ちくま学芸文庫

村上一郎『草莽論』解説

2月刊行のちくま学芸文庫『草莽論:その精神史的自己検証』(村上一郎著)より、桶谷秀昭氏による文庫版解説を公開いたします。本書『草莽論』は、蒲生君平や頼山陽、吉田松陰など、江戸後期から維新前夜にかけての「草莽」たちの思想的系譜を辿りながら、「維新の精神」の本質を剔抉した名著です。著者の盟友であった桶谷氏による解説、ぜひご一読ください。

 (一)

「草莽(さうまう)」といふ言葉が、人の口にあるいは筆に登るやうになつたのは、いつごろなのか正確なことはわからないが、そんなに古いことではなく、幕末、維新の頃ではなからうか。
 武士も町民も口にしたわけではなく、それはある階層の人たち、下級武士、士族にかぎられてゐたやうに思はれる。さらに範囲をひろげれば、維新以後の士族から、昭和初年のマルクス主義運動にかかはりをもつたインテリゲンチャに及ぶ。そしてこの場合、コミンテルンの支配下にあつたマルクス主義運動において使はれた「プロレタリアート」といつた普遍的(?)な概念にたいする批判が、こめられてゐたと思はれる。
 革命一般といふものはない。実存するのはフランス、プロイセンの十八世紀末の革命であり、あるいはそれから影響を受けた日本近代の革命である。

 (二)

 「草莽」といふ言葉の本来の意味に、革命あるいは変革にかかはるニュアンスは何もない。草むら、といふ意味があるだけである。せいぜい比喩的な意味として、中央にたいする辺境、都市にたいする田舎である。
 しかし、「草莽」は、幕末、維新の黒船の渡来によつてひきおこされた日本の国外、国内のあわただしい不安な状況のなかであらはれた言葉なので、ある激しいひびきを帯びてゐる。それは、たとへば尊皇攘夷といふイデオロギイ用語とおなじ含意をもつ言葉としてひろがつた。ただ、「草莽」は、尊皇攘夷とくらべたとき、何となく茫洋とした感じを受ける。
 激しい風が吹いて、草むらが伏せるやうになびかうが、起きあがらうが、それはそれだけの自然現象にすぎない。
 ところで「草莽崛起(くつき)」といふ言葉がある。これも自然現象を言ふにすぎないであらうか。いや、そんなことはない。「崛起」の「崛」といふ字は、辞書によると「高く、短かい」といふ意味ださうで、何だかよくわからないが、「草莽」が「崛起」するといへば、わからないことはない。
 草莽が崛起するやうに、人間もまた崛起するのである。もちろん、崛起しない人間、生涯に一度も崛起しないで人生を終へる人間もゐる。たくさんゐる。

 (三)

 村上一郎は、崛起する人間であつた。しかし、崛起しない「草莽」をも愛した。彼はこの彼自身の生涯の最後の著書で、「草莽」人の典型として吉田松陰の人間像を描き、論じてゐる。
 村上一郎は、松陰のほかにも草莽人と呼ぶにふさはしい幾人もの人間像を描き論じてゐるが、松陰には格別の想ひを抱いてゐたであらうことがわかる。自分もまた、そのやうに生きてきたといふ自覚を、自刃して果てた生涯のをはり近くなつて抱いてゐたやうに思はれる。

 (四)

 「第五の章 吉田松陰」の冒頭に次のやうな一節がある。

「わたしは子供の頃、吉田松陰先生について不思議で不思議でならないことがあった。それは、よく知られている松陰の座像が、剛直ではあるが、実にさびしげに描かれていることについてであった。またなぜ、謹厳に描かれているのに袴をつけていないのかも妙だった。」

