ちくま文庫

ハイスピードでドライでときどきヒドい、
男たちの頓珍漢世界

『ロボッチイヌ 獅子文六短篇集 モダンボーイ篇』編者解説

3月刊行のちくま文庫新刊として、そして2冊同時刊行という形で、遂に実現した獅子文六初めての短篇小説集!! その編者おふたりの解説を公開します! これまで〈幻〉だった獅子文六の短篇集の手引きとしてぜひぜひお読みください!!! 

 本書は獅子文六の短篇小説を集めた、はじめての文庫本です。『モダンガール篇』と同時刊行しました。女性のカッコよさに溢れた『モダンガール篇』から一変、当『モダンボーイ篇』には男の(男の子の)頓珍漢さが充溢しています。
 初出がわかっているものでいちばん古いものは一九三五年、新しいものは一九六五年に発表されました。この三〇年は、獅子文六の小説家としてのキャリアのほぼ全域を覆っています。
 ハイスピードな展開、ハイパードライな笑い、少々乱暴な(=ヒドい)ディテールなど、昭和のコンテンツならではの魅力が、いま読むとほんとうに新鮮です。

 まず冒頭の「ライスカレー」を読んでみましょうよ。時代は一九三〇年代中盤か後半か。下町の洋食屋「カイカ」の、夏の一夜。下働きの福太郎、通称フー公は、いまは芋剝きの仕事に甘んじているが、ゆくゆくはヨーロッパ式の本格レストランを開店したい。その夢を女給のおキミちゃんに語っている。彼女のほうでもフー公の夢を応援したいようだ。
 ちくま文庫で獅子文六をお読みのかたはピンとくるでしょう。一九六〇年(昭和三五)に刊行された『七時間半』の、国鉄の特急列車の食堂車で働くコック助手で、将来はホテルか一流レストランのコックとして働きたいと思っている喜イやんこと矢板喜一と、食堂車で〈会計さん〉(ウェイトレスのリーダー)を担当している藤倉サヨ子。フー公とおキミちゃんは彼らのプロトタイプなのです。
 フー公は流行らない洋食屋を早いこと卒業したい。〈カレーライスだの、ハヤシライスだのってえものは、洋食じゃアないンだぜ。あンなものを喜んで食うのは、ここの店へ来るようなお店者ぐらいなもンだ〉。どうでもいいけどこの台詞一箇所だけは〈ライスカレー〉じゃなくて〈カレーライス〉って言ってるなー。
 さてフー公は、おキミちゃん目当てに長っ尻をきめこむ常連客・上総屋の若旦那が気に喰わない。その若旦那が、よりによってフー公が忌み嫌うライスカレーをあてつけのように註文した。ライスカレーを拵える(ったって、若旦那も言うようにヨソって掛けるだけなんだけど)のはどうしても厭だ、とフー公はゴネる……。
『七時間半』には食堂車チーフコックの渡瀬というメンター的なキャラクターがいましたが、カイカの老コック・柴崎も好印象です。フランス領事館附きシェフ上がりの明治男。新しいことは知らないが、ホンモノの西洋料理を知ったうえで「洋食」という日本のキメラ文化の世界で生きている。なんだかパリの芝居修業で西洋モダニズム仕込みのセンスを学んで、それを日本語の小説にソフトランディングさせた獅子文六当人みたいな人ではないか。
『七時間半』の原型みたいな人物造形。そして店の客席と調理場を舞台にするのは、なんだかよしもと新喜劇のよう。ビジネスとプライドと恋の鞘当ての三つ巴をコミカルに描きはじめて、こりゃいい話だ! と思って読んでたら……
 終盤の展開がヒドいんです。
 いまの僕らだと、この結末は「あんまりだ」で、「読者を引かせないような展開がほかにもっとありそうなものだ」で、「フー公やおキミちゃんや柴崎への感情移入が一気に冷めた」で、「こんな店はイヤだ」なわけです。現在の笑いの許容範囲から逸脱している。べつの意味で笑うしかないほどヒドい。
 でも作者も、そしておそらく当時の読者も、これを笑いの許容範囲だと、そしてなんなら「いい話だ」と思っていただろうことはなんとなくわかる。コンテンツ受容のコードがいまと違うんです。
 獅子文六の小説は最近、「まったく古びていない」「いま読んでちょうどいい」などと言われることがありますが、そうではありません。「ライスカレー」を読めば、僕がさきほど〈少々乱暴な(=ヒドい)ディテール〉と書いたことの意味がおわかりになると思います。
 いい湯加減だと思って油断してると「ああこれはいまだったらアウトだな」というところが唐突に出てくる、そういうおもしろさもあるんです。そしてこれは、リアルタイムの読者がしなかった、後世の僕らにこそ可能な楽しみなんですよ。だからいま流行りのコンテンツも、僕らの孫世代の読者・視聴者にはべつの楽しみがあるって話ですね。

