藪前知子

⑪ 「前衛」が不可能な時代?

アートとは何か、アートは社会とどう関われるか。気鋭のキュレーターがアートの役割を根源から問いなおす、コラム連載第11回。

アーティストの特権
 ただいま、東京の都心の真ん中、表参道のもうすぐ壊される地下のスペースで、会田誠が個展を開催している。既存の「都市計画」とは別の道を、アーティストの創造性によって新しいヴィジョンへ開こうという、大林組を母体とする財団が今年から新しく始めた助成事業である。新宿御苑の再活性化を提言した「新宿御苑大改造計画」(2001)をはじめ、会田誠は、思考実験の形を取りつつ、国家や都市の「ありうべき形」の提言をたびたび行い、時に物議を醸してきた。オリンピック前の大規模な再開発が進む東京で、この事業のバックボーンは承知の上で、この展覧会には、上から目線で被せられる「都市計画」に矢を放つ提言が、濃厚につまっている。例えば、自然発生的に生まれるスラムの枠組みに、これからの都市の可能性があるとする「セカンドフロアリズム」などがそれだが、フロアの入り口には、こんな殴り書きが掲げられている。「都市計画家も建築家もアーティストも何もやるな。あるがままに任せよ」。
 展覧会のオープニングで、会田誠はフィッシャーマンズベストに鍔広帽という出で立ちで現れた。これが現代美術史上のスターの一人、ヨーゼフ・ボイスのコスプレだとは、多くの人は、カラオケで沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」を歌っている会田さんの映像作品を見るまで気がつかないかもしれない。ハンフリー・ボガード(ボギー)に呼びかける元歌を替えて、彼は「ボイス、アンタの時代はよかった」と歌う。「何もするな」という発言の裏には、「アーティストに社会的発言権がある」という、ボイスに始まり近年のソーシャル・エンゲージド・アートに到るまでの、アートの世界のコンセンサスに対する、会田誠の複雑な逡巡が現れている。

「会田誠展 GROUND NO PLAN」2018年2月10日(土)~24日(土)開催

 

SNSが文化を滅ぼす?
 一方でオープニングのプレス・ツアーで、彼はこうも語った。「SNSが文化を滅ぼす。ボイスなんか今生きてたらツイッターで炎上だらけですよ」。今回の展覧会には、シリア難民の問題が深刻なニュースとなっていた2015年に、会田さんが一つの思考実験と断りつつ、彼らを受け入れて限界集落に住まわせ、日本古来の棚田を蘇らせたらどうかとツイッターで呟き、種々の反発を引き起こした「炎上」の記録も展示されている。アーティストどころか、誰にでも発言権があるのが現在の社会なのだ。彼が「アーティストの特権としての社会的な発言権」に言及する裏には、SNS時代に対するアイロニーがある。
 SNSが普及した今、あらゆる公共空間は繋がってしまった、あるいは繋がる可能性を持ってしまった。ボイスや会田誠に限らず、美術史を振り返るなら、前衛的な表現は常に、アンダーグラウンドとオーバーグラウンド(既存社会)という、二つの公共空間の波打ち際を浮かび上がらせてきた。極端な例では、60年代の前衛運動史に輝くウィーン・アクショニズムは、動物の死体や血を多用し、自らの身体も素材にして、タブーに挑戦し続けた。その結果、中心人物であるヘルマン・ニッチュやギュンター・ブルスはたびたび投獄されている。歴史化された動向だからこそ、彼らの作品は世界中の美術館で展示されている。しかし、現在の社会は、歴史さえも許容できない不寛容さを持ち始めている。ニューヨークのメトロポリタン美術館に、展示中のバルテュスの《夢見るテレーズ》の少女の扇情的なポーズに問題があるとして、撤去署名運動が持ち上がった事例は記憶に新しい(約10000人の署名が集まったとされるが、美術館は撤去に応じず)。
 年末には、マンチェスター市立美術館が、コレクションの中のラファエル前派のジョン・ウォーターハウスの絵を、美術館自らが、女性をファムファタルとして描くことの問題を指摘し、撤去する様子をツイッターで公表した。後にこれはソニア・ボイスの個展の作品の一部で、議論を喚起するためのアクションであることが明かされたが、撤去の折に美術館が出したコメントは示唆的だった。「私たちは21世紀という現在の文脈に沿って、コレクションについてどう語ることができるでしょうか?」。歴史とは、現在のための参照項であるはずだが、SNSは公共空間から過去を消し去り、現在と未来の時間のみを存在させるように働く。それぞれの文化が持ってきた文脈がいともたやすく別の評価基準に晒され、批判の的になる。あるいは批判に晒される可能性を心配する内部の人間の忖度(そんたく)が起きる。「SNSが文化を滅ぼす」という会田さんの言葉を繋いでみるなら、このようなことになるだろうか。
 

バルテュス《夢見るテレーズ》1938年

 

ジョン・ウォーターハウス《ヒュラスとニンフたち》1896年

 

グラフィティという一文化を巡って
 さて、先日、地下鉄の落書きのニュースが世間を騒がせた。中目黒駅に停車中の車両が、深夜、何者かによって大胆に落書きされた。華々しく施されたペイントは、80年代のニューヨークの地下鉄のグラフィティをノスタルジックに再現したような、作法通りとしか言いようのないものだったが、インターネット・ニュースの掲示板には、当然ながら、このヴァンダリズム(破壊行為)についての非難が殺到していた。これが許されない犯罪であることは承知の上で、私にとって軽いショックだったのは、その中に、グラフィティという一つの文化に言及するコメントが、全く見当たらないことだった。
 一昨年も同様の事件が起きた時に、ラッパーのKダブシャインが「これを言ったら怒られるんだろうけど」としながら「これぞヒップホップ!!という爽快感は禁じえない」とツイートして、いわゆる「炎上」を引き起こした。のちに彼は「現象として感傷に浸っただけで、これをピース(作品)として賞賛したわけではない」と発言する。じゃあ、これがマスターピースだったらどうだったのか、と突っ込みたくなるこの一言はSNS時代のハイコンテクストな配慮として興味深い。Kダブシャインは、多くの批判の的になっているこの行為のイリーガル(非合法)性には触れず、この作品の是非をクオリティの問題にすり替えている。あくまでも想像に過ぎないけれど、彼がノスタルジーとともに振り返るグラフィティの華やかな時代に、「ヴァンダリズムとイリーガル性」は、その文化の重要なエッセンスだった。しかしそれについてSNSで明言することが、グラフィティという文化に決定的なダメージを与えてしまうことを、もちろん彼は肌で知っているのだ。

SNS時代のサバイバル
 グラフィティとは基本的には「ライター」が自分の名前を書く行為だ。自身もアーティストである大山エンリコイサムが先年刊行した、日本で最初の本格的なグラフィティ批評書、『アゲインスト・リテラシーー―グラフィティ文化論』(LIXIL出版、2015年)によれば、グラフィティ文化における「有名性(フェイム)」の評価基準は、主に二つあるという。一つは、独創的な視覚言語を編み出せるかという「質」と、もう一つは、どれだけ広く「名前」を拡散できるかという「量」である。ここで言う「有名」は、グラフィティについてのリテラシー(読解力)を持っているインサイダーの間での価値観を指す。
 この二つの軸を戦略的に広げること自体をコンセプチュアルに展開し、グラフィティ・ライターから現代美術のスターになっていったアーティストに、KAWSという人がいる。90年代半ばにニューヨークと故郷のニュー・ジャージーで活動を始めたKAWSは、最初は広告に自分の名前を落書きするところから始め、その後は広告にスカルや目をバッテンに閉じたキャラクターを上書きして、一度見たら忘れられないオリジナリティで注目される。その後、彼はアンダーカバーやコムデギャルソンといったファッションブランドとのコラボレーションを行い、自身のキャラクターのフィギュアを作るなど、サブカルチャーの領域でも成功していく。今季はUNIQLOとのコラボレーションが話題になり、日本中の店舗で、目がバツになったスヌーピーの商品を見かけた人も多いだろう。

UNIQLOとKAWSのコラボレーション(UNIQLO・HPより)

 

 KAWSの活動は、消費社会の動きに介入している点で、ポップアートの文脈でしばしば語られる。美術史を取り込むことで、ストリートからアートへのブランディングを巧みに行なったと言えるが、それよりも興味深いのは、彼が、グラフィティというアンダーグラウンドの文化から、オーバーグラウンドまで自己の表現を拡張し続けていることだ。大量生産・消費商品という枠組みの中では、スヌーピーの目にバツをする行為が、著作権の「侵害」ではなく「コラボレーション」になるという魔法のような価値の変換を私たちは目の当たりにする。
  誰もがKAWSのようなやり方をできるわけではないが、全てがオーバーグラウンドに晒されてしまうSNS時代を生き抜くための作法として、一つの興味深いサンプルだと思う。ユーモラスな初期の広告の落書きを見ればわかるように、彼の元々の衝動は、既存の社会への抵抗というよりは、それをハッキングし、イマジネーションで塗り変えるような遊びの延長にある。その自由の価値観を取り出してパッケージし、グラフィティ的な「拡散」の欲望に従ってばら撒く戦略は、Kダブシャインの言葉に戻れば、「ピースとして」の新しさや強度とセットになっている。
 グラフィティと同様の文化的な根を持つ、サンプリングやリミックス、コラージュも含めて、既存の世界を組み替え、乗りこなしていく作法は、今後の社会においても重要性を増していくだろう。しかし、それらの表現が、著作権や肖像権、所有権など、オーバーグラウンドを守るためのコードとしばしば摩擦を起こすことは事実だ。このことは、文化生産に関わる者にとって、今後ますます大きな課題となっていくだろう。フェアユースを始めとする法整備への努力をする一方で、発信側には、一つの文化の精神を残すためのサバイバルの方策がより強く問われている。
 一周回って、再び冒頭の会田誠展に戻ろう。合理性とモラルの臨界点を突き、社会にとって何が「善」なのか、既存の価値観の見直しを迫る会田誠の作品も、KAWSとは対極に位置しつつ、全てがオーバーグラウンドに拡張された社会を相手にしている。「SNSが文化を滅ぼす」というのも会田さんの本音だろうが、「炎上」がまた私たちの社会の輪郭を可視化することも確かなのだ。炎上しても燃え尽きはしないよう、サバイバルのための戦略を周到に用意しつつ、会田誠の作品には、時に酒の席の与太話を装いつつの、ヌルくてボロボロの見かけの中に、複数の意味のコードが埋め込まれている。どのコードを受け取るかは、グラフィティがそうであるように、各人が属する文化の「リテラシー」にかかっている。そこには、クリーンな画一化に向かう社会に対する抵抗として、「前衛」という思考のエッセンスが、滅ぶどころか凝縮されて現れているのである。

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