ちくま文庫

俗なる世界に求めた平和

文庫版解説

本橋信宏さんは、広岡敬一さんの『ちろりん村顚末記』をどう読んだのか。5月刊のちくま文庫より解説を公開します。

 広岡敬一は戦後風俗ジャーナリストの始祖として燦然と輝く存在である。

 一九二一年(大正十年)六月二十四日、中国旧満州新京市(現在の吉林省長春市)生まれ。戦時中は陸軍航空隊に所属、写真班に配属され撮影技術を学ぶ。後にこのときの技術が広岡敬一の身を助けることになる。終戦直前は特攻隊に転属となり、特攻死を遂げる若き隊員たちの写真を撮ることになる。

 現在、私たちが写真で目撃する出撃前の水杯を飲み干す神風特攻隊員たちの悲壮な姿は、広岡敬一がシャッターを押したものかもしれないのだ。

 戦後、大陸から引き揚げた広岡青年は、陸軍時代の写真班で身につけた写真技術で吉原の流しの写真屋となる。

 終戦直後、カメラもフィルムも高額な時代、こんな職業が成り立った。その後、〈夕刊紙記者となり、写真部員のかたわら文化部記者として夜の穴場情報を手がけ始めた。〉

〝穴場〟という隠語もいまとなっては懐かしい死語であろう。赤線、青線、たちんぼ、トルコ風呂、といったカネを払って女と遊ぶスポットのことを穴場と呼んだ。女をイメージさせる〝穴〟という隠語と、表に出てこない秘密の場所という意味である。

 広岡青年はカメラを片手に穴場を探訪し、フリーの週刊誌記者として風俗業界を取材するようになった。

 広岡敬一のような大正末期世代は太平洋戦争の主力となった若者たちであり、死亡率も高かった。この世代には男権主義とともにどこか虚無的な匂いが漂う。ファインダーの中の若者が数日後、敵艦に体当たりして散華するという、過酷な体験を経てきた広岡青年の胸にもニヒリズムが去来したのではないか。

 特攻隊員から花街の女へ――。レンズ前の被写体が変わりながら、広岡青年は俗なる世界に平和の証を求めたのではないか。

 本書は滋賀県大津市雄琴苗鹿町の田んぼの中に突然出現した一大トルコ地帯、「雄琴」のトルコ風呂を取材執筆した貴重な風俗ドキュメントである。

 トルコ風呂は日本独自に発展した買春産業だ。一九五八年(昭和三十三年)に施行された売春防止法によって、不特定多数の男性と金銭を媒介にした性交は禁止された。

 トルコ風呂(現在はソープランド)はもともとスチームバスの一種トルコ風呂というサウナ風呂から発展したものであり、客の汗をふくためサービスする女性をミス・トルコと呼んだ。サービスはエスカレートし、手でこすったり(おスペ)、とうとう性交(本番)までするようになった。

 かくしてトルコ風呂=本番風俗店という日本独自の性産業が発達する。

 法律で本番行為は禁止されているので、あくまでもスチームバスに入るのを目的とするために、個室には決して使われることのないばかでかいスチームバスが鎮座し、入浴料を店側に払い、個室でトルコ嬢に客から自発的にサービス料を払うことで、店は一切関知していない、という建前をとった。

 トルコ風呂が無くならなかったのは、この性産業が無くなると困るのが警察をはじめとした消防署、市役所、教職員というお堅い職業の男たちだったからだ。カネで割り切って遊べるトルコ風呂はまさに熱き血潮たぎる警察官、機動隊員たちにとって無くてはならぬ存在であり、素人に手を出してもめ事になるよりははるかに安全だった。

 二〇〇〇年(平成十二年)沖縄サミットのとき、沖縄ソープ街は連日深夜まで客の行列ができた。客のほぼ一〇〇パーセントが、警備のために全国から集められた機動隊の精鋭たちであった。

 本書では、一九七一年(昭和四十六年)、雄琴に第一号店が誕生したころから八〇年代になる手前までの雄琴をルポルタージュしたものであり、トルコ風呂がもっとも興隆を極めた時代を切り取っている。

 雄琴という田んぼの中にできたトルコ街は大方の予想を裏切り大発展した。七〇年代に花開いたモータリゼーションの波とうまく合致したのだ。前述のようにお堅い仕事の男たちが街中で知り合いに会う危険性も、人里離れた雄琴なら避けることができた。

 一九八一年(昭和五十六年)上映『の・ようなもの』(森田芳光監督作品)では主演の秋吉久美子が美貌のトルコ嬢エリザベスを演じ評判となった。

 秋吉久美子のような虚無感を漂わせたちょっといい女、というのは八〇年代稀にだがトルコ嬢に混ざっていた。エリザベスは「雄琴に行くわ」と言い残し、東京を去って行く。雄琴は稼げるらしい、という情報を得てのことだった。

 エリザベスが雄琴に向かったころ、まさしく本書が書き始められた。そのころから〈すでに不況のかげりを見せはじめて〉いたのだったが、まだ全国のトルコ嬢にとって雄琴は稼げる楽園であった。

 本書では、〝ヒモ〟といういまではあまり見かけなくなったトルコ嬢に欠かせない男の存在も詳しく書かれている。

 ヒモとはトルコ嬢に寄生する男たちのことであり、多くは正業をもたぬやくざであったり、まったく仕事をしない男たちであった。彼らは昼間からパチンコと麻雀で時間をつぶし、トルコ嬢に買ってもらったアメ車(八〇年代はベンツよりアメリカ車が流行していた)でトルコ嬢を送り迎えした。