 以下、駆け足で昭和男たちの頓珍漢世界をご紹介します。
「ロボッチイヌ」「銀座にて」はSF的着想、「先見明あり」「次ぎの日米戦」は未来小説ということで、この四篇をまとめました。「銀座にて」「次ぎの日米戦」は冷戦を題材にした掌篇で、前者は獅子文六より、八歳歳下の稲垣足穂の初期作品「星を売る店」を思わせる着想がノンセンス。獅子文六も稲垣足穂も、港町育ちはお洒落だなあ。
「ロボッチイヌ」は、男の性欲を処理するガイノイド(女性型アンドロイド)という着想も、またオチも、予想外に現代的です。そのいっぽうで〈人工売女〉の名称をはじめ、やっぱり乱暴な細部もたっぷり。なお、この作品の二年前に、星新一が性欲処理装置を題材とした「セキストラ」で商業誌デビューしています。
「先見明あり」も生殖をめぐる話。おそらく戦争が本格化して、世のなかが産めよ増やせよ大陸雄飛だとイケイケだった一九三七年(昭和一二)の作でしょう。一三年後の近未来、一九五〇年には、軍人さんがますますモテモテ、そして〈独身税〉〈無子税〉が導入されている。
 現実の一九五〇年(昭和二五)の日本はというと、敗戦後の連合国占領下でした。この時期、獅子文六は本作を改訂して「丸茂理助の先見」という新ヴァージョンを発表し、作中で旧作について「自分は未来を予見できなかった」と反省しています。でもいっぽうで、現実の二〇一七年には、国会議員が税収アップと少子化対策を兼ねた〈子なし税〉を提唱して物議を醸したせいで、べつの意味でいま読んでずいぶんタイムリーに感じます。比べて読むとおもしろいのですが、紙数の都合で収録を見送りまた。
「桜会館騒動記」「芸術家」「羅馬の夜空」「われ過てり」はフランスを舞台とした作品。獅子文六には若いころ住んでいたパリの日本人社会に材を採った小説が長短各種あります。そこから「桜会館騒動記」「芸術家」を選びました。「芸術家」は「ライスカレー」と逆に、ヒドい話と思わせておいてじつはそうでもない話です。フランスが舞台なのに「羅馬の夜空」という題なのは、作中人物がローマ生活を回想するから。これと「われ過てり」の二篇は、ひょっとしたらなんらかのフランスのコントを粉本とするものかもしれません。
「桜会館騒動記」の舞台は、富豪・佐倉八右衛門の寄附でパリに建てられた日本学生会館、通称〈桜会館〔メーゾン・サクラ〕〉。爵位を持たぬのにバロン薩摩の異名で知られる実業家・薩摩治郎八が一九二九年にパリ市内の国際学生都市に私財を投じて建てた薩摩基金(フォンダシオン・サツマ)/ 日本館(メゾン・デュ・ジャポン)をモデルにしています。獅子文六は薩摩治郎八をモデルに『但馬太郎治伝』(講談社文芸文庫)という小説も書きました。林芙美子の随筆にも出てくるこの寮は、いまも現役です。僕もパリの留学生活の最初の一年はここに住んでいて、「桜会館騒動記」作中に出てくる藤田嗣治の大壁画は毎日見てました。当時はありがたみを感じてませんでしたけど……。
「霊魂工業」「伯爵選手」「文六神曲編」「南の男」は幻想小説ないし「幻覚小説」であり、「南の男」は獅子文六自身の小説『南の風』の、メタフィクショナルなスピンオフでもあります。
「文六神曲編」「南の男」が私小説的な体裁で書かれているとおり、戦後の獅子文六には『娘と私』など、自身の体験をダイレクトに書いた(ように読ませる)作品もあります。そのなかから、回想モードで書かれた「愚連隊」「ヒゲ男」「因果応報」を選びました。とりわけ「因果応報」の幼い男の子の風情がとてもかわいらしくて好きです。回想録的短篇は、本短篇集『モダンガール篇』にも「待合の初味」が収録されていますよ。
「金髪日本人」「レモネードさん」「桜桃三塁手」は以上のどれにも当てはまらないものを「その他」的に最後に置いたつもりだったけど、まとめて読むといずれも国境や性別といった「境界」を侵犯するような話でした。これはまったくの偶然です。

