日本人は闇をどう描いてきたか

第二十一回 平家納経 ――輝きの背後にある暗闇

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。第二十一回は、絢爛豪華な仏画から。

装飾経の輝き

 釈迦の教え(言葉)が、世代を越えて語り継がれ、書き継がれたことで仏教は発展した。仏の言葉を書き写す「写経」はあらゆる作善(さぜん)の中でも重視され、出家者だけでなく在家者にとっても仏との縁を結ぶ有効な手段であった。特に平安時代の日本では、貴族社会における作善意識の高まりや、絵画・工芸における表現技術の洗練を背景に、料紙、見返し絵、題箋や経箱に至るまで美しく荘厳した装飾経(そうしょくきょう)が盛んに制作された。とりわけ、装飾法華経には数多くの優品がある。
 『法華経』方便品には「綵画(さいが)して仏像の、百福荘厳(ひゃっぷくしょうごん)の相を作るに、自ら作り若しくは人をもせしめば、皆已(すで)に仏道を成じたり」などの表現で、造塔・造寺・造仏の功徳が説かれており、これが貴族たちの作善意欲をかきたて、平安後期美術の興隆を促した。
 また、方便品には続けて「童子の戯れに、若しくは草木及び筆或は指の爪甲をもって、画いて仏像を作る、かくの如き諸の人等は、漸漸に功徳を積み、大悲心を具足して、皆已に仏道を成じ」とあり、どのような些細な作善にも仏の功徳が約束されると説く。莫大な富を手にした平安時代の貴族たちは、これを「より善いもの、より美しいもの」を「より多く」造ることが「より大きな功徳」につながると解釈した。
 公家の日記などに、しばしば尽善尽美(善を尽くし美を尽くす)、あるいは美麗(びれい)、風流(ふりゅう)、優美、過差(かさ)などの用語で、寺院や法会、仏像や仏画の美しさや豪華さについて記されている。その時々の権力者たちにとって善美を尽くして造寺・造仏に取り組むことは、信仰そのものであり、平安末期に至ると、彼らの作善意欲は競い合うようにして極限に達するのである。

描かれた在俗の信仰者たち

 その極致に位置づけられるのが、長寛二年(一一六四)九月に平清盛(一一一八~八一)が一門の男女を率いて写経した『平家納経』(図1、2)である。『法華経』二十八品を各々一巻に仕立て、『無量義経(むりょうぎきょう)』『観普賢経』『阿弥陀経』と『紺紙金字般若心経』(一一六七年に追加奉納)に、清盛による願文を加えた合計三十三巻が、雲龍文をあしらった銅製の経箱に納められ、安芸の厳島神社に奉納された。
 ここに掲げた「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」(図1)では、阿弥陀如来らしき仏に手を合わせ祈る若い女性の姿が描かれている。また、「妙荘厳王本事品(みょうしょうごんおうほんじほん)」にも、二人の女性が手に数珠を持ち光明に向かって一心に祈りをささげている(図2)。金銀に彩られた光に満ちた空間で仏と一体化する、夢のような場面が繰り広げられている。

【図1】『平家納経』薬王菩薩本事品・見返し絵(国宝、広島・厳島神社蔵)
 
