遠い地平、低い視点

【第45回】人を介する事実

PR誌「ちくま」3月号より橋本治さんの連載を掲載します。

 私の机の後ろの本棚には、阪神・淡路大震災関係の本が十冊くらい並んでいる。大震災の翌年くらいにサイン会で神戸へ行って、神戸ローカルであるような当事者の声を集めた本が書店に並んでいるのを見て、「東京じゃ買えないかもしれない」と思って買って来た。それ以来、目につくと時々開いて見ている。別に震災の起こった時期に限ったことではなくて、いつも。そうしないと忘れてしまう。
 阪神・淡路大震災の起こった十六年後、東日本大震災が起こって、その衝撃の大きさで阪神・淡路の方はうっかりすると記憶からはみ出してしまう。人間の脳だから「記憶が薄れる」はあって当たり前だけれど、やはり「忘れてもいいもんかな?」という気があるので、時々棚から出して見ている。
 この間も「今月が阪神・淡路の月だ」という意識もなく、震災から復興しようとする市民の声を集めた本を拾い読みしていて、あることに気がついた。そこに載せられている白黒の挿入写真が、戦後日本の廃墟から立ち上がろうとする日本人達の姿にとてもよく似ていたのだ。
 阪神・淡路大震災は終戦から五十年目の年に起こって、その時の被災者の顔はテレビのニュース映像などでよく見て記憶に残ってはいるけれど、五十年も前の終戦時の日本人の顔と一つにはならなかった。ただ、水道が停まってしまった町の人々が川に下りて洗濯をしていた光景が、終戦当時か、あるいはその前の米軍による空襲後の光景を思い出させた。といっても私は戦後の生まれだから「思い出しうる当時の記憶」という持ち合わせはない。
 しかし、二〇一八年になって改めて見た写真で思ったのは、「変わらぬ光景」ではない。日本人の「変わらぬ表情」だ。全員が一斉に大きすぎる困難に叩き落とされた時の「それでも頑張ろう」とする日本人の表情は、五十年たっても変わらない。カメラを引けば「大悲劇」はいくらでも広がっている。でも、そこにいる当事者達は、悲しむでもない、怒るでもない。ただ淡々と「なすべきこと」をしている。「なぜ変わらないんだ?」と思いたいくらいに、日本人のその表情は変わらない。もしかしたらそれは、日本人の前向きなメンタリティとか達観というものとは、少し違うものかもしれない。
 米軍の大空襲で東京が焼け野原になる二十二年前――一九二三年の関東大震災で東京は壊滅状態になっている。太平洋戦争の東京大空襲と関東大震災は、普通一つの括りで考えられない。原因が違うからかもしれないが、東京が一面の焼け野原になって多数の死者が出たことは変わらない。両者の間の時間的隔りも、二十二年しかない。関東大震災は大正の出来事で、東京大空襲は昭和の出来事だという一線を普通は引いてしまうけれど、その間隔は二十二年。三十歳で関東大震災に出会った人間が、五十二歳になって同じ東京で再び「一面の焼け野原」を経験するということは、かなり当たり前にあったはずだ。原因は違っても「あーあ!!」という結果は同じことだ。一方、阪神・淡路大震災から東日本大震災まで、たった十六年しかない。その間にも、その後にも、各地で大災害は起きて、人は命や家財を失っている。日本はそういう国なのだ。最近になって天災が多発しているわけではない。
 私が関東大震災のことをリアルに感じたのは、小学校低学年のことだった。今では「防災の日」と言っている関東大震災の起こった九月一日を、その頃は「震災記念日」と言っていた。その以前から私は「震災記念日」という言葉を聞き知っていたが、自分の生まれるずっと前のことなんか関係がないと思っていた。正直言えば煩わしかった。関東大震災の前に終戦というめんどくさいものもあったし。私はそういうことを気にするへんな子供でもあった。
 ところが小学校低学年のある震災記念日に、母親が突然「関東大震災は本当におそろしかった」と話し始めた。私相手にではなく、自分の妹である叔母に対してだったかもしれない。私の記憶によれば、「激しい揺れが来て、棚から物が落ちて、魚を焼いている七輪コンロが倒れて一面の火事になった」というような話だったと思う。「隅田川に大量の焼死体が浮いていた」という話もあったと思う。私の母は私と同じ東京生まれの東京育ちだから、彼女が語る関東大震災の話はリアルに響いた。それで、学校の帰りに「今大地震が起きて地面が割れたらどうしよう?」などということを考えたが、よく考えたらそれは、母が直接に見聞きした事実ではなかった。関東大震災が起こった時、私の母親もまだ生まれてはいなかったのだから。
「知らないけど知っている事実」というものはある。直接に人を介して知ったことは、リアルに「事実」となる。同じ子供の頃、「親戚の某婆ァさんは安政の大地震を知っている」という話を聞いて、その昔を垣間見たような気になった。

PR誌「ちくま」3月号