 私はこの一節を眼にしたとき、ほとんど感嘆の声を発するところだつた。
 村上一郎の記憶喚起力に、格別驚く程のことは何もない。むしろ平凡に近いと言つていいくらゐである。しかし松陰のこの座像を「実にさびしげに描かれている」といつた評言を、これまで他に聞いたことがないのも、確かである。村上一郎よりも十二年ひとまはりほど年下の私は、昭和十三年から十九年まで、東京は下町の小学校の生徒であつたが、毎朝、朝礼のとき、話下手の癖に話がながい校長先生の訓話をぼんやりと聞いてゐた。その学校の校庭は、朝礼台にむかつて右手に柴を背負つて読書してゐる二宮金次郎の全身像があり、左手に和服に袴をつけずに端座してゐる吉田松陰の銅像があつた。
 二宮金次郎はわかる。「柴刈り縄なひ、わらぢをつくり、親の手を助け、弟を世話し、兄弟仲よく孝行を尽す 手本は二宮金次郎」といふ頌歌を、皆が知つてゐた。
 しかし吉田松陰は知らなかつた。わからなかつた。松陰が偉い兵学者であるといふことは、仄聞して知つてゐたが、それ以上のことは何も知らなかつた。校長さん以下ひら教員の先生たちも何も知らなかつたのではないかと思はれる。そんな雰囲気が、大東亜戦争直前と戦時中を支配してゐた。敗戦後、アメリカ製民主主義が、敗戦国日本の国内に、戦後民主主義の名のもとに容易に浸透することができた理由であらう。

 (五)

 村上一郎は栃木県宇都宮市近傍の農村を出生地とする。幕末維新の精神史を語るときに、水戸と水戸学の精神風土を抜きにすることはできないが、そのことをいふとき、独特の含羞をあらはすのが、異様に感ぜられる。水戸と水戸学は村上一郎の精神史の主題に避けて通れないといふ当り前のことが、どうしてあのやうな含羞を生むのであらうか。
 その父親は、ホーリネス派のキリスト教信者であつた。若い頃に米国に留学し、帰朝後は何もしなかつた。宇都宮の師範学校出身の女と結婚し、女は一子一郎を生み、教員をしながら子を育て、父親は毎日、朝から聖書を音読し、太鼓を叩いて讃美歌を歌ひ、感昂じると家を飛び出して、遊行し、河でも沼地でも踏み込んで歩いた。先祖代々から譲り受けた土地は次つぎに手放して、死んだ。
 さういふ身上話を、憤怒を帯びた口調で語るのを聞いたことがある。遺伝といふものはどう仕様もないのか。村上一郎は県立宇都宮中学校を好成績で卒業し、東京商大(現、一橋大学)予科に進学するが、大東亜戦争のさなか、海軍短期現役士官になり、敗戦を迎へる。
 三菱化成株式会社の経理部に就職する。その頃結婚した夫人の思ひ出話によれば、毎朝刑場に曳かれてゆく囚徒のやうに、うつむいて重い脚をひきずるやうに出勤してゐた。長くはつづかず、退職した。大学時代のゼミナールの恩師高島善哉教授の世話で日本評論社の編集部に入社、雑誌「日本評論」にルポルタージュ「時の動き」を連載執筆し、好評を得たが、やがてアメリカ占領軍よりプレスコード違反によつて執筆禁止、退職を余儀なくされた。
 以後、村上一郎は、米軍占領下はもとより、日米間に講和条約が結ばれた以後も、常勤就職の口はなく、多摩美術大学、桑沢デザイン研究所といつた大学あるいは研究所の非常勤講師の収入と、文筆の仕事から得た原稿料によつて生活した。
 人生において、人と人との出会ひほど大事なものはない。私は、右のやうな経歴をもつ村上一郎と出会ひ、学問、藝術において多くの貴重な事をまなんだ。
 草莽論といつた主題を語るのに、村上一郎ほどふさはしい人を、私は周囲にみいだすことができない。「草莽崛起」は吉田松陰が言つたが、現代の日本において、村上一郎はそれを言ふにもつともふさはしい人なのである。しかし、その村上一郎はすでにゐない。
 

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