 少々意外な話をしますと、獅子文六の短篇集が文庫本のかたちで編まれるのは、この『獅子文六短篇集』全二冊がはじめてのことです。
 獅子文六が本格的に小説家として活動しはじめたのは四〇歳を過ぎてから。その一九三〇年代なかばからの、太平洋戦争をはさんだ約三五年間、売れっ子でない時期がほとんどなかった。死後一〇年ほど過ぎた一九七〇年代末までは、角川文庫・新潮文庫などで多くの小説がかんたんに入手できたんです。
 獅子文六は昭和のそんな流行作家でしたけど、文庫本で読めるのはいずれも長篇小世界説か、せいぜい長めの中篇小説。獅子文六の小説がコンテンツとして現役だった時代にも、文庫版の獅子文六短篇集って、僕が知るかぎり、ないんですね。あったらごめんなさい、僕の不勉強です。新潮社の《小説文庫》というレーベルから一タイトルだけ短篇集があったらしいんですが、この《小説文庫》は新書判に近いサイズだったらしい。
短篇小説が少なかったわけではありません。短篇集は単行本で何冊も出ています。獅子文六はたしかに長篇小説、それも雑誌・新聞連載を主体とした作家で、本書の底本である朝日新聞社版『獅子文六全集』全一五巻+別巻一でも、短篇小説の収録巻は第一一・一二巻の二巻でほぼ足りています。でもびっしり二段組で組んだ同全集のこの二冊は、併録されたジュヴナイル小説二篇を除いても約一〇〇〇頁あり、全部を本書のように組むと、文庫本七冊くらいは余裕でできてしまう。
 けれど「文庫本」というビジネスモデルは、初期には古典や翻訳が中心でした。もちろん日本の現役作家の作品が文庫化される例も初期からあるにはあるのですが、現在に比べると、文庫本レーベルの数が圧倒的に少なかった。ある程度売れた小説が三年で文庫化するいまとは違う。
 獅子文六を含む現役作家の作品がさかんに文庫化されていくのは、たぶん一九五〇年代からでしょう。またメディアミックスが多かった獅子文六は、いきおい長篇小説が看板、短篇小説は裏芸のようなあつかいだったのではないでしょうか。僕自身、一九九〇年代末から二〇〇〇年ごろにかけて古書で『獅子文六全集』を読んだ動機は、その数多い長篇小説を読みたかったからです。
 そういうわけでちくま文庫のこの二点は、記念すべき最初の獅子文六文庫版短篇集となりました。

 本書は千野帽子編となっていますが、朝日新聞社版全集の第一一・一二巻からどの作品を『獅子文六短篇集』全二冊に選び、どのようなコンセプトで二冊に振り分けるか、という作業の全体が、『モダンガール篇』解説者の山崎まどかさんとの共同作業でした。したがって本書は実質上「共編」です。
 僕が当初あまり推さなかった作品(「レモネード」など)が山崎まどかチョイスで推されているので読み直し、僕が気づかなかった魅力を発見して採録することもありました。まるで句会のように創造的な作品選定過程でした。山崎まどかさん、そして企画を立ち上げてくださった筑摩書房の窪拓哉さん、ありがとうございます。

 二〇一八年正月、神戸

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