 私も何人かヒモを見たことがあるが、皆顔色がわるく、髪がぼさぼさ、覇気が無かった。

 トルコ嬢は自分の体ひとつで稼ぐので、感覚が男性的であり、わたしが食わせてあげる、という意識が強い。かくて弱気の虫といった男たちがヒモに選ばれる。

 私も独身時代の最後に吉原ソープ嬢とつきあったことがあった。男の矜持としてけっして彼女におごらせなかったが、私の誕生日プレゼントには金額が一ケタ多いブランド物の財布や男性化粧品を平気でくれるのだった(いまごろどうしているのだろう)。

 ところで、トルコ風呂からソープランドという名称に変更された理由はなんだったのか。

 きっかけは一九八四年(昭和五十九年)のある出来事だった。

 一九八一年(昭和五十六年)、トルコ共和国から来日した留学生ヌスレット・サンジャクリ(当時二十七歳)は東大地震研究所で地震計測の研究をしていた。親切な日本人に感激していたヌスレット君だったが、「トルコから来た」というと、日本人は意味ありげに笑う。街中でしばしば「トルコ」の文字を見たり、電車内で「トルコ」の記事を見かけるので、母国が日本でも関心を示されているのかと思った。トルコは親日家が多い。新宿を散歩中、トルコ風呂というネオンを見て、いったい母国の名前のつく風呂とはどんなものなのか店に飛び込むと、ボーイと女性が出てきて歓待された。トルコから来た留学生はやっと、トルコ風呂がどんなことをする場所なのかわかった。そして憤った。

 一九八四年(昭和五十九年)、ヌスレット君が再来日したとき、日本の各方面にトルコ風呂という呼称を使わないように陳情にまわったが、一留学生の直訴で簡単に日本独自の風俗産業が名称変更するはずもなかった。ところが二人の人物が登場してから潮目が変わる。ヌスレット君は中東問題評論家だった小池百合子の協力によって、トルコ大使館と足並みをあわせ厚生省に訴えかけた。すると渡部恒三厚生大臣が聞き入れて名称変更の要望を業者に伝えた。トルコ業界は合法非合法すれすれの商売なので、お上の要望には素直に従う。

 かくしてトルコ風呂は使用自粛となった。

 小池百合子は後に自民党衆議院議員、渡部恒三は民主党に鞍替えし政界のご意見番となったことを思うと感慨深いものがある。

 一九八四年、新名称を公募することになると、新名称狂想曲が巻き起こった。日刊ゲンダイは「ルンルン風呂」なる新名称を紙面に打ち出し、週刊大衆は「ラブリーバス」、深夜テレビ「トゥナイト」は「ロマン風呂」、さらに「ハッスル風呂」「パラダイス風呂」「浮世風呂」等々、メディアが勝手に新名称を使うようになり百花繚乱の騒ぎになった。

 東京都特殊浴場協会が記者会見で発表した新名称は「ソープランド」だった。だがソープランドという新名称は不評だった。トルコ風呂に比べると、インパクトに欠けたり、清潔過ぎると言われた。だが呼びやすさが原動力になり、今では〝ソープ〟の名称で親しまれている。

 狂想曲には後日談がある。

〈「トルコに行ってくるよ」。前厚相の渡部恒三氏が、この春、小アジア行きを計画している。〉(朝日新聞朝刊 一九八五年一月二十五日)

 トルコ風呂名称騒動に決着がつき、お礼にとトルコ共和国が渡部前厚相を自国に招いたときの記事だ。当時、〝トルコに行く〟という意味は、本番セックスをやりにいってくる、という意味だった。

 お堅い朝日らしからぬ、シャレのわかるナイスな見出しだ。

 このころから政界のご意見番は突っ込みやすいキャラだったのだろう。

 広岡敬一という偉大な風俗ジャーナリストの名は、世紀をまたいだ今、忘れさられようとしている。

 私の知り合いの大手出版社の編集者は、生前の広岡敬一を知る貴重な証言者でもある。

 バブル期に入社した彼は、広岡敬一の風俗連載ルポの担当を任され、毎月、風俗ジャーナリズムの大御所とともに風俗地帯を取材した。

「おそらく広岡さんのような書き手のジャンルは近い将来なくなるとお考えだったのでしょう。私が現場についていくとそれは喜んでくれました。〝現場がすべてだよ、いまの編集者はなかなか面倒がって現場に来ない〟と嘆いてました。〝トルコ風呂の現場にだって、学ぶべきものはいくらでもあるよ〟ともおっしゃっていました。その言い方がスマートで押しつけがましくないのが広岡さんで、私は大好きでした。広岡さんは若いソープ嬢は好きじゃない。プロフェッショナルな女が好きでした。〝仕事できる子が少なくなった。プロのもてなし方が伝承されるといいんだがなあ〟とおっしゃってましたね。文体はどちらかというとギャグ的な文体ではなかったように思います。お歳でしたから、ちょっと古くてトラディッショナルな文体というか、〝かわいこちゃん〟なんて死語を平気で使うようなところがありました。でも老人にありがちな変な自慢話などしないし、おしゃれでベレー帽かぶって、フィッシングベストを着てる、小柄でチャーミングなご老人でした」

 二〇〇四年(平成十六年)六月二十一日、肺ガンのため死去。享年八十二。

 広岡敬一に可愛がられた新米編集者もいまでは五十代の辣腕編集長になった。

 時はうつろい、ソープ産業はリーマンショック後、不況の波を受け、デリヘルの攻勢、若者たちの草食化によって客足は鈍り、苦境に立たされている。

『ちろりん村顛末記』はトルコ風呂のもっともよき時代の証言でもある。

 書名は知られていながらなかなか入手できなかったこの幻の名著は、今回ちくま文庫に収録され、命脈を保ったのである。

 

関連書籍

こちらあみ子

広岡 敬一

ちろりん村顛末記 (ちくま文庫)

筑摩書房

¥ 886

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入