日本人は闇をどう描いてきたか

最終回 平治物語絵巻 ――生死を分かつ、合戦へのまなざし

日本美術にはただ美しいだけでなく、怖さ、暗さ、不気味さを帯びた作品が数多くある。なぜ闇が描かれるのか、その先にある救い、そして笑いとは――作品に即して読みとく、闇からの日本美術入門。最終回は、武者の世の幕開けを描いた作品から。

軍記物語の登場

 保元の乱(一一五六)と平治の乱(一一五九)、十二世紀半ばに連続して起こった二つの内乱は、まさに「ムサ(武者)ノ世」(『愚管抄』)の幕開けを告げる出来事であった。
このような時勢と軌を一にして、軍記物語と呼ばれる、合戦を主題とする文学が成立する。ただし、初期の作例と見られる『将門記(しょうもんき/まさかどき)』や『陸奥話記(むつわき)』に取り上げられたのは、十世紀の関東で起こった平将門(たいらのまさかど、生年不詳~九四〇)の乱や、十一世紀の奥州で起こった前九年の役など、平安末期の京都に住む人々にとっては、時代も場所も遠く隔たった戦の記憶であった。

描かれた戦

 同じ頃、合戦を主題とした絵巻も登場する。承安元年(一一七一)に、後白河上皇の命で、永保三年(一〇八三)の奥州で源義家が起こした後三年の役を主題とする四巻の絵巻が作られた(『吉記(きっき)』承安四年三月十七日条)。完成後は蓮華王院宝蔵に収蔵され、同上皇の絵巻コレクションの一角を成した。
 この絵巻は現存しないものの、その図様は貞和三年(一三四七)に天台僧玄恵(げんえ)周辺で制作された六巻本に継承されたらしく、貞和本の後半三巻分の写しである東京国立博物館蔵「後三年合戦絵巻」がその一端を伝えている。矢を受けて負傷する者、その荒々しい治療の場面、打ち取られた生首等々、凄惨な場面が執拗に続く。東博本の制作は十四世紀前半と見られるが、本作を通じて、貞和本、ひいては承安本の図様を推定することができる。
 承安本にさかのぼって、残虐な戦闘シーンが多く描かれていたとするならば、同時代の「地獄草紙」や「餓鬼草紙」における人知を超越した怖さとは別種の、人間が為し得る暴力という現実味を帯びた恐怖の表現として理解できる。現前しつつある合戦の時代を、過去の戦になぞらえ可視化する。保元・平治の乱の当事者であり、武力による紛争解決という禁断の扉を開いた後白河上皇にとって、過去の合戦を掘り起こし、絵巻という媒体を通じてたどることは、武力によって勝ち取った自らの王権を正当化する上でも不可欠な戦略であった。そしてそこには、「つわもの」すなわち武芸を操る者たちを掌握し、意のままに采配を振るいたいという王権主宰者の欲望が垣間見られる。

『平治物語』の成立

 ところが、続く時代に、今度は後白河上皇と息子の二条天皇、王権そのものが軍記物語の中に搦めとられていく。十三世初頭に成立した『平治物語』である。
 保元の乱後に溝を深めた、藤原信頼・源義朝一派と信西(しんぜい、俗名は藤原通憲)・平清盛一派は、次第に対立を激化させる。平治元年(一一五九)、清盛が熊野詣でに出かけた隙をついて、信頼・義朝の兵が後白河上皇御所の三条殿(さんじょうでん)を夜襲し上皇を連れ去って二条天皇ともども大内裏に幽閉。その後、騒乱の知らせを受け急ぎ都に戻った清盛が、大内裏から天皇を奪還し自らの拠点六波羅に迎えると同時に信頼・義朝に反撃を加え、最終的に両者を討ち取った。
 この戦は、京都における平氏の覇権を確固たるものにし、天皇・上皇や貴族らに政権維持における武力の必要性を痛感させる出来事であった。『平治物語』は、この一連の内乱を主題にした軍記物語である。保元の乱に取材する『保元物語』から『平治物語』へ、そして『平家物語』を経て、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して挙兵して敗れた承久の乱を記した『承久記』へ、物語の視点や主張にはおのおの違いがありながらも、中世初期に成立したこれらの軍記物語を通じて「武者の世」の到来があざやかに浮かび上がってくる。
 とりわけ『平治物語』では、いずれも後白河上皇の近臣であった信頼と信西の人物評から物語を語り起こし、合戦の原因を両者間の軋轢や対立に求めている点が興味深い。人と人とのわずかな思惑のずれが、最終的には上皇や天皇までも巻き込んだ騒乱へと発展する。このような歴史観は、登場人物同士の人間模様を緻密に盛り込みながら源平合戦の推移を語る『平家物語』にも通じよう。

軍事パレードとしての六波羅行幸

 『平治物語』は、物語の成立からそれほどの間をおかずして絵巻化されたようで、現存する米国・ボストン美術館蔵「三条殿夜討巻(さんじょうでんようちのまき)」、静嘉堂文庫美術館蔵「信西巻(しんぜいのまき)」、東京国立博物館蔵「六波羅行幸巻(ろくはらぎょうこうのまき)」は、十三世紀後半ごろの制作と推定されている。また、これに続く「六波羅合戦」を描いた巻もあったようで、いくつかの断簡が国内外に伝来している。
 ここに掲げた「六波羅行幸巻」(図1・2)では、大内裏から奪還された二条天皇を乗せた牛車が、平氏の軍勢に警護されて六波羅まで移動する様子が、あたかも華やかな軍事パレードのように描かれている。

【図1】「平治物語絵巻」六波羅行幸巻(国宝、東京国立博物館蔵)
【図2】「平治物語絵巻」六波羅行幸巻(国宝、東京国立博物館蔵)
画像出典:図1、図2ともに日本美術全集8(2015年、小学館)より

 詞書の冒頭には「主上(二条天皇)また、六波羅へ行幸なる女房の姿をかりて、御かつら(鬘)召し、かさなりたる御衣をたてまつる。北陣に御車を設けて乗せたてまつる」とあり、二条天皇が女房の姿を借りて(つまり女装して)厳重な警備をすり抜けて、幽閉先の三条殿を牛車で脱出した様子が臨場感あふれる描写で記されている。
 緊迫する内容の詞書とあいまって、この場面に描かれた武士の姿にも、きびきびとした動勢がみなぎる。大きな牛に牽かれた八葉車(はちようのくるま)が、左右に分かれて整然とかしずく平氏の武士たちの間を悠然と進み(図1)、車の背後には騎馬の一群が続く(図2)。

京都の守護神としての武士

 ここに描かれているのは、東国に跋扈する遠い昔の荒々しい武士ではなく、都の中枢で王権を守護する洗練された軍事貴族の姿である。「平治物語絵巻」には現存三巻を通じて四百人近い武士が描かれており、その一人一人が着用する鎧や兜の精緻で色鮮やかな描写が、華やかなこの絵巻の最大の見どころともなっている。続く詞書に「兵の数、百騎御むかへにまいりたり、(天皇は)其時こそたのもしく思しめされけれ」と、平氏の兵百騎に心から信頼を寄せる二条天皇の心情が書き記されている。「平治物語絵巻」では、武力だけではなく、贅と美を尽くした武士たちのいでたちにも熱いまなざしが注がれていた。
 院政期に連続した京都での合戦が、武家の力を権力構造の中枢に呼び寄せ、公武が結びついた新たな政治形態が誕生する。そして本格的な武家政権が、この後、平氏を滅ぼした源頼朝によって実現することとなる。ただし、東国から現れ最終的に鎌倉に戻って幕府を開いた「姿の見えない武士」頼朝よりも、京都の人々の記憶に長らくとどまったのは、清盛に率いられたきらびやかな平氏一門の人々の姿であったのではないだろうか。彼らの姿は、その滅亡後も数々の軍記物語として語り継がれてゆくのである。

(参考;「平治物語絵巻」は、e国宝サイトで参照することができます。)

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