日本人は闇をどう描いてきたか

第二十回 粉河寺縁起 ――千手観音像の陰影

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第二十回は、罪のかたちを想起させる作品から。

出家は幸か、不幸か

 和歌山県粉河寺(こかわでら)に伝来する「粉河寺縁起」の成立は、詞書の書風や用語の分析を通じて一一七〇年代~一二〇〇年頃のことと推定されている。ただし、現存する絵巻には描線や着彩に粗さが目立ち、原本制作にやや遅れて作られた模本、あるいは副本のようなものであった可能性が高い。ともあれその内容は、十二世紀中頃に制作された「信貴山縁起」とも並び、寺社縁起絵巻のプロトタイプに位置づけられる。
 千手観音の化身である童行者(わらわぎょうじゃ)が登場し、罪深い人々を発心に導き救済する内容で、画面には千手観音像を安置する小庵が繰り返し描かれ、同じ舞台装置を背景に複数の場面が展開する。このような単純明快な内容や画面構成は、「信貴山縁起」に比べても一層古様(こよう)で、原本成立時期の早さを物語っている。
 寺社の由来や霊験を主題にし、その限りない福徳を物語るのが寺社縁起絵巻の役割である。ところが「粉河寺縁起」の巻末では、一見すると全ての登場人物が悲嘆に暮れて物語が幕を閉じているのである。河内国の長者一家の出家場面であるのだが(図1)、これは一体どのような福徳として位置付けられているのだろうか。彼らの出家は幸か、不幸か。この絵巻の成立背景からひもといてみよう。

【図1】「粉河寺縁起」(国宝、和歌山・粉河寺蔵)
画像出典:粉河寺縁起(日本の絵巻5、中央公論社、1987年)より

憧れの霊地、粉河寺

 粉河寺(和歌山県紀の川市)は、南に紀の川を臨む和泉山脈の麓に位置する。八世紀に遡ると見られる創建以来、観音霊場として信仰を集めた。特に十一世紀以降、公家社会において高野山や熊野など畿内周辺地域への巡礼が流行することに伴い、粉河寺参詣の記録も散見されるようになる 。
『枕草子』第二〇八段には、「寺は壺坂。笠置(かさぎ)。法輪。霊山(りょうぜん)は、釈迦仏の御住みかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀。」として、畿内周辺の壺坂寺・笠置寺・法輪寺・霊山寺・石山寺・志賀寺などに加え、粉河寺が名を連ねている。いずれも都からはやや距離のある大和・近江・紀伊の寺々であり、中でも粉河寺は遠い。清少納言にとって、その名を人づてに聞きこそすれ、自ら足を運ぶことは難しい憧れの霊地がここに列記されたのであろう。
 平安時代末期の粉河寺信仰の興隆を考えるとき、これを強力に推進した一人の人物が浮上する。院政期、数多くの絵巻制作を主導した後白河上皇(一一二七~九二)である。

後白河上皇の粉河寺信仰

 その熱烈なる千手観音信仰は、上皇自身が編纂した『梁塵秘抄』口伝集巻第十に、次のエピソードを通じて鮮やかに書きとどめられている。
 応保二年(一一六二)正月二十七日、当時三十六歳の上皇は、生涯二度目となる熊野参詣に出立した。各所で『千手経』千巻を転読しながら、三山(本宮・新宮・那智)に参籠し、二月十二日には新宮に至った。ここでも夜通しの転読を終えた早暁、神前にて自ら「万(よろづ)の仏の願よりも、千手の誓ひぞ頼もしき、枯れたる草木も忽(たちま)ちに、花咲き実生(な)ると説い給ふ」の今様を繰り返し、夜が明けきるまで謡った。
 すると、この時先達(せんだつ)として同行していた園城寺(おんじょうじ、三井寺)僧の覚讃(かくさん)が、神前の松の樹上から「心解けたる只今かな」と、上皇に相伴して謡う神の声を聞いたとの報告をもたらした。覚讃は、同年の六月八日にも、上皇による『千手経』一千巻転読結願の際、上皇自身が生身(しょうじん)の千手観音であるとの夢告を得たと申し出ている(『転法輪鈔』)。近侍する僧侶による目撃談や夢記(ゆめのき)を通じて、いつしか上皇自身を千手観音の化身とする言説までもが育まれていったのである。
 後白河上皇による千手観音信仰は、長寛二年(一一六四)十二月、千体千手観音像を安置した蓮華王院(三十三間堂)建立において頂点を極める。現存する三十三間堂は鎌倉時代の再建であるが、建築当初の規模を忠実に復元したものである。堂内に足を踏み入れると、林立する千手観音像の偉容が見る者を圧倒する。
 そして、安元二年(一一七六)四月二日には、上皇の御所である法住寺殿(ほうじゅうじどの)東南の山上に、小千手堂が落慶供養され(『吉記』同日条)、堂内には、粉河寺本尊の余材を用いた千手観音像が安置された(『粉河寺縁起』和文縁起第二十一段「後白河法皇御願千手堂中尊因縁」)。この本尊は残念ながら現存しないが、上皇の千手観音信仰は、度々の熊野詣でを契機として粉河寺への崇敬にも結びついたものであろう。粉河寺の本尊に用いられた用材の一部を自ら発願した小千手堂に転用することで、上皇は精神的にも物質的にも粉河寺本尊の千手観音菩薩と一体化を果たすのである。上皇周辺での、このような千手観音信仰の高まりを反映して「粉河寺縁起」の絵巻制作も企画されたものと思われる。

粉河寺創建の由来

 絵巻は全五段からなり、第一話として猟師の発願による粉河寺創建譚(第一・二段)、第二話として本尊千手観音像の功徳で長者の娘の病が平癒するという利生譚(第三~五段)を組み合わせた、二部構成となっている。
 第一話の画面では、猟師とその家族が肉食をし、鹿肉や鹿皮を干す場面が描かれている。これは、彼らが不殺生戒(ふせっしょうかい)を破る日常を送っていることの象徴である。不殺生戒とは、仏教において出家者だけでなく在家者も順守せねばならない五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒)のうちのひとつで、破れば地獄や餓鬼などの悪道に輪廻転生する因縁が生じることとなる。絵巻では、そこへ千手観音の化身である童行者が現れて、猟師とその家族を仏像建立という善行へ導く。この時、猟師が建てた粗末な柴の庵と童行者の助けで出現した千手観音像が、粉河寺創建の礎となるのである。

病と罪業

 続く第二話では、河内国讃良郡(ささらのこおり)に住む長者の娘の病が、やはり千手観音の化身である童行者の祈禱で平癒する。画面では、病床にある娘の身体が腫れあがり、随所で皮膚が破れきずぐちからは赤い膿(うみ)や血が流れ出る様子が描かれている(図2)。顔は苦痛に歪み、胸や手足がはだけ髪も乱れるあられもない姿である。看病する侍女たちも袖で鼻を押さえ顔をそむけており、このような描写を通じて、娘の周囲に充満する堪えがたい悪臭が可視化されている。

【図2】「粉河寺縁起」(国宝、和歌山・粉河寺蔵)
画像出典:大絵巻展(読売新聞社・NHK・NHKきんきメディアプラン、2006年)より

 中世絵画において、しばしば病のモチーフが罪業の表徴として機能することを、既に「病草紙」を通じて見てきた(第四回)。例えば、『法華経』普賢菩薩勧発品には次のような一節がある。

(法華経を書写する者を軽んじ笑う者は)まさに世世に牙・歯は疎(す)き欠け、醜き唇、平(ひら)める鼻ありて、手脚はもつれ、まがり、眼目(まなこ)はすがみ、身体は臭くきたなく、悪しき瘡(できもの)の膿血あり、水腹(すいふく)・短気(たんけ)、もろもろの悪しき重病あるべし。

 『法華経』書写を軽んじた者はその報いとして種々の病に苦しむとの経説で、特に臭穢、悪瘡、膿血という症状は、「粉河寺縁起絵巻」第三段に表された長者の娘の病を彷彿とする。同時代の鑑賞者たちが長者の娘の病に何らかの罪業のしるしを読み取っていたであろうことは容易に想像できる。では、この娘が一身に引き受けねばならなかった罪とはいかなるものであったのか。

蓄財の罪

 その点について詞書には何も記されていない。しかし画面に目を向けると、第二話の冒頭、第三・四段にまたがって長者の一家の繁栄ぶりが様々な財物によって表されていることに気付く(図3)。荷を運ぶ者たちの表情は一様に暗い。

【図3】「粉河寺縁起」(国宝、和歌山・粉河寺蔵)
画像出典:粉河寺縁起(日本の絵巻5、中央公論社、1987年)より

 これも既に「伴大納言絵巻」に関連して見てきたところであるが(第五回)、中世絵画において過剰な富が描かれる時、多くの場合そこには否定的な意味が含まれる。『往生要集』大文第一「厭離穢土(おんりえど)」第七「惣じて厭相を結ぶ」では、『大宝積経(だいほうしゃくきょう)』を引用しつつ、不正・非法な手段で集めた財物で妻子を養育したとしても、死に臨んでは何ら助けにならず、むしろ悪い因果を生じるだけであることが説かれている。
 中世初頭の日本では、浄土信仰の浸透と軌を一にして、財物を執着に値しない無価値なもの、それどころか業因でさえあると捉える観念が普及していた。また、過剰な富に対する罪業観の背景には院政期特有の経済構造も影を落とす。
 応徳三年十一月二十六日、八歳の善仁(たるひと)親王(堀河天皇)に譲位した白河上皇(一〇五三~一一二九)は、幼帝を後見して院政を開始した。人事権を独占し、特に、国司の最高責任者である受領(ずりょう)の人事を掌握することで諸国の富を上皇のもとに集中させ、院政の経済的基盤を確立した。いったん確立した経済システムは止まるところを知らず、京都に集積した莫大な富は、白河上皇周辺での日常的な消費のみならず、六勝寺の造営に代表される大規模な造寺・造仏や過差(かさ、度を越した贅沢)と美麗(びれい)を尽くした法会を通じて蕩尽されていく。このような経済構造は、次世代の上皇たちにも継承され、鳥羽院(一一〇三~五六)による鳥羽離宮の拡充、後白河院による洛東地域の開発など、都市空間の拡大さえ促した。
 経済的繁栄を謳歌する一方で、その渦中にある為政者たちの中には、過剰な蓄財への罪悪感、あるいは批判的な意識が徐々に形成されていったものであろう。このような時代背景と、現世の煩悩を否定し死後の浄土往生を希求する浄土信仰の流行とは表裏一体の現象である。
『往生要集』が後白河上皇周辺でも講読されていたことは、九条兼実(一一四九~一二〇七)の日記『玉葉』文治三年(一一八七)四月九日条より明らかである。同年三月下旬より、瘧(おこり)を病んで一時は重体に陥っていた上皇が、天台僧の澄憲(一一二六~一二〇三)による『往生要集』談義を聴聞したとことを記録している。興味深いことに、兼実は続けて「法皇、年来、曾(かつ)て法文の行方を知らず、いわんや義理論議に於いてをや。しこうして比の御悩の時に臨み、忽然として此の議あり、奇と為すに足る。是れ又物狂か」と記しており、日頃『往生要集』を読んだこともない上皇が、自らの危急の事態に慌ててその所説を学ぼうとする有様に、冷ややかなまなざしを向けてもいる。兼実の批判が真実を伝えるものか、日頃から意見の対立しがちな上皇に対する行き過ぎた皮肉かはさておき、重病を得て死を予感した上皇が、急遽『往生要集』談義の聴講を所望したことは紛れもない事実である。
 この時の上皇の行動には、享楽的日常を謳歌する一方で死後の世界への不安におびえる、相反する思想を抱えて生きるこの時代の為政者たちの典型的なメンタリティを垣間見ることができる。

発心という名の福徳

 このように、絵巻制作の時代背景を見てくると、「粉河寺縁起」における長者の娘の病を、一家の過剰な蓄財が業因となって生じたものと見なすことはごく自然な解釈となろう。このことはまた、続く第五段で、病から救ってくれた童行者を慕って粉河まで赴き、それが千手観音の化身であったと知るや仏前で出家を遂げるのが、娘だけでないことにも表れる。画面には、観音像の前で髪をおろす娘を中心に、父母をはじめとする家族が一斉に剃髪する姿が描かれている(図1)。
 彼らは果たして幸せなのか不幸なのか、冒頭の問いに再び戻るならば、財物への執着から解き放たれたこの人々は、発心という名の福徳を手にした幸い人なのである。たとえその姿が涙にくれたものであっても、彼らの後世には浄土往生が待っている。一家の出家場面で締めくくられる第二話において、真の救済は娘の病気平癒にあったのではない。それを契機に、一家が過剰な富への執着を捨て、千手観音の功徳によって発心出家に導かれることこそがこの縁起の到達点なのである。
 あるいは一歩踏み込んで考えてみると、持ちすぎた富を寺社への寄進によって消費し尽くすことの教理的な正当性を、この絵巻では縁起の形をとって主張しているのかもしれない。さらに掘り下げて、一家がひれ伏す千手観音に、その化身としての後白河上皇のイメージが重ねられているとするならば、そこにどんな意味を見出すことができるだろうか。いったん寺社へ寄進された富が、聖俗両面あわせ持ったトリックスターたる後白河上皇を媒介として、再び世俗の権力や経済へと還流する道筋が浮かび上がってくる。画中に描かれた質素な庵とは裏腹に、現実世界においては壮麗な三十三間堂が出現した時代であることも、見過ごしてはならない。

(参考;「粉河寺縁起」は、京都国立博物館サイトで参照することができます。)
 

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