ちくま学芸文庫

『三河物語』の世界

3月刊行のちくま学芸文庫『現代語訳 三河物語』(大久保彦左衛門著、小林賢章訳)より、「訳者解説」を公開いたします。「門外不出」とされながらも江戸時代にはさまざまな版本が流布し、広く読まれていた『三河物語』。そこにはどのようなことが書かれ、大久保彦左衛門はどんなメッセージを遺そうとしたのでしょうか。

1 『三河物語』の成立

 江戸のはじめ、ひとりの老人がいた。名を大久保彦左衛門尉忠教(おおくぼひこざえもんのじょうただたか)といった。戦国と呼ばれた時代を生きぬいてきた老人の精神のよりどころとて、ただひとつきりなかった。それは三河国松平郷の一豪族であった松平氏が、その名も徳川と改め天下を掌中におさめるまでに、みずからを含んで大久保一族の者はただいちどとして主君徳川家を裏切ることなく、忠勤これはげんできたということであった。老人はそれを子供や孫たちに自慢顔に話して聞かせていたのであろう。『三河物語』のひとつひとつの話のはじまりのいくつかが「子供よく聞け」といった表現ではじまっていることでも、そのことは推測できる。
 そんな日々をすごしているうち、老人は自分のまわりをみなおして、ある感慨に打たれた。戦国の巷(ちまた)をともに戦った、いや、老人とその仲間にとっては戦うこと、すなわち生きることだったのだから、戦国の世をともに生きぬいた人びともその多くが他界し、のこる者とて老人ばかりであることだった。老人の体を火花が走ったにちがいない。戦国の世を筆に書きのこせるのは自分以外にいない。老人はなれぬ手つきで筆をとった。松平親氏にはじまり、徳川家康にいたる徳川家歴代をたて糸に、大久保一族の活躍をよこ糸に、その物語は織られていった。しかしその叙述はおせじにもうまいものとはいえなかった。他の書物からまるまる抜きだしてくるのは、彦左衛門だけがしたというわけではなく、その当時としてはあたりまえのことだったのでおくとしても、おなじことが二度三度と書かれたり、ときの流れを逆にしたり、さらにまずかったことは、当時の口語(俗語というが)をつかって書いたために、へたな文章をより難解にする結果となった。
 しかしこの老人は、そうまでしてこの膨大な書を書いたのである。老人のエネルギーはすさまじいものであったのであろう。もちろん大久保の家に対する自負や、子孫に以後も忠勤にこれはげんでほしいという気持ちがエネルギーの大半であったろうが、『三河物語』を読んでいくとそれだけではなかったことに気づく。
 主家の歴史をえがく『三河物語』のそこここに、主家に対する不満が顔をのぞかせるのである。武が文に優先した戦国時代は終わり、文が武に優先する徳川260年の基礎が着々とかためられていくころ、武一辺倒に生きてきた三河以来の譜代の臣が冷遇されることが多々あった。大久保一族もその例外ではなく、大久保本家の大久保忠隣(彦左衛門の甥)も慶長19年(1614)罪をこうむり、小田原6万5千石のお家没収のうきめにあっている。そうなって大久保の家のおもみを双肩にになうことになった彦左衛門自身、2千石どりの旗本にすぎなかった。戦国と呼ばれた時代を生きぬいてきた老人にとっては、人生をはかる尺度とて、戦国時代のそれしかなかった。時代が着実にうつり、管理社会、文民社会のなかでは口のじょうずな者、腰のひくい者、ときにはワイロを贈る者が、主家とともに苦労してきた者の上位に立つことになった。彦左衛門はそのことに強い憤りをおぼえたろうし、おなじ思いの人びとも多かったと思われる。そこにこそ、この書がつくられるエネルギーがあったのではなかろうか。そしてそんな人々にこの書は好感をもって受け入れられたのであろう。江戸時代には刊行こそされなかったが、成立当初からさかんに書写が行われ、江戸初期のものも含めて、写本が多数のこされている。

2 大久保彦左衛門について

 一般に大久保彦左衛門は“彦左衛門”と呼ばれ、わたしもここまでそう呼んできた。しかしより正確には大久保彦左衛門尉忠教という。忠教が実名、彦左衛門尉が通称である。古来、実名が歴史上の通り名になった人もあれば、通称や雅号が通り名になった人もある。しかしその通称にも“尉(じょう)”一字だけちがいがあるのはなぜであろうか。
 中世で、何左衛門尉・何右衛門尉といわれていたものが、江戸では、何左衛門・何右衛門に変化する。彦左衛門が生きた時代はちょうどその過渡期であり、もはや何左衛門尉と“尉”の字が書かれることなく、わずかに門の中にいの字のような二つの点を打って、尉の存在を示すだけになっていた。読みも「のじょう」を読まなくなっていたのであろう。だから、江戸の人びとが彼を彦左衛門と呼んだとしてもなんの不思議はないのである。
 さて、大久保彦左衛門とはどんな人物であったのだろうか。彦左衛門は永禄3年(1560)に生まれ、寛永16年(1639)に、80歳で死んでいる。戦国時代から江戸幕藩体制の完成期を生きたことになる。彦左衛門の生まれた大久保家は、代々武勇をもって、三河松平家に仕えた名門であった。彦左衛門は父大久保忠員(天正10年卒)の10人の男子の8番目に生まれている。父忠員の晩年に生まれた彦左衛門は父よりはむしろ長兄忠世(文禄3年卒)にしたがって戦の場をかけめぐっている。
 彦左衛門はたしかに勇敢であった。「ヤアヤアわれこそは十五の年より……」という例の名文句もまんざら嘘八百とはいえないようだ。
 しかしここに彼の人となりを知るひとつのおもしろい資料がある。それは、現在小田原城天守閣に展覧されている彦左衛門の手紙である。これは彦左衛門が、その時期はよくわからないが、いずれにしても彼の晩年、その知行地の代官吉野某にだしたものである。そこには彦左衛門のチビ筆で「最近年貢の収量が低下している。これは知行地(ちぎょうち)の責任者であるおまえがサボってばかりいるからだ」として、それ以下、刈った麦を利用して堆肥をつくれなど細かにのべている。
 多くの方はこの手紙の真偽を疑われるかもしれない。しかしこの手紙は彦左衛門の独特な書風で書かれており、まがうかたないほんものである。
 なぜ疑問に感じられるかというと、彦左衛門といえばツルの折れた眼鏡をゴムでくくりたらいに乗って登城し、天下の御意見番として将軍に直接御意見を申しあげる。ついでに一心太助とやらいう威勢のいい魚屋まで登場する。彼は、いつのまにか千葉県の八街道の出身であることになっている。その一心太助とともに、市民を助けたり、時には捕り物まで行う。そんな彦左衛門のすがたを講談その他で知識としてえているからであろう。彦左衛門はけっしてそんな人物ではなかった。いわばどこにもいるありふれた三河譜代の旗本彦左衛門なのである。しかしこんなことをのべるのがおかしいのかもしれない。あの江戸幕藩体制のなかで、一介の旗本が将軍に意見を申しのべるなどということはできるはずもなかったのだから。
 本書を読むには、彦左衛門についての先入観はすべてすててかかったほうがよいようである。大久保彦左衛門、それは戦国を生きぬいたひとりの三河武士だった。ただ、江戸時代も時代が落ち着いた寛永時代(1624~44、ただし、彦左衛門は1639年に死去)ごろになると昔の戦さ話を将軍を初めとする高位者に話をする「御伽衆」と呼ばれる人々が登場した。彦左衛門も晩年にはそうした役職になっていたのであろう。

3 『三河物語』の構成

 『三河物語』は大久保彦左衛門によって書かれた。それは間違いない。『三河物語』の原本は彦左衛門の自筆だからである。我が国古典文学の多くがその作者の名をあきらかにしえないのが現実である。そんな中で、『三河物語』の作者は大久保彦左衛門と断言できるのは、彦左衛門自筆の『三河物語』がのこっているからである。日本の多くの古典籍は、ほとんどが写本として伝えられ、『三河物語』のように、作者自筆の本が伝わっているというのはひじょうに珍しいことで、『三河物語』を読む者にとってはこのうえない幸運といえよう。
 自筆の本があるのだから、それ以外の写本をみるにはおよぶまいと考えそうだが、どうもそうはいかない。二つの意味で写本も見ておかなくてはならないのである。一つはそれらの写本は『三河物語』の成立の過程をわれわれに教えてくれるからである。今一つは『三河物語』がどのように作られたか、どんな資料を使ったかを教えてくれるからである。
 『三河物語』の諸本の数はたいへん多いのだが、だいたい大きく三つにわけられる。
(1)元和8年(1622)の奥書きをもつグループ。下冊の後半がない。
(2)寛永2、3年(1625、26)の奥書きをもっグループ。上・中冊のみ、下冊は現存していない。
(3)自筆の本。
以上である。
 これら三つのグループの関係をのべるまえに、ひとつのことをのべておきたい。日本の、すくなくとも中世や近世という時代に、歴史を書くという行為はどういうことであったかということだ。
 ここにひとつのおもしろい資料があるので紹介しておこう。それは『相州兵乱記』(室町時代末)という本の序文である。そこで作者はこの『相州兵乱記』をどういうふうに書いたかをのべている。

自分の先祖五代は北条氏の御家人として活躍した。そのあいだの敵味方の合戦の記録を記しおいてくれたのが数十冊となった。才覚がなく、文章の不明なところや、異説も多く、これを他人にみせなかった。わたしはその書を受けついだ。また近年のこともひろい集めた。それらを重撰してこの書をつくった。

 というのである。しかしこの「重撰」という行為は一般に、先行の文献を利用して、糊と鋏で新しい本をつくるということだったようだ。現に『相州兵乱記』はそうしてできている。ただこれだけで歴史が書けたというわけではないようで、これに中国や日本の故事や成句を付して評を加え得て、はじめて歴史書が書けたということになったようだ。この評に使う名句、名文を類従した本を「類書」とか「金句集」と呼ぶ。
 どうも『三河物語』も、下冊をのぞけば、そんなふうにしてできたもののようである。もちろん当時においては歴史を書くというとき、先行書を引用していたのだから、そのことで、彦左衛門の才能を疑ったり、彦左衛門はズルかったのではないかと邪推するのはやめにしよう。

 そんな一般的な事実と、(1)のグループには(2)や(3)のグループにみられる評句がなく、(3)は(2)の本文に手を加えたあとがあるといった(1)(2)(3)のそれぞれの性格を考えあわせると、以下のように『三河物語』ができていったようすが想像される。
 『三河物語』が書きはじめられたのは、元和8年頃で、そのとき、上・中冊と下冊の前半が書かれたが、それは単に資料を集めたにすぎなかった。この段階の本が(1)のグループの本である。つぎに寛永2、3年頃2回目の編集が行われた。その段階で評句も加えられ、ほぼ『三河物語』が完成したと思える。この段階の本が(2)のグループの本である。下冊は現存していないが、本来は存在していたのであろう。下冊の後半がその段階ですでに加えられていたかどうかはわからないにしても、それ以後おそらく彦左衛門が死ぬまで、手もとにおいて筆を加えていったのが(3)の自筆の本なのであろう。自筆本が彦左衛門の最終稿、他の異本は『三河物語』の成立してゆく過程の本と思える。それで本書では自筆本を底本として、口語訳を行った。

4 『三河物語』の本文と表記

 大久保彦左衛門という名にくらべると『三河物語』という名はあまり有名とはいえない。彦左衛門という名は特別な意をもってつかわれた名だからおくとしても、『三河物語』よりは有名であろう『信長記』『太閤記』『葉隠』などにくらべても、けっしてその内容のおもしろさは劣らないと思うのに、なぜそれらほどに名をあげえないのだろうか。
 いや、右にのべたことはより正確にのべねばなるまい。『三河物語』は江戸時代出版こそされなかったが、その写本は相当な数にのぼる。こんにちでも古本屋の目録にしばしばその名がみられるくらいだから。つまり『三河物語』は、江戸時代には興味深い書物として、他の古典籍がそうであるように、写しとられ、書きつがれていったのである。
 では、それがなぜこんにち読まれなくなったのであろうか。一にも二にも『三河物語』の本文が難しいからである。
(1)特異な漢字を使っている。
  遖―カナシ 筩―サカヅキ 犇―ハシル 覩―ミル、など。
(2)口語そのままに書いてあるため、文が読みとりにくい。
 こんにちわたしたちは、「ワタシタチワ」や「トウキョウエ」と書く場合は、「わたしたちは」「とうきょうへ」と書く。口で言うままに書くのではなく。読みやすいように考慮をして書く。ところが『三河物語』では、たとえば「ネンブツオ」や「カンノンオ」と書く場合、当時は前者を「ネンブット」、後者を「カンノンノ」と発音していたので、そのまま「念仏と」「観音の」と書いたりしてある。これではこんにちわれわれが読むには読みづらいことこのうえない。というより、一般の人は読めないだろう。
(3)彦左衛門の字そのものが、読みにくい字であった。
 こんなことがあげられる。
 そんなことから、明治時代に勝海舟に「彦左衛門は無教養だったのだろう」(『海舟座談』)といわれることになって、それ以後、彦左衛門は無教養だったと説く人がいた。しかし『三河物語』を読んでいくと、そこここに『曽我物語』や『法華経』などからの引用がみられ、また、『信長記』はうそが多いといっているから、それらの書を読んでいたと思われ、読んでいたとするなら、一般的な教養はもっていたと思われる。
 (3)はともかく、なぜ一般的な教養をもっていた彦左衛門が(1)や(2)の文章を書いたのか、今後くわしく調べねばならないだろう。いまのところ不明としておく。しかし(1)(2)(3)のような事項はけっして彦左衛門が無教養であったからというのをその理由とはしないようである。
 ともかく、そんな難解な『三河物語』だから、ここに口語訳する意味もすこしはあろうかと思われる。

5 『三河物語』の魅力 

 『三河物語』は魅力あふれる書である。その魅力はいくつもあげうるが、ここでは二つだけをあげ、その他の魅力の発見は読者のみなさんにおまかせしたい。
 魅力の1――、
 武士とか侍とかいう言葉を聞くと人はどんなことを想像するであろうか。美々しい鎧兜に身をつつみ、白馬にまたがる若きつわものであろうか。それとも長刀を小脇に額を真赤に染めた敗残の荒武者であろうか。『三河物語』に登場する武士たちも戦いの場ではそうである。しかし、武士とか侍とかがそれだけに終わったのではあまりに絵空事ではないだろうか。多くの軍記物語は夢の世界、絵空事の世界で終始しているが、『三河物語』ではそうした勇敢な武士が戦いの場から離れたとき、農作業に従事していたこともきちんと書いてある。戦国時代を生きぬいた三河武士たちが絵空事のようにきれいなばかりでなかったことを教えてくれる。そこに土くさい人間がいる。ほんものの戦国武士の生きざまをみるように思える。そんな戦国武士の土くさい面までを書き記した書物はすくなく、その点『三河物語』は興味をそそられる書といえよう。
 魅力の2――、
 軍記物語とか合戦譚というものは、多くがそれを遠くからみていた人、あるいはその話を耳にとめた人によって書かれている。実戦に参加した人がみずから書くということはそう多くはない。
 ところが『三河物語』は彦左衛門も、彦左衛門に資料を提供したであろう父や兄たちも、みずから戦いの場をかけめぐっていた。それで、多くの合戦譚が戦いを客観的にとらえているのにくらべると、戦いを眼前のものととらえる微視的描写が多い。『三河物語』は読む者を戦いの場そのものにひきずりこむ。彦左衛門やその他の人の目や耳をかりて、自分自身が戦いのその場にいるような緊張感に読む者をひたらせる。
 実戦に参加した経験をもつ人だけが書きうる戦場での緊張感を『三河物語』はもっているように思われる。

6 『三河物語』の人生訓話

 これも『三河物語』の魅力のひとつかもしれないが、彦左衛門のとらえる人生観は、当時の武士の心情を知るということで、ふり返って自分自身の生きざまを考えるうえで、興味深い。『三河物語』は彦左衛門がその子孫にのこした遺訓の書であるから、そこには多くの訓話が載っている。その一端を示す。
 彦左衛門はこんな人は出世するという。

 一、主君を裏切り、主君に弓をひく者
 二、卑劣なふるまいをして、人に笑われるような者
 三、世間体のよい者
 四、算盤(そろばん)勘定のじょうずな者
 五、どこの馬の骨かわからないような者

 またこんな人は出世しないという。

 一、主君を裏切らない者
 二、戦いだけに生きる者
 三、世間づきあいの悪い者
 四、ものごとに計算ということをしない者
 五、長く主君に仕えつづける者

 こうまとめておいて彦左衛門は後者の生きかたをしろという。なにより名誉というものがたいせつなのだからと。
 そうはいうけれどもそれはなかなか難しい。これらのことは今でもそのままあてはまるし、多くの人はここまではよくわかっているのであろうが、彦左衛門のように、その先「名誉に生きろ」といいきれるかどうかは別問題である。視点を変えてみると戦国の時代から、平和な時代へと変化する時に生きた彦左衛門が、それぞれの時代に要求される教養・生き様を理解できなかったとも言えよう。
 今も昔も、人間のする苦労はおなじようなものである。

7 『三河物語』のもうひとつの意図

 彦左衛門自身にいわせれば、『三河物語』を書いた目的は、三河松平郷の一豪族であった徳川氏が天下を掌中におさめるまでに、大久保一族がどれほどに忠誠をつくしたかを記すことで、それゆえにまた以後も忠勤にこれはげまねばならぬことを子孫に示そうとするところにあるという。したがってこの書は門外不出であり、他人にみせてはならないと続けている。
 ところが、その意に反して『三河物語』は多数写されていることはすでにのべた。しかも彦左衛門の生前から写されていたようだと、「『三河物語』の構成」のところでのべた。とするなら、彦左衛門は『三河物語』が書写されるのを黙認した、いやその写本の数が多いとするなら、たてまえでは他人にみせてはならないといいながら、本音は他の人にも読んでもらいたかったのではなかったろうか。
 これをもうひとつうがってみるなら、彦左衛門はこの書を書く当初から、他人にもみせるのを企図していたのではないだろうか。この書を他人に読んでもらうことで、大久保一族のすばらしい活躍を、大久保家の由緒正しい家筋をひとりでも多くの人に知ってもらうことをねがい、落日の大久保一族の代表者として、そのことが、昔日の大久保一族の繁栄をとりもどすのに、なにがしかの貢献をするのではと、期待したのではないだろうか。
 このことが、彦左衛門が『三河物語』に託したもうひとつの意図であり、真の意図でもあると思われる。

 

 

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