【図2】『平家納経』妙荘厳王本事品・見返し絵(国宝、広島・厳島神社蔵)
画像出典:ともに日本美術全集5(2014年、小学館)より

 正しくは『妙法蓮華経』、仏の説く真理を蓮華にたとえ「正しい教えの蓮華」という美しい名で呼ばれるこの経典は、インドで紀元前後に成立したと見られる。その背景には、釈迦入滅後百年ほどを経て、その教団が保守派の上座部(じょうざぶ)と革新派の大衆部(だいしゅぶ)の二派に根本分裂したのを皮切りに、各々がさらなる分流を繰り返し、複雑化した教理が次第に一般の日常生活とかけ離れたものになってしまったことへの反省があった。
 教義の正統性をめぐって対立しがちな部派仏教への批判から、在俗の信者の救済に重きを置く大乗仏教が萌芽し、『華厳経』、『浄土三部経』、『涅槃経』などの初期大乗経典の成立が促される。中でも、この世に存在する一切有情(いっさいうじょう、生きとし生ける全てのもの)、そして草木ですら成仏の可能性があると説く『妙法蓮華経』には、出家を重んじる上座部と在家の信仰に根差す大衆部との摩擦をも超克する、思想的寛容が内包されている点で画期的であった。
 また、『法華経』の教義そのものには深遠で難解な議論が含まれているものの、日常的な譬喩を多く盛り込んだ本文は親しみやすい。分かりやすいたとえ話を満載した仏教説話集としての面白さも備えている。さらに、仏の言葉を韻文で表した伽陀(かだ、偈ともいう)が随所に挿入され、散文と韻文の響きあいの中で世にも妙なる教えが目の前で展開する、壮大なオペラのような経典、それが『法華経』なのである。
 紀元三世紀までには中国に伝来し度々漢訳されているが、中でも鳩摩羅什(くまらじゅう、三四四~四一三)による漢訳が広く流布した。日本へも七世紀にはもたらされ、注釈書の『法華義疏(ほっけぎしょ)』が撰述されるなど早くから高い関心が示されている。平安前期には最澄(七六七~八二二)が天台教学の根本経典として重んじ、法華経講讃(僧侶による法華経の講義)などを通じて貴族社会へも浸透した。
 『平家納経』見返し絵に見る俗体の女性たちは、このような信仰を背景に、法華経によって救われる一切有情の代表としてここに描かれているのである。発願者である清盛の妻時子(ときこ、一一二六~八五)、あるいはこの時まだ数えで八歳に過ぎないが後に高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生む、娘の徳子(とくし、一一五五~一二一四、院号は建礼門院)ら、平家一門の女性たちの姿も重ねられているものであろう。

『平家納経』に見る美の極致

 光そのものであるかのような『平家納経』の荘厳は、見る者を魅了する。各巻には、染紙の裏表を濃彩の絵と金銀箔で豪華に装飾した料紙を仕立て、写経の文字にも墨だけでなく金銀泥や絵具が併用されている。軸の両端に取り付けられた軸首(じくしゅ)には、様々な意匠で彫刻した水晶に鍍金した銀の透かし彫りをかぶせたものや、香木に螺鈿細工がほどこされたものがある。表紙に取り付けた、各巻の章名を記す題箋も銀製鍍金で、そのほか、発装(はっそう、料紙の端を保護する金具)や巻緒の先の金具一つひとつにまで精緻な装飾がほどこされている。
 贅と意匠の限りを尽くした『平家納経』の息が詰まるような美意識は、善美を追求した院政期仏画の装飾的傾向と軌を一にするものである。ただし一方で、中国宋時代絵画の影響も受けながら、色彩の調和や線描の動勢を重視した落ち着いた表現へと変化する同時代の最先端モードからは、わずかに逸脱している。この時期、軍事力と経済力を背景に急速に擡頭した平家一門の周辺で、貴族社会の中枢からは一呼吸遅れて開花した美麗志向が、バロック的な位相をはらみながら過剰な形で顕現したのが、この『平家納経』なのである。願主の清盛をこの写経に駆り立てたものは何であったのか。
 古代・中世の仏教美術において、目のくらむような輝きの背後には、必ず圧倒的な暗闇が存在する。作善の原動力は、時として自らの罪業に対する自覚やおそれに起因する。この世にも稀な装飾経には、清盛やその一門が抱えざるを得なかった暗闇が投影されてもいるのである。

海上の道

 『平家納経』が奉納された厳島神社は、伊都伎(いつき)島神社ともいい、平安時代には安芸国一宮として信仰を集めた。特に、仁平元年(一一五一)に安芸守となった清盛は、海上の守護神としてこれを篤く信仰し、社殿の拡充に努めた。瀬戸内の要衝にある同社は、西国と畿内を結ぶ海上交通の結節点でもあり、その先には、九州北部を経て日宋貿易の道がつながっていた。
 中国との貿易は、元来大宰府が統括していた。ところが、長承二年(一一三三)に来航した宋船に対して、清盛の父である忠盛(一〇九六~一一五三)は、大宰府の関与を退け交易の権利を独占した。忠盛が、鳥羽上皇の近臣として勢力を拡大しつつあった時期である。これ以後、日宋貿易の莫大な利益が、彼ら近臣を潤すだけでなく上皇のもとへも流入し、院政期の経済を支えた。
 宋から九州、そして瀬戸内海を通じて京都へ、という人と物の流れの支配が平家一門に経済的繁栄をもたらすが、これを父から継承して全盛期の平家を率いたのが清盛であった。安芸の厳島神社は、海の申し子ともいうべき清盛にとって、精神的にも、地政学的にも重要な拠り所であったのだ。

武者の世の到来

 清盛が手にしたもう一つの力が、武力である。保元元年(一一五六)、皇位継承をめぐって崇徳上皇と後白河天皇が対立し、後者と結んだ源義朝と平清盛らが崇徳上皇を捕縛し崇徳側の藤原頼長を敗死に追いやった。政争の解決に武力が用いられる時代が到来し、九条家出身の天台座主・慈円(一一五五~一二二五)は、後に自身の著作『愚管抄』において、この時より「ムサ(武者)ノ世」が到来したとの歴史認識を示している。
 いったん開かれた武力解決の道は、さらなる合戦を誘発する。後白河院の近臣らが対立を深めて勃発した平治の乱(一一五九年)においても清盛は目覚ましい活躍を見せ、両度の乱における軍功によって永暦元年(一一六〇)、公卿(くぎょう、太政大臣・摂政・関白以下、参議および三位以上の上級官人の総称)に昇進した。清盛の公卿補任は、富と武力、この二つを駆使する者が世を制す時代の到来を象徴する出来事であった。

減罪への祈りと輝き

 『平家納経』の制作と奉納は、まさにこの時期に行われた。その豪華さから、しばしば、徳子が高倉天皇の中宮となる安徳天皇を産んだ後の、平家一門の栄華と結び付けられる。しかしながら、『平家納経』が奉納された長寛二年(一一六四)から安徳天皇の誕生までには、なお十数年の開きがある。奉納の目的が、清盛の願文に記されているように、一門の繁栄祈願にあることはそのとおりであるにしても、この時の清盛の念頭にあったのは、むしろ自らの来し方に対する滅罪の意識であったのではないだろうか。
 保元の乱に際して、清盛の叔父である忠正は崇徳方について参戦しているが、乱終結後に清盛は彼を自らの手で処刑している。平治の乱においても、首謀者である藤原信頼やこれに与した源義朝ら、数多くの者が死に追いやられた。両度の乱に勝ち抜くことで公卿の地位を得た清盛の背後には、あまたの敗者たちの屍が積み重なっていたのである。武者の世の到来は、それまでは宗教的フィクションでしかなかった殺生の大罪が、生々しい現実となって顕在化する時代の幕開けでもあった。
 血塗られた過去の滅罪、そこに善美を尽くした『平家納経』発願の意図があったのではないだろうか。そのような目でこの絢爛豪華な装飾経を眺めると、見返し絵に描かれている在俗の人々の祈りの姿、特に祈る女性たちの姿が心に迫る。この後の平家一門を待ち受ける栄華と没落の歴史の中で最も大きな苦しみに遭遇したのは、安徳天皇を抱いて壇ノ浦に沈んだ時子や、母と最愛の息子を目の前で失った後に京都郊外の大原にて出家し落魄の生涯を送った建礼門院徳子ら、一門の女性たちに他ならないのである。

関連書籍