって物欲は満たされたが、「坂の上の雲」を目指すような目標はもうない。それが〈「坂の上」をめざした明治人への興味をかきたて、『坂の上の雲』を国民的な人気作品としたのかもしれません〉。
 司馬が好んで描いたのは、坂本龍馬(『竜馬がゆく』)や大村益次郎(『花神』)のような合理主義的な人物だった。その対極にあるのが過去の因習にとらわれ、思想的に純粋培養された人物や集団だった。戦争中に無体な思想を押しつけられた読者が、司馬が描く合理的な人物に共感したのは当然かもしれない。
 もっとも磯田も司馬作品を手放しで礼賛しているわけではない。〈司馬さんは大局的な視点、世の中に与えた影響という点から、可能なかぎり単純化して人物評価していることを理解しなくてはなりません〉と彼はいう。〈司馬作品を読むときには、一定の約束事、言わば「司馬リテラシー」が必要なのです〉。
 ただし、じゃあどうやって「司馬リテラシー」を磨くかという点までは、この本は踏み込まない。
 その点、中村政則『『坂の上の雲』と司馬史観』は、かなり強烈な司馬史観批判といっていいだろう。尾崎秀樹を引用しつつ、司馬の歴史観の特徴を「鳥瞰史観」「大局史観」と中村は呼ぶ。未知のものを前におののく人間ではなく、その起こりから終焉まで、すべて完結した時点から人間に光を当てるのだ、と。
 論点は多岐にわたるが、たとえば中村が問題視するのは司馬の〈過剰表現、勘違い、作為〉、いわば誇大妄想癖である。『竜馬がゆく』で尊王攘夷派と幕府方が衝突した「禁門の変(蛤御門の変)」を描いた際、〈その数、五万である。帝都の内外にこれだけの戦闘員があつまったのは、室町末期の応仁ノ乱いらいのことであった〉と書いた司馬。が、御所の周囲に五万の兵が集結するのは不可能で、文献ではせいぜい四〇〇〇。司馬の数字や人物像にはこの手の誇張が多い。日露戦争の原因は「ロシアが八分、日本が二分」などという記述も、鵜呑みにはできない。
『坂の上の雲』を中村は「安心(コンフオタブル)史観」をベースにしたエンターテイメントだという。それは〈高度経済成長の社会的背景もあって、中堅サラリーマンや中小企業経営者の間で圧倒的な人気を博し、「日本もすてたものではない」という安心感をあたえた〉が、半面、大きなマイナスも伴った。第一に、歴史の暗部(暗い話、残酷な話、戦争犯罪や植民地差別などの問題)を避けたことで、史実の悪用や曲解を招いたこと。第二に、軍事技術の先進・後進を進歩の程度をはかる基準としたために、新技術をつくり得ない民族や国民を「遅れている」とみなしたこと。加えて、戦争の犠牲者である民衆の姿もほとんど視野には入っていない。
 注目すべきは、中村がくだんの藤岡信勝ら「自由主義史観」派への影響を論じている点だろう。彼らの言説にはいかに司馬の受け売りが多いかを指摘した上で、その根底にある司馬史観の限界を中村は問う。司馬史観の最大の特徴は「明るい明治」と「暗い昭和」という二項対立。さらにはその分岐点は日露戦争だとして、日露戦争までの四〇年は上り坂、日露戦争から後の四〇年は下り坂としている点である。その「単純な二項対立史観」が最大の問題だと彼はいう。「四〇年サイクル説」が日清戦争の評価を誤らせ、近代史上、もっともリベラルだった大正期を欠落させたのではなかったか。わかりやすい二項対立は要注意なのだ。

朝鮮との関係から明治を見れば
 中塚明『司馬遼太郎の歴史観』は、さらにもう一歩踏み込んで、朝鮮史の視点から、司馬史観を批判した本である。
 中塚はまず、佐藤栄作首相の下で行われた一九六八年の「明治百年記念式典」を問題にする。敗戦後、ようやく戦争批判や植民地支配への反省が広まりかけた時期に企てられた明治賛美論。『坂の上の雲』の連載は、そんな年にスタートした。
『坂の上の雲』で語られた司馬の朝鮮観は単純だ。
 第一に「朝鮮の地理的位置論」。〈北からは大国である清国やロシアの、そして南からは日本の圧力をうける「朝鮮半島」という自然の位置が罪作りの原因なんだ〉という論法である。
 第二に「朝鮮無能力論」。〈李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老化しきっているため、韓国自身の意思と力でみずからの運命をきりひらく能力は皆無といってよかった〉(『坂の上の雲』)と司馬はいう。たしかに李王朝は崩壊しつつあったが、しかし当時の朝鮮は近代化への道を開く激動期だったのにである。
 第三に「帝国主義時代の宿命論」。一九世紀のこの時代、日本は他国の植民地になるか帝国主国の仲間入りをするか、二つに一つの道しかなかった。つまり「地理的位置」と「主体的無能力」に規定された朝鮮は日本に従属して当然、という理屈になる。
〈これは、日露戦争を前後して、日本が朝鮮を植民地として支配しようとしたとき、さかんにふりまかれた朝鮮停滞論、朝鮮落伍論と少しもかわらない主張です。こういう主張が日本による朝鮮支配正当化の議論に通じることは、いうまでもありません〉。
 という中塚の批判は激烈だが至当である。
 司馬の「明治栄光論」、日本の「痴呆化」は日露戦争後にはじまったという説にも中塚は異を唱える。日露戦争の一〇年前、日清戦争時の日本の行動にも、後に日本が暴走する萌芽は現れていた。日本はかなり強引なやり方で朝鮮を占領し、また朝鮮が自ら近代化を切り開く可能性のあった農民蜂起(東学党の乱など)を、日本は日清戦争によって潰した。「日本の勃興」と「朝鮮の没落」はじつは同時進行だったと中塚はいう。
〈朝鮮は無力である、日本が支配しなければロシアがとってしまう、そうなると日本の安全は保てない――そういって明治の日本は朝鮮への圧迫を正当化しました。(略)当然のこととして「明治の栄光」は、朝鮮のはげしい民族的な抵抗に直面せざるを得ませんでした〉。これが、もうひとつの明治の姿だ。〈日本の「明治の栄光」は、隣国、朝鮮の犠牲の上になりたっていた〉のであり、〈その民族主権をうばって、それを「栄光」というなら、そんな「栄光」が長持ちするはずはないではありませんか〉。
 いまなお周辺国(具体的には北朝鮮)を敵とみなし、それに見合った軍事的要件を整えようとしている日本。中村政則や中塚明の本が出版されたのは、NHKが『坂の上の雲』をドラマ化した〇九年だった。現在、事態はますます悪化している。その現実を思うと、司馬遼太郎が広めた(あるいは加担した)日本人の明治観がいかに危険だったか、あらためて考えざるをえない。明治一五〇年に込められた意図も、やっばり注視したほうがいいのである。

【この記事で紹介された本】

『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』
磯田道史、NHK出版新書、2017年、780円+税

 

著者は一九七〇年生まれ。国際日本文化研究センター准教授(日本近世社会経済史ほか)。〈歴史学者が「司馬遼太郎」をあえて正面から取り上げ、司馬作品から入って、体系的に戦国時代から昭和までの日本史を学ぶ珍しい本〉と著者が述べている通りの入門書。司馬作品のエッセンスを巧みに抽出する手腕はさすがだが、司馬作品の暗部にふれていないのは「司馬譲り」の忖度ゆえ?

『『坂の上の雲』と司馬史観』
中村政則、岩波書店、2009年、1800円+税

 

著者は一九三五年生まれ。一橋大学名誉教授(日本近現代史)。司馬遼太郎は〈明治時代の政治、軍事、教育、エートス(精神的雰囲気)、そしてナショナリズムも、この外圧(外国から侵略されるかもしれないという恐怖)に由来する〉という「主観的外圧」を強調する傾向が強いと喝破。日清・日露戦争を中心に『坂の上の雲』を検証する。今日の歴史修正主義に関する言及も必見。

『司馬遼太郎の歴史観――その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う』
中塚明、高文研、2009年、1700円+税

 

著者は一九二九年生まれ。奈良女子大学名誉教授(日本近代史)。〈朝鮮を「内部からの変化は期待できない、他から倒されるほかない」と断定してしまえば〉、当時の民衆や宮廷や政治家などについては〈なにも述べる必要はないのです〉と指摘。日朝関係の専門家の立場から司馬と日本人の歴史観を厳しく問う。「街道をゆく」シリーズの『韓のくに紀行』にふれたくだりもおもしろい。

PR誌ちくま2